火曜日, 10月 07, 2008

狛犬さん 602

2008.09.14 大阪府池田市木部町 伊居太神社
 御祭神は 穴織大明神・応神天皇・仁徳天皇
 由緒書によりますと
 
人皇十六代応神天皇二十年己酉秋九月
  日本国に漢の直太祖後漢の霊帝四代の孫 阿知使主
  その子都加使主 十七県の部下を卆いて帰化した
  そこで天皇の三十七年丙寅春二月 天皇思召して 
  天下人民衣服裁縫の術を知らず 春夏秋冬の衣服が作れなかった
  いま呉国には立派な縫工女が居ると聞き 勅使として
  阿知使主 都加使主に命じて 呉国に縫工女求めようと考へられた
  二人は勅使となって 呉国へ出発した
  先ず高麗国に渡ったけれど それから先 呉国への道を知らなかったので
  高麗王に願い 久禮波・久禮志の二人を 道案内者として選んで頂き
  漸く呉国に事故もなく到着した
  呉王は工女兄媛・弟媛・呉織・漢織の四人の婦女を與へられたのである
  今の世に呉をくれと読むのは 道案内者久禮波・久禮志の名を
  かたどったものである二人の功績を 忘れないためである
  同天皇四十一年春二月阿知使主等は 筑紫へ帰へり着いた時に
  胸形の大神が工女を乞はれたので 兄媛を差し上げられたは
  残り三人の工女を連れて 津の国に帰着し 
  以来呉衣縫蚊屋(アヤ)衣縫と云はれて居る由因は是である
  呉織は呉の人であり 漢織は漢の人である
  この二人は 呉服の里に居住されたけれど 
  弟媛は何庽に居られたが 明らかでない
  二十二代雄畧天皇の時代にも 呉織・漢織・兄媛・弟媛が
  来日して居るけれど 此れは耺名であり 異人である
  応神天皇の時代の前から 衣服裁縫の技が明かでなかった 
  この二媛の教へにより 天下の婦女が裁縫の術 機織の術を教えられ
  四季の衣 春秋の衣服 上下の服装を教へられた
  その功により天皇は宮中に縫殿寮を設け 縫部司縫女部を設け
  二女を祀られたのである
  これより先 麻をつむぎ 蚕を飼い 桑の皮をつむぎ 麻の皮から
  織物を作っていたのであるが 二媛の教へにより
  呉織蜀錦等綾羅錦綺の衣服ができるようになったのである
  今 呉服尺・呉竹・呉藍・生姜等 此時に持帰へれるもので
  呉橋・牙床等も此頃に 呉国から我国に入り呉国の文化が広まった
  二媛は一室にこもり その身に光明があり ひたすらに機織と裁縫に
  従事され 百余歳の高令まで我国の文化の興隆に貢献され
  此地に絹掛の松・染殿井・絹舒の里・唐船潭等の地名が残るのも
  当然のことと思はれる
  此の二媛が他界されたので 仁徳天皇は 七十六年九月十八日に
  衣服裁縫の功績を稱へるため 桊上の社・桊下の社を建立し
  両媛の功績をたたへ 降世までその功を忘れない様に残され
  世の人々は文化発祥の神として 代々お祀りを続けたのであります

     (上記の文中 どうしても見つからない文字があり 
      それに関しては 私の判断で 似た文字を使用しました)
 鳥居の額には 穴織大明神と書かれています
 舞殿の前にいた狛犬さんですが 製造年代等は わかりませんでした

 舞殿のまえに 先がこのような鉾が 左右に置かれていました

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