木曜日, 11月 17, 2011

狛犬さん 1134

2011.10.04 広島県福山市北吉津町 艮神社
 社殿の周りをまわっていると 御本殿の傍に
 詳細は不明ですが 狛犬さんがいました
 反対側にいるはずの阿形は 
     残念ながら写せませんでした

水曜日, 11月 16, 2011

狛犬さん 1133

2011.10.04 広島県福山市北吉津町 艮神社
 鳥居をくぐり階段を上がって行くと隋神門があります
 外に向っては隋神達が座っておりますが
 門を後ろに回ると こんな可愛い狛犬さんたちが
  座っていました

 狛犬さんの詳細については不明です
 吽形は 写真よりもっと黄色です

火曜日, 11月 15, 2011

狛犬さん 1132

2011.10.04 広島県福山市北吉津町 艮神社
 境内の説明板によりますと
  
艮神社御由緒
   御祭神 須佐之男命 伊邪那岐命
   沿革 当神社は平安時代、福山が藤原家の
    荘園として栄えていた当時(天永年間 
    西暦一一〇〇年頃)須佐之男命を祀る
    「牛頭天王社」として今の木之庄に
    建立されており、(牛頭とは須佐之男命の呼称)
    建武元年(西暦一三三四年)今の地に
    伊邪那岐命を併祠の上、遷座し当時の集落の
    中心地吉津、木之庄、本庄、奈良津、千田
    各郷一帯の産土神(秋津洲神社)と改称された
    旧福山最古の神社であります。
    降って、水野勝成公福山築城(元和五年
    西暦一六一九年)に際しては城郭の鬼門・
    艮の方位(東と北の間)を鎮める守護神
    「秋津艮大明神」と称えられ天和三年
    (西暦一六八三年)水野勝種公の諸社殿の
    寄進を始め、度々造営修復がなされ、
    御社頭益々殷盛を極め、明治以後は
    現在の御社芽衣「艮神社」となり、北吉津
    町を始め三十八カ町約五〇〇〇戸の氏神、
    又広く福山地方一円の鬼門守護神、
    厄除神として崇敬されております。
       だそうです
 
 鳥居(正徳六年製)のすぐ後ろに居ました
 阿吽共に頭に小さな角様のものが付いていました
 台座には 嘉永己酉 黄鐘上旬 片山義恭
 最後の「片山義恭」は奉納者のお名前でしょうね
 「嘉永己酉」は嘉永二年(1849)です
 「黄鐘上旬」黄鐘は11月の異称だそうです
   即ち 11月上旬の事ですね
 しかし「黄鐘」は雅楽に使われる楽器の事で
 「こうしょう」とか「おうしき」とか呼び方が
   あるようです

月曜日, 11月 14, 2011

狛犬さん 1131

2011.10.04 広島県福山市北北津町 渡邉神社
 神社の前に 「御番所跡」の石碑があります
 境内の説明板によりますと
 
吉津御番所由来記
  吉津御番所は、旧山陽道より横尾を経て
  福山城下に入る重要な拠点であった。
  福山城主阿部備中守正邦公、宝永七年(一七一〇)
  役人を配して御番所を設置し、通行人の
  監視体制を敷いた。
  其の御番所役人を明治四年(1871)
  廃藩置県発令迄勤めたのが渡邉家である。
  其の渡邉家は、往古千百年前、嵯峨天皇の
  皇子左大臣源融より五代目渡邉綱が
  摂津の渡邉荘に居を構へたるに依り、
  姓を渡邉と称し、これ即ち渡邉の祖なり。
  渡邉綱は源頼光の四天王の一人で羅生門の
  鬼退治に勇名を馳せ、歴史上に名を
  残した人物である。
  渡邉綱より十数代を経て、渡邉四郎兵衛持の
  代に足利尊氏に従ひ九州の菊池家との戦に
  大いに戦功あり、其の賞として備後国山田荘
  (今の福山市熊野町)を賜り地頭職を授かり、
  以後実に貳百七十年間に亘り、此の地に
  居住した渡邉四郎兵衛持より六代目
  渡邉越中守兼は、山田荘の黒木山上に
  城を築き一乗山城と称し城主と成り、
  近隣に威を揮い次第に勢力を強め
  備後国に於ける屈指の豪族となった。
  更に三代目渡邉民部少輔景の時に、関ヶ原の
  合戦に石田三成の軍に赴き戦破れて一乗山城を
  徳川方に明渡し、浪々の身となった處が、
  元和五年(1619)に水野勝成公
  福山城主と成り赴任さるるに及び、渡邉家の
  没落を伝え聞き渡邉家はその昔より備後国の
  名門の家なれば一族を召しだし、各々に
  扶持を与へ水野家の家臣とした處が、
  水野家は五代にして世継なく御家改易と
  成りしが、宝永七年(1710)
  阿部備中守正邦公福山城主に封ぜられ、
  渡邉一族は阿部家に仕へる事と成り、
  一族の内渡邉利八は道三町に屋敷を賜り、
  阿部家の家臣と成り後、吉津町御番所の
  役人を命ぜられ、以後代々の同役人を
  明治四年廃藩置県迄勤めた時当主渡邉吉三郎は
  御番所役職を返上し、一町民となり
  製綿業を営み生活する事と成り、同長男傳七は
  父の業を継ぎしが、明治四十二年(1909)
  製綿業を廃し鉄鋼原料問屋に転業し、其の
  長男渡邉泰輔は父の業を継ぎ、次第に
  業績を高め、昭和三十三年(1958)に
  本店を大阪に移し支店を東京・名古屋・姫路・
  岡山・九州八幡に設置し、全国的に業容を
  拡大し今日に及ぶ。
      平成二年八月吉日
    だそうです
 
 隋神門の格子の中にいた狛犬さんたちです
 陶器ですが 窯元は何処なのでしょう
 詳細については不明です

月曜日, 10月 17, 2011

狛犬さん 1130

2011.10.04 広島県福山市丸の内 備後護国神社
 翌日が雨の予報が出ていたので
 少し無理をして 護国神社に来ました
 木々の茂っている所では かなり足元が暗くなり
 写真が撮れるかどうか心配でしたが
 なんとか取ることが出来ました
 
 残念ながら 狛犬さんの詳細については不明です
 吽形の頭には 角がついていました

日曜日, 10月 16, 2011

狛犬さん 1129

2011.10.04 広島県福山市丸の内 備後護国神社
 境内の説明板によりますと
  
備後護国神社 御由緒 御神徳
   当神社は、昭和三十二年まで阿部神社と
  称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を
  合祀した備後護国神社と合併して、社名を
  備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。
   阿部神社の建立は、文化十年(西暦一八一三年)に
  時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
   御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を
  始め歴代藩主をお祀りしてあります。
   御神徳は、御祭神のご功績によるもので、大彦命の開拓・
  平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。
歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として
  国旗(日の丸)を制定され、嘉永六年(西暦一八五三年)
  ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、
  福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた
  教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の
  神として信仰されています。
      
    だそうです

 武道館のある南側からお宮さんに入って行きましたが
 夕方だったので 柔剣道の稽古の小学生たちが
 沢山集まってきていました
 南側の門の手前に居ました

 

土曜日, 10月 15, 2011

狛犬さん 1128

2011.09.22 愛媛県松山市北斉院町 福水神社
 境内の説明板によりますと
 
福水神社の由緒
  御祭神 高皇産靈神(タカミムスビノカミ)神皇産靈神(カムミムスビノカミ)
      生皇産靈神(イクミムスビノカミ)
      魂?(凶の下に田)皇産靈神(タマミムスビノカミ)
      足皇産靈神(タルミムスビノカミ)
  このお社は、昔神功皇后さまも三韓(今の朝鮮半島の
  中にあった三っの国)を征し給ひてお引上げの後
  應神天皇さまをお産みあそばされて御東上のせつ
  此の地に船を寄せられまして湯水を奉る。
  里人福水神社と申し上げる様になりました。
  その後越前守為時郷の女一子なきを心配なさり
  神様にお祈りして一子を得んと立願しましたら
  伊予の福水の神に祈るべしと夢をみられて
  そのことの如くにしましたら則(タチマチ)に懐妊ありまして
  立産の森(今の奥の院)の土をとりて産屋にしき給ふれば
  月満ちてより安く女子を出産されました。
  成長するに従ひ知識萬人に超え東門院の女房紫式部
  その人であった。以来安産守護の神として崇敬厚く
  これによって御産所の地名がうまれたのです。
  立産の森の旧跡に五柱の神の鎮座地というところに
  五つの大石がのります。河野家代々懐妊あれば
  必ず奉幣あったということです。
  立産森の旧跡(奥の院)は当社の東え五〇〇米坂を上って
  小高いところにあり眺めのよいところです。
   
 だそうですが 境内を探しましたが奥の院への道は
  見つかりませんでした

 狛犬さんの台座に 平成三年(1991)十一月吉日
   と刻んでありました

金曜日, 10月 14, 2011

狛犬さん 1127

2011.07.19 滋賀県東近江市垣見町 能登川神社
 御祭神は 事代主神
  
御由緒
   御祭神事代主命は往昔より垣見地区の
   産土神天神社に祀られていたが
   明治初年能登川駅開設に伴い
   駅前町を形成するに及び駅前一帯(現在の本町区)の
   氏神として勧請したものである
 

 境内に 恵比須様の石像がありました
 しかし 「産土神天神社」と言う一文から行くと
 御祭神は 菅原道真公も祀られているのではないかと
 思いますが 調べた限りでは 事代主命だけでした

 狛犬さんの詳細は不明です

木曜日, 10月 13, 2011

狛犬さん 1126

2011.06.17 神戸市北区有馬町 有馬天神社
御祭神は菅原道真公
由緒
当社の創建は「神社明細書」に
「有馬温泉の艮の方位にありて
菅原道真公を祀る」円融天皇天元2年(979)4月
京都北野天満宮より勧請す
温泉鬼門除け守護神として奉祭せり
建久3年(1192)9月再建
傍に蘭若院阿弥陀坊を建立し住僧代々奉祀せり
寛正4年(1463)4月13日火災の為焼失す
同年6年(1465)仮殿建設
明治5年無住となり寺院廃止…(略)…
昭和23年(1948)秋 温泉の湧出量減少に依り
境内地に源泉を掘り 以来80余度の温泉の湧出を得て…」
と記されている

当有馬温泉地区は 過去に 水害や落雷による火災により
大きな被害を蒙ってきたので 災除け・鬼門祓いの神として
建立され、温泉街の厄除け神社として厚い信仰を受けてきた

本殿は流れ造りで、各3坪の幣殿・拝殿と5坪の社務所があり
境内には倉稲魂命・素盞嗚命を祀る稲荷神社がある
また 天神泉源と呼ばれる有馬温泉の泉源があり
98度の熱湯が吹き出し湯煙を上げており
観光客にも親しまれている。
だそうです

狛犬さんの詳細は不明です
小振りですが 良い表情の狛犬さんたちです

















天神泉源の泉質は金泉(含鉄・ナトリウムー塩化物強塩高温泉)
温度は98度
深さは206m
だそうです
お宮さんの階段まで 赤錆びた色に染まってしまっています

金曜日, 10月 07, 2011

狛犬さん 1125

2011.06.17 神戸市北区有馬町 有馬湯泉神社
 境内の説明板によりますと
  
湯泉神社
   有馬温泉を発見したといわれている
  大己貴命と少彦名命などの神々がまつられています。
  子宝が授かる神様として知られています。
  有馬温泉の守護神として親しまれており、
  温泉神社とも呼ばれている。
      そうです

 又由緒書によりますと
  
湯泉神社御由緒略記
  当社が日本で最も古い社の一つであるという事と
  有馬が日本最古の温泉場である事とは
  起原を一にしているといってよい。
  六甲の山懐に有馬温泉が発見され
  そして人々の営みが始まった。と同時に
  当社が奉祀される事になったという推測は
  容易に成り立つがそれは一体いつの頃だったのだろうか。
  神代の昔、大己貴・少彦名の二神が
  当温泉を発見されたと伝えこの両命を
  温泉守護の神として祭ったのが当社の創始である。
  崇神天皇の七年(西紀前九〇年)には既に当地に、
  「定置 神戸」とあって当社の存在が確認されている。
  舒明・孝徳の両帝は有馬に入湯あって日々当社に
  参拝をなされ平癒の早からん事を祈られた。
  延喜式神名帳には「温泉神社・大・日次・新嘗」と
  最高格式の式内大社として登載されている。
  安元二年(1176)後白河法皇は建春門院と共に
  来山され当社に奉拝祈願されたが供奉の按察使
  源資賢は次の詠歌を広前に奉納した
   めづらしきみゆきを三輪の神ならば
     しるし有馬のいでゆなるべし
  建久二年(1191)、仁西上人有馬中興の由伝ありて
  以後熊野三山の影響を強く受くる事となり、新たに
  熊野久須美命を勧請併祠するに及び「温泉鎮護三神」と
  称されるようになった。
  藤原定家の明月記に「建仁三年七月権現社に詣ず」
  とあるがその長子為家も当社に詣で次の歌を詠した
   有馬山君の御幸もとしふりぬ
     たのむしるしを神もあらはせ
  江戸の初期からは明確に神仏習合の存在となり
  真言の当社々僧が温泉寺別当を兼ねる事となったが、
  この両社寺の不即不離の関係も明治維新の廃仏毀釈により
  終止符を打つこととなった。
  現在の本殿・拝殿は寛政十年(1798)の
  再建になるものだが狭隘な旧社地(石段下)から
  愛宕山々腹を開拓整地した現社地に
  明治十七年(1884)遷座され現在に至っている
    跡たれていつとしここに有馬山
      杉のしるしの三輪の神垣   頓阿法師
    跡たるる有馬の山も三輪の神
      しるしの杉のたちと尋て   烏丸光廣
    めつらしき御幸を三輪の神ならん
      すくな彦なの恵をそしる   徳川義直(尾張)
        だそうです

 湯泉神社 御祭神
  式内社 湯泉神社  
      少彦名命 大己貴命 熊野久須美命
  摂社  天津神社(南ノ小宮)
      春日大神 天照大神 八幡大神
  摂社  國津神社(北ノ小宮)
      安徳天皇 豊受大神 熊野十二神
  摂社  金刀比羅神社
      稲倉魂命(稲荷神) 大物主命
       阿遇突知命(愛宕神)
  摂社  胸形神社(弁天社とも云)
      多岐都姫命 市杵島姫命 多紀理比賣命
  摂社  水天神社 神地・御旅所
      安徳天皇 大己貴命 熊野十二神

 狛犬さんの台座には
   文政元寅年(1818)
     八月吉日
   と刻まれていました
 吽形の頭には 角を想わせる小さな突起がありました

金曜日, 9月 23, 2011

狛犬さん 1124

2011.05.15 高知県高知市薊野中町 掛川神社
 境内の説明板によりますと
  
掛川神社
   江戸時代の寛永十八年(一六四一)、
  第二代藩主山内忠義が、その産土神であった
  牛頭天王を遠州掛川(静岡県)から
  勧請して、高知城東北の鬼門守護として
  建立したのがはじめである。以来、
  代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治
  元年(一八六八)元社名に改称した。
   合祭神社中瀧宮神社、海津見神社は、
  現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも
  明治三十二年(一八九九)合祭した。
   東照神社は延宝八年(1680)、
  四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが
  始まりで、文化十一年(一八一四)には、
  十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し
  東照大権現と称していたが、明治元年
  東照神社と改称、明治十三年(一八八〇)
  合祭した。祭神が徳川家康であることから、
  県下の神社では唯一、社殿の軒下や
  手水鉢に徳川家の家紋”三つ葉葵”が
  つけられている。
   社宝として、国の重要文化財に指定されている
  「糸巻太刀 銘 国時」(山内忠義奉納)、
  「錦包太刀 銘 康光」(山内豊策奉納)がある。
  いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
   飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。
      薊野コミュニティ計画推進市民会議
      高 知 市 教 育 委 員 会

 由緒あるお宮さんですが 境内に新聞の切り抜きが
  貼ってありました
 「山内家ゆかり寛永18年建立
   掛川神社(高知市)老朽化でピンチ」
 改修へ浄財集めの記事でしたが
 発行月日は 2009年11月18日
 改修には約4000万円ほど掛るそうです

 台座に 昭和三年(1928)三月吉日
  比島
   竹内茂喜
      彫刻
   と刻まれていました


 

木曜日, 9月 22, 2011

狛犬さん 1123

2011.05.15 高知県高知市比島町 濱田神社
 御祭神等詳細は不明です

 狛犬さんの台座に
  大正治十四年(1925) 三月吉日
    と刻まれていました


 

水曜日, 9月 21, 2011

狛犬さん 1122

2011.05.15 高知県高知市比島町 清川神社
 御祭神は 長曽我部元親 野中兼山 薫的和尚
    だそうです
 薫的和尚に関しては 二年ほど前に薫的神社で
 ご紹介しています
 長曽我部元親は 戦国時代に四国で活躍し
 一時期は 四国全土を平定したとも言われる
 しかし 秀吉に敗れ 土佐一国のみ安堵される
 関ヶ原の戦いで西軍に味方し 長曽我部家は
 改易となってしまい 歴史の表舞台からは
 姿を消してしまいます
 野中兼山ですが 江戸時代初期に藩政改革を
 行った人物です 藩財政は好転しますが
 過酷な年貢の取り立てや 華美贅沢の禁止
 身分を越えた取立て等に不満が集まり
 晩年は失脚してしまいます
 兼山の死後 残された子供たちは 過酷と言うか
 残忍と言うか 男系が絶えるまで 幽閉され続けます
 娘たちのみになり 解き放たれたのは
 兼山の死後 40年経ってからだそうです
 この話 どこかで読んだような気がして
 本棚を探しましたが 行方不明になっています
 「婉という女」 大原富枝 です

 創建はわかりませんが 御祭神から推測すると
 江戸時代初期から中期以降でしょうね
 
 阿形は 小さな珠を口にくわえています
 製作年代等の詳細は不明です

 

水曜日, 9月 07, 2011

狛犬さん 1121

2011.05.15 高知県高知市比島町 田内神社
 お社は 四社熊野神社のすぐ横に
  鎮座しています

 このお宮さんは 土佐 阿波 讃岐 伊予
 の名族 田内家に連なる人々が合同で
 お祀りしてあるそうです
 どこの御家でもでしょうが 
 この田内家も面白い歴史があるようです
 徳島県東祖谷の大剱神社の縁起書に
 「平家の家臣である田内左衛門丞教能が
 安徳天皇と平家の残党を先導し
 この地に至り云々」と言う記述があるそうです
 四国全体に 田内とか田野内等の地名も
 残っているそうです
 田内氏は たうち たのうち でんない(傳内)
 と呼ばれ 第八代孝元天皇より出て 武内宿祢の子
 蘇我石川宿祢の子孫にあたるとか

 御社の前にいた狛犬さんたちです
 阿形の台座に 大正十四年(1925)十一月吉日
    と刻まれていました
 この狛犬さんたち 阿形と吽形でデザインが違います
 作者が違うのでしょうか それとも年代が違うのでしょうか

火曜日, 9月 06, 2011

狛犬さん 1120

2011.05.15 高知県高知市比島町 四社熊野神社
 最後の狛犬さんたちです
 台座に 嘉永元年(1848)戌申皐月良辰
    と刻まれていました

月曜日, 9月 05, 2011

狛犬さん 1119

2011.05.15 高知県高知市比島町 四社熊野神社
 このお宮さんの二つ目の狛犬さんです
 台座に 大正十一年(1922)二月吉日
   と刻まれていました

日曜日, 9月 04, 2011

狛犬さん 1118

2011.05.15 高知県高知市比島町 熊野・四社神社  
御祭神は 丹生都比売大神 高野御子大神    
大倉都比売大神 市杵島比売大神等        
だそうです  
四社神社は 正保四年(1647)に紀伊国伊都郡   
高野山の四社権現を勧請したものだそうです  
熊野神社は何時勧請されたかは不明のようです   
小津神社(熊野三社権現)の別社だとか    
正覚院の僧侶が紀州熊野より 勧請したと言われているそうです      

鳥居をくぐってすぐの所にいました     
大正十一年(1922)七月吉日  
 

水曜日, 8月 31, 2011

狛犬さん 1117

2011.05.15 高知県高知市一宮 東天神社
 境内の説明板によりますと
 
東天神社
   鎮座地は、『土佐郡一宮村合社帳』
  (明治三(一八七〇)年四月)によれば、
  土佐神社艮寅(北東)方東ノ元の山
  上としていますが、近年まで現在よ
  り約百メートル東方の山腹に祀られ
  ていました。平成十(一九九八)年
  九月の大雨により、境内が緩み、崩
  壊の恐れがあるため、新たに宮地を
  造成。すべての建造物を移動の上、
  御神体をお遷ししました。
   かっては土佐神社の末社でしたが、
  現在でも東一宮の氏神様として親し
  まれています。春口は、境内が桜の
  花につつまれます。古い歴史のある
  社です。
   祭日は、六月二十六日と十一月二
  十六日です。
      一宮コミュニティ計画推進市民会議
      高 知 市 教 育 委 員 会
  だそうです

 狛犬さんの台座には
   昭和十一年(1936)一月吉日
      と刻まれていました

木曜日, 8月 25, 2011

狛犬さん 1116

2001.05.15 高知県高知市一宮西町 西天神社
 境内の説明板によりますと
 
西天神社
   御鎮座については不明ですが、
  土佐神社年表によれば、寛文十
  (一六七〇)年末社西天神社建立
  と記されていますので、古い歴
  史のある社です。社殿に天満宮
  の御紋の彫刻や、天満宮の表額
  が掲げられており、さらに祭日
  が二十五日の天神の日であるこ
  とから、菅原道真公をお祀りし
  た神社と考えられています。
   現在では、西一宮の氏神と
  して親しまれています。
   祭日は、六月二十五日と十月
  二十五日です。
     一宮コミュニティ計画推進市民会議
     高知市教育委員会 
     だそうです
 さらに別の石碑に
  
移転記念碑
   前岡 久安川の
  堤防敷に 鎮座せられし
  伊気神社様 五社神社様を
  河川工事の為にし天神社地に
  移転し永遠に安泰を祈念する
 とあります
 
 境内社としては 
  
乙女神社  子宝に恵まれ安産
        皮膚病・発疹平癒
        解願の時舞や絵馬が奉納された
  春野宮神社 家内安全・商売繁盛
        古くは前岡地区に鎮座
        両社ともに御祭神については未詳
        祭日は、六月二十一日と十月二十二日
     平成二十年九月吉日建造
           氏子一同

 移転したというお宮さんと境内社は
  関係ないのでしょうか
 
 入口にいた狛犬さんたちです
 台座に 大正十三年(1924)
     四月吉日
   と刻まれていました

 

木曜日, 8月 11, 2011

狛犬さん 1115

2011.05.15 高知県高知市一宮西町 白山神社
 本殿の前にいた狛犬さんたちです
 台座に 平成二年(1990)十月吉日建之
     と刻まれていました

 最近の狛犬さんには珍しく
  阿形の口に珠があり コロコロと動きます

水曜日, 8月 10, 2011

狛犬さん 1114

2011.05.15 高知県高知市一宮西町 白山神社
 一の鳥居の前にいた狛犬さんです
 
 台座に 大正三年(1914)
     六月吉日   と刻まれていました



















 阿形の後ろ脚に子犬がいます





 







 

 

火曜日, 8月 09, 2011

狛犬さん 1113

2011.05.15 高知県高知市一宮西町 白山神社
 境内の説明板によりますと
 
白山神社
   昔から北野地区の産土神で、
  明治元(一八六八)年三月改称の
  達しにより清野神社と称し、明
  治五(一八七二)年村社となりま
  した。その後、昭和五(一九三〇)
  年十月に白山神社にあらためら
  れました。
   現在は富士山、立山と共に日
  本三名山といわれている白山の
  白山比咩を主神に、大物主神
  大山祇神、伊氣の神、天の神を
  合祀しているとされ、地域の信
  仰をあつめています。
      一宮コミュニティ計画推進市民会議
      高 知 市 教 育 委 員 会
     だそうです

 お宮さんに上がる階段の下にいましたが
  狛犬さんでなくて 唐獅子ですね

日曜日, 8月 07, 2011

狛犬さん 1112

2011.05.15 高知県高知市一宮しなね 土佐神社
 神社の前にある説明板によりますと
 
土佐神社
  御祭神 味鋤高彦根神(一言主神)
   雄略天皇(五世紀後半)時代の創建で
  土佐の総鎮守である。
   現在の社殿は元亀元年(一五七〇)に
  長宗我部元親が再建したものであり、
  鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)が
  建立、再建したものである。
   本殿・幣殿・拝殿は明治三十七年
  (一九〇四)に、鼓楼は昭和九年(一九三四)
  に、楼門は昭和五十七年(一九八二)に
  国の重要文化財に指定されている。
   大祭である「しなね祭」は、毎年八月
  二十四・二十五日に行なわれ、多くの
  参詣人で賑わっている。
     だそうです

 土佐神社は土佐の国の一の宮
 地名も「一宮」と書きますが 読み方は「いっく」
 「しなね様」の語源に関しては 土佐神社のHP
  
旧暦七月三日の祭です 
  しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから
  風の神志那都比古から発したという説、
  新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する
  鍛冶と風の関連からとする説等があります。
   だそうです

 拝殿にいた狛犬さんたちです
 備前焼の狛犬さんたちですね

 吽形の狛犬さんには 播磨姫路住
             安川清泉造
 阿形の狛犬さんには 
  備前伊部住
   木村新七良
      貞清造
  と刻まれていました
 製作年代は 新しいもののように見えました

















 土佐神社のHPの御由緒には
  
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、
  境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、
  古代に遡ると言われています。延喜の制が布告された平安時代、
  醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、
  特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、
  朱雀天皇の御代天慶三(940)年には、神階を正一位に進ませられています。
  鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。
  当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。
  室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元(1570)年には、
  長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代
  後陽成天皇の御代慶長六(1601)年には、山内一豊封をこの地に享けると共に
  以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を
  増築して、土佐の国最上の祈願所としました。明治元年、神仏分離令により、
  永年続いた神仏習合時代が終わり、明治四年には土佐神社と改称、
  社格を国弊中社に列しました。戦後、昭和二十一(1946)年官国幣社の制度が
  廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。
 文中にある磐座(礫石)は これです

 石の前にあった説明板によりますと
 
礫石の謂れ
   古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、
   御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ
   宮を建て加茂の大神として崇拝る。
   或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて
   石を取りて投げさせ給ひ此の石のと
   落止る所に宮を建てよと有りしが
   十四里を距てたる此の地に落止れり
   と是即ちその石で所謂この社地を
   決定せしめた大切な石で古来之を
   つぶて石と称す。浦の内と当神社
   との関係斯の如くで往時御神幸の
   行はれた所以である。この地は
   蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は
   珪石で全然その性質を異にしており
   学界では此の石を転石と称し学問上
   特殊の資料とされている
     昭和四十九年八月
           宮司
      だそうです

火曜日, 8月 02, 2011

狛犬さん 1111

2011.05.14 高知県高知市朝倉 朝倉神社
 お宮さんに入っていったのは 横からだったので
 帰りは まっすぐ参道を通りました
 参道は 200mほどあるそうです
 参道を抜けたところ と言うより
  正式に正面入り口にあたりますが
 そこの鳥居の傍にも狛犬さんがいました
  
 台座には 昭和九年
      四月吉日
   石 石井上茂樹
   工 黒岩馬吉   剌
 「刻」かと思いましたが どう見ても「剌」
 「剌」には ①もとる そむく
       ②よこしま
       ③みだれる
       ④物の音のさま
  だそうですが まさか石工さんたちが「よこしま」だった?


         

月曜日, 8月 01, 2011

狛犬さん 1110

2011.05.14 高知県高知市朝倉 朝倉神社稲倉神社
 稲倉神社の御社のすぐ前にいた狛犬さんたちです
 台座には 平成九年(1997)五月吉日
    と刻まれていました

日曜日, 7月 31, 2011

狛犬さん 1109

2011.05.14 高知県高知市朝倉 朝倉神社忠魂社
 忠魂社は 戦争で亡くなった英霊が御祭神
 
 狛犬さんの台座には 大正八年(1919)
   と刻まれていました

 この狛犬さんのしっぽに特徴があります
 吽形の方は 渦巻きですが
 阿形のしっぽの先 宝珠を巻き込んでと言うか
  乗せているように見えます
 どちらも前足を岩の上に乗せたスタイルです 
 江戸風より高知西部風ですね

土曜日, 7月 30, 2011

狛犬さん 1108

2011.05.14 高知県高知市朝倉 朝倉神社倉稲神社
 このお宮さんの御祭神もわかりません
 倉稲魂神だとすると この神様もお稲荷さんとして
  祀られている神様ですね
 稲に関係のある 五穀豊穣を与えてくれる神様
  ですが あっているのでしょうか

 狛犬さんの台座には
   嘉永元(1848)
   申九月
    と刻まれていました

 嘉永元年生まれは 荒倉神社の狛犬さんと同じです
 よく見ると 石工さんも同じではないかと
  よく似ています
 かわいそうに阿形の方は 半分かけています
 きっと右足は岩にかけたデザインだったのでしょう

金曜日, 7月 29, 2011

狛犬さん 1107

2011.05.14 高知県高知市朝倉 朝倉神社荒倉神社
 山形県鶴岡市に荒倉神社があるそうです
 御祭神は 保食大神(うけもちのおおかみ)
       大冝津比売神(おおげつひめのかみ)
古伝によれば大国主大神、事代主神とともあるそうです
 それ以外に 京都府綾部市にも荒倉神社があり
 こちらの御祭神は 素盞鳴命

 もっと調べれば荒倉神社がありそうですね
 こちらのお宮さんの御祭神は 保食大神でしょうか
 それとも 素盞鳴命でしょうか

 保食大神は宇迦之御魂神と同一視され
 お稲荷さんとして祀られていることが多いですよね

 台座に 嘉永元年(1848)
     歳次戊申
     五月令艮←(この字に厂が付いています)

 この狛犬さんたちも江戸風ですね




















 この狛犬さんたちも子連れです
 吽形はしっぽの上に 阿形は前足の下に子犬がいます
 吽形の前足を岩?の上に置いているのも
   よく見かけるデザインです



   

木曜日, 7月 28, 2011

狛犬さん 1106

2011.05.14 高知県高知市朝倉 朝倉神社
 本殿の前にいた狛犬さんたちです
 高知西部の特徴の狛犬さんたちですが
 全体に関東風と言うか江戸風の
  特徴を感じます

 台座には 弘化
      四丁(1847)
      未年
      八月
      吉日
   と刻まれていました



















 前から見ると分かりにくいのですが
 吽形はしっぽに 阿形は足元に
 子犬を連れています












 

水曜日, 7月 27, 2011

狛犬さん 1105

2011.05.14 高知県高知市朝倉 朝倉神社
  境内の説明板によりますと
 
縁起式内社 重要文化財
  朝倉神社のあらまし
  朝倉神社は天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇を祭り
  福寿延命の神、文化の神治政の神であります。
  上古社の御山は開発の神である天津羽羽神の
  ヒモロギ(神体山)として御山全体を崇敬の
  対象として畏敬せられ、やがて文化に伴い朝日さす
  南東の麓より拝むべく現在の所に社殿を
  建てられたので此の赤鬼山こそが古代宗教の
  名残で県指定の史跡地で西南隅麓の古墳と共に
  ゆるがせに出来ない土地柄であります。天津羽羽神は
  古来より此処に鎮座まします国中稀な古社で、
  後の世の遷座とか御分神とかではなく極めて深い
  由緒をもち土佐の国風土記や、日本書紀等の古典にも
  載せられ、又延喜年間の神名帳にも国幣として
  登載せられた所諭式社であります。
  斉明天皇七年朝倉宮に行幸せられ仮の御殿を丸木で
  造られたので木の丸殿と申されました。
  御子天智天皇は「朝倉や木の丸殿に我居れば
  名乗りをしつつ行くはたが子ぞ」と御詠みになられて
  おります。そしてのち天智天皇の勅語により
  斉明天皇を朝倉の宮に合せ祀られたとの事であります。
  又土佐物語には朝倉神社の事と題し一巻を面白く
  物語っております。 当神社はもと勅願所で
  当時使用せられた勅使石は今に残って居りますし、
  又国の祈願所で正一位高加茂大明神橘の広庭の宮とも
  申しました。又武家の崇敬もあつく現在の社殿は
  二代忠義公が明暦四年(1658)に傾いたのを
  興されたものであります。建築は室町時代の手法を
  含む江戸初期の建物で、日本古来の様式に天竺の
  様式を加味して絶頂の技をつくし極彩色の
  ところなどは日光東照宮の例でその優美さは
  「馬に目かくしをしなければ・まばゆさに驚き通れなかった」
  と伝えられ地方には珍しい模範的建物であります。
  昭和二十四年(1949)二月十八日国宝に指定され
  同二十五年八月二十九日重要文化財に指定されました。
  先賢谷泰山先生は式社考で深く考証せられ、
  又藤原雅澄先生は「天津羽羽神のちはひと千世はへむのむみ
  民等の心足らひに」と其の神徳を高く尊く詠まれております。
  夏祭りは七月廿四日で当日参道に設けられる明治初期
  画匠巨作の台提灯と祭神女神にちなむ活花奉納演芸当は
  夏の夜の美しい饗応であります。例祭は十一月十日で
  行事があります。
    だそうです

 長い参道がありましたが 鳥居(台輪両部鳥居)を
 くぐってすぐの 手水所の横に居た狛犬さんたちです
 台座に 大正十五年(1926)十月吉祥日
     石工 前田嘉之・・・
 嘉以下の字は上を覆っているコケで読み取れませんが
 之は 間違いないと思います


















 馬に目かくしをしなければいけなかった
 まばゆさは 今に俤を残しています





 

金曜日, 7月 22, 2011

狛犬さん 1104

2011.05.14 高知県高岡郡日高村 小村神社
 末社として
  仁井田神社
   御祭神 山秖神・他五柱
   御利益 出世の神・商売繁盛・五穀豊穣
   福徳円満交通安全・山林農産
   大漁の守護神
  秋葉神社
   御祭神 大己貴神他
   御利益 病気平癒・他
       尚、主な祭神の他、伝承によると
       秋葉神社より御分霊を戴きて合祀。
       防火の神として氏子は崇敬している。
  剱神社 
   御祭神 曽我五郎・十郎
   由緒・御利益
       曽我五郎縁の霊験あらたかなる太刀を
       里人によってまつりあげ神体となす
       現在は御鏡を奉齎す  ・所願成就の神
       別に瀬のぼりの太刀の伝承あり
          (日高物語・土佐物語 出典)

 瀬のぼりの太刀とは
  
今からおよそ八百年ぐらい前、源頼朝が鎌倉に幕府を
 開いた頃の話じゃ。伊豆国箱根権現の別当に行実という者がおったそうな。
 この行実は土佐の国高岡郡日下の庄、大和田の生まれの人で、どういう関係か
 曽我五郎の師匠じゃったと。曽我五郎というと、兄の十郎と共に、富士の
 裾野で父の仇、工藤祐経を討った仇討で有名じゃが、その兄弟が仇討の前に
 箱根権現へ別れの挨拶にやって来たそうな。その時に行実別当は宝物殿から
 太刀を二振り取り出してきて、その一つの「微塵」を兄十郎に、弟五郎には
 「髭切丸」をやったと。ところで兄弟は、富士の裾野で見事に父の仇討ったが、
 将軍の陣まで斬りこんで行って討たれてしもうた。そこで髭切丸が見つかり、
 箱根権現に納めたものが何でここにある、早々に調べよーーと頼朝の厳命が
 下った。これを聞いた行実別当は、自分のした事が知れると他の者に迷惑が
 かけると思い、曽我五郎が形見にと置いていった太刀をもって山を降り、
 生まれ故郷の土佐国日下の庄、大和田へと向こうたそうな。ところが、
 日下の江尻まで辿りつき、そこの民家で休んでおる内に中風になって病みついて
 しまい、いまわのきわに宿の主人に、「この太刀は曽我五郎が使うた名刀で、
 下々の者が扱える物ではない。なるべく早く宮を作って納めておくがよい」
 こう言い残して死んでいったと。ところが宿主は強欲な男だったので、
 「へへへ、これは金もうけになるぞ。どこぞお大家の所へ売っちゃろ」と
 思うて、太刀をさげて仁淀川の河原へ行ったそうな。すると刀がひとりでに
 サヤを抜けて川へ飛んで入り、たちまち大蛇になると、川上さして上って
 いったと。以来、仁淀川に大蛇が現れ、川をゆききする人々を恐れさしたそうな。
 そこで江尻の人たちが集まり相談をして、行実別当の言い残したとおり、
 大急ぎで宮を作って太刀のサヤを納めてお祭りしたと。すると不思議なことに、
 いつの間にか太刀はサヤに納まって、それと共に大蛇は姿を消してしもうたそうな。
 この太刀はそれから〈瀬のぼり〉と呼ぶようになったが、いまひとつこの太刀を
 有名にした話がある。今から四百年ぐらい前の戦国時代のことじゃ。伊野波川の
 城主、波川玄蕃がこの太刀を申しうけ、身から離さず信仰しておったが、
 ある時の事じゃった。仁淀川で舟遊びしていて、急に敵に襲われあわやという時に、
 この太刀がたちまちサヤから抜け出し、大蛇になって川瀬を登り敵を追い払って
 危難を救ったそうな。そこで〈瀬のぼりの太刀〉の名は再び高くなったという事じゃ。」  
                   日高物語より転載
      だそうです

 手洗所の横にいた狛犬さんたちです
 台座には 明治十二年(1879)
        九月令辰為
  「令」は 1、(神などの)お告げ。
       2、上位者による指示。 命令
       3、よい事
  「辰」 方位や月・時刻等をあらわしています
 令辰は 良い時って言うような意味なのでしょうね


















 宮司さんが教えてくださったのですが
 本殿の後ろに見えている樹木が
 「牡丹杉」
 境内の説明版によりますと
 
小村神社と牡丹杉(村文化財指定昭和三十六年)
   人皇三十一代用明帝の二年、高岡の首(郡長のこと)
  と日下氏(当時この付近を支配していた人)が、
  先祖の国常立命を祭って創建し御霊に環頭の太刀を奉納したと
  伝えられる国史現在社で、元国の安上官幣の御社であった。
  往古は土佐二の宮で、二の宮天神と称し日下の総鎮守である。
  祭神は国常立命で御神体は太刀である。御神体の
  環頭太刀は国宝に、木造の菩薩面二点は重要文化財に
  いずれも一九五七年指定された。その他の社宝に南北朝時代の
  銅鏡二面、三十六歌仙額、小野道風の書等がある。
   社殿の背後に樹齢千年の「燈明杉」又は「牡丹杉」と称する
  老杉がウッ蒼と天を摩し荘厳さを感じさせている。
  この杉の大木は下枝は杉葉であるが中ほどより上は
  檜かハクの葉様で稀に見る珍種である。伝説によると
  宝永二年(1705)七月仁淀川大氾濫の夜、
  また安政元年(1854)の大地震の前晩、日露役の時など
  何か異変がある時には杉の梢に大きな霊火が爛々と懸ったとの
  ことで、里人は神木として崇拝して来たものである。
   だそうです

 又 宮司さんのお話では この杉の根元から 
 銅鉾(約1800年前頃の物)が 
  平成七年六月五日に 発見されました
 そしてそれを発見したのは お話してくださった宮司さんだそうです
 杉の木の太い根に押し出されるように 地面の上に一部を
 覗かせていたそうです
 十一月十五日が秋季大祭で国宝を拝観できるそうです

木曜日, 7月 21, 2011

狛犬さん 1103

2011.05.14 高知県高岡郡日高村 小村神社
 戴いたリーフレットによりますと
 
小村神社の歴史と文化財
  国宝 金銅荘環頭太刀拵・太刀身(古墳時代・7世紀前半)
   今より千四百年程昔から小村神社の御霊代として奉祀された
   ものであり今日迄完全な姿で伝わっている日本で唯一の
   伝世品であり最古の宝剣である。鞘は金銅と板金で
   作られており昭和三十三年国宝に指定された。
  重要文化財 木造菩薩面・二面(平安時代後期)
   平安時代(今から約千年前)のもので材質は樟で出来ている。
   かっての神仏習合時代の歴史を伝える貴重なものである。
   小村神社の社宝として伝わっているもので昭和三十年
   重要文化財に指定されました。その他、数点の文化財を所蔵。
     だそうです

 二の鳥居をくぐろうとすると 何やら左手の方から
 気になる気配を感じます
 古い石材が置いてある 端っこに何やら見慣れたものが

 そばに寄ってみると 古い狛犬さんたちです
 後で宮司さんに伺ったことですが
 古い狛犬さんたちは 長年飼ったペットと同じで
 いらなくなったからと言って 捨てられない
 と言う氏子さんたちからの意見で 保存してあるそうです
    良いお話ですよねぇ

 狛犬さんの詳細は不明です

水曜日, 7月 20, 2011

狛犬さん 1102

2011.05.14 高知県高岡郡日高村 小村神社
 戴いたリーフレットによりますと
 
小村神社の歴史と文化財
  ご祭神 国常立尊
  ご由緒・御神徳 用明天皇二年587年鎮座
   小村神社は『日本産第実録』貞観二年(870年)三月五日
   条の授位記事に『小村神従五位上』とみえる国史現在社で
   御祭神は国常立尊である。7世紀前半頃の環頭太刀(国宝)を
   御神体とする。境内からは県下では最古の部類となる銅鉾を
   御神木(牡丹杉)の根元より神職が発見出土しており
   神社成立以前から土地の祭祀が行われる特別な場所であったと
   考えられている。社に伝わる仁治元(1240)年、
   貞和三(1347)年の棟札からは国衙が宮の造営に
   あたっていた記録がみえ、二の宮として尊重されていた事が
   知られる。尚参道に沿って千本杉遺跡の調査が実施されており
   古代~近世の掘建柱様式の建物跡が検出されている。社宝には
   弥生時代から中世にわたる多くの文化財があり篤い信仰に
   支えられた歴史を感じ取ることができる。また神社の社殿の
   造りについては本殿が流造、幣殿、拝殿は中央部に高屋根を
   持つトンボ様式となっており訳10年経っている。高知市
   一宮に鎮座する一の宮土佐神社に竝び土佐人の崇敬深い神社で
   国家安康・家内安全・五穀豊穣・諸祈願にご利益のある
   所願成就のかみさまである。

  国史現在社…六国史即ち「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」
        「文徳実録」「三代実録」にその名の見える神社。
  国常立尊…日本書紀本文の中で最初に現れる神。(国の永遠の
       安定を祝福する意がこめられた神名とする説がある)
      だそうです

 二の鳥居の手前にいた狛犬さんたちです
 台座には 平成十四年(2002)十一月吉日
    と刻まれていました

火曜日, 7月 19, 2011

狛犬さん 1101

2011.05.14 高知県吾川郡いの町 和田神社・天満宮
 本殿の手前にいた狛犬さんです
 
 台座に 明治十七申年(1884)
     旧六月吉日
     塚地村
     工
     井上金次
  と刻まれていました

 前回の参道途中の狛犬さんと同じ作者・年代です

月曜日, 7月 18, 2011

狛犬さん 1100

2011.05.14 高知県吾川郡いの町 和田神社・天満宮
 このお宮さんは浄水苑の傍にあります
 最初の鳥居をくぐり 〆柱の間を通り抜けて行くと
 次第に山道のような雰囲気になっていきます
 そこにも台輪鳥居があります
 その鳥居をくぐったところにいた狛犬さんたちです

 台座に明治十七申年(1884)
     六月吉日
   と刻まれていました

 塚地村
   工
  井上金次
 とも刻まれていました
 これは石工さんの 名前だと思います 


 

日曜日, 7月 17, 2011

狛犬さん 1099

2011.05.14 高知県吾川郡いの町 和田神社・天満宮
 和田神社についての詳細は不明です
 神戸市や大津市にも 和田神社はありますが
  それぞれご祭神が違っています
 「和田」という地名から神社名が付いたとすれば
 他の和田神社から ご祭神を推測することは出来ませんね

 天満宮の御祭神は菅原道真公
  これは間違いないでしょう

 鳥居の傍にいた狛犬さんたちです
 製作年代は刻まれていませんが
 平成の可能性 大ですね
  しかも 外国生まれの可能性も

土曜日, 7月 16, 2011

狛犬さん 1098

2011.05.14 高知県吾川郡いの町 琴平神社
 土佐電 伊野駅のすぐ横に鳥居があります
 鳥居は 台輪鳥居です

 狛犬さんの台座には 明治十三辰(1889)年
             六月吉日
  と刻まれていました
 

















 ここにも 面白い手洗鉢がありました

金曜日, 7月 15, 2011

狛犬さん 1097

2011.05.14 高知県吾川郡いの町 天王神社
 本殿の前にいた狛犬さんたちです
 阿形の口の中には 珠が見えています
 狛犬さんの詳細については不明です

木曜日, 7月 14, 2011

狛犬さん 1096

2011.05.14 高知県吾川郡いの町 天王神社・天神社
 拝殿にあった額によりますと
 
天王神社
 天神社
   村社として寛文十一年十月二十一日
         紀元二二三一年
         西暦一六七一年
   第一一二代霊元天皇
     (徳川将軍四代目家綱時代)
   祭神は (一)素戔嗚神
       (二)少彦名神
   其の后 昭和二十一年(1926)五月二十四日に宗教法人
       となり現在に至る
 そうですが 天神社の名前もあるので
 ご祭神には 菅原道真公が 入っていてもいいのでは ないかと思います
 
 鳥居の前 道路沿いにいた狛犬さんたちです
 台座には 明治十二年(1879)四月令日
   と刻まれていました

 耳の下に渦巻きがあり 尾の先も横に流れている
 高知西部スタイルの狛犬さんたちです

水曜日, 7月 13, 2011

狛犬さん 1095

2011.05・14 高知県吾川郡いの町 光宜神社
 ご祭神他 詳細は不明です

 
 境内は 雑草が茂り あまり人が訪れていないように見える
  お宮さんでした
 鳥居は全て 台輪鳥居
  亀腹の無い鳥居もありました

 台座には 昭和六年(1931)
       八月吉日
  と刻まれていました



















 高知西部スタイルの狛犬さんたちですが
 顔も 高知西部顔ですね
 少し離れて見ると 鼻が無いように見えるんです

 










 

月曜日, 7月 11, 2011

狛犬さん 1094

2011.05.14 高知県吾川郡いの町 椙本神社
 前回の狛犬さんの前の階段を上がったところ
 本殿のすぐ前にいた狛犬さんたちです
 
 台座には 萬延元(1860)
      申年九
      月吉日
   と刻まれていました

 このお宮さんの狛犬さんたちは全部
 高知西部型と私が名づけた形の狛犬さんたちです