木曜日, 11月 17, 2011

狛犬さん 1134

2011.10.04 広島県福山市北吉津町 艮神社
 社殿の周りをまわっていると 御本殿の傍に
 詳細は不明ですが 狛犬さんがいました
 反対側にいるはずの阿形は 
     残念ながら写せませんでした

水曜日, 11月 16, 2011

狛犬さん 1133

2011.10.04 広島県福山市北吉津町 艮神社
 鳥居をくぐり階段を上がって行くと隋神門があります
 外に向っては隋神達が座っておりますが
 門を後ろに回ると こんな可愛い狛犬さんたちが
  座っていました

 狛犬さんの詳細については不明です
 吽形は 写真よりもっと黄色です

火曜日, 11月 15, 2011

狛犬さん 1132

2011.10.04 広島県福山市北吉津町 艮神社
 境内の説明板によりますと
  
艮神社御由緒
   御祭神 須佐之男命 伊邪那岐命
   沿革 当神社は平安時代、福山が藤原家の
    荘園として栄えていた当時(天永年間 
    西暦一一〇〇年頃)須佐之男命を祀る
    「牛頭天王社」として今の木之庄に
    建立されており、(牛頭とは須佐之男命の呼称)
    建武元年(西暦一三三四年)今の地に
    伊邪那岐命を併祠の上、遷座し当時の集落の
    中心地吉津、木之庄、本庄、奈良津、千田
    各郷一帯の産土神(秋津洲神社)と改称された
    旧福山最古の神社であります。
    降って、水野勝成公福山築城(元和五年
    西暦一六一九年)に際しては城郭の鬼門・
    艮の方位(東と北の間)を鎮める守護神
    「秋津艮大明神」と称えられ天和三年
    (西暦一六八三年)水野勝種公の諸社殿の
    寄進を始め、度々造営修復がなされ、
    御社頭益々殷盛を極め、明治以後は
    現在の御社芽衣「艮神社」となり、北吉津
    町を始め三十八カ町約五〇〇〇戸の氏神、
    又広く福山地方一円の鬼門守護神、
    厄除神として崇敬されております。
       だそうです
 
 鳥居(正徳六年製)のすぐ後ろに居ました
 阿吽共に頭に小さな角様のものが付いていました
 台座には 嘉永己酉 黄鐘上旬 片山義恭
 最後の「片山義恭」は奉納者のお名前でしょうね
 「嘉永己酉」は嘉永二年(1849)です
 「黄鐘上旬」黄鐘は11月の異称だそうです
   即ち 11月上旬の事ですね
 しかし「黄鐘」は雅楽に使われる楽器の事で
 「こうしょう」とか「おうしき」とか呼び方が
   あるようです

月曜日, 11月 14, 2011

狛犬さん 1131

2011.10.04 広島県福山市北北津町 渡邉神社
 神社の前に 「御番所跡」の石碑があります
 境内の説明板によりますと
 
吉津御番所由来記
  吉津御番所は、旧山陽道より横尾を経て
  福山城下に入る重要な拠点であった。
  福山城主阿部備中守正邦公、宝永七年(一七一〇)
  役人を配して御番所を設置し、通行人の
  監視体制を敷いた。
  其の御番所役人を明治四年(1871)
  廃藩置県発令迄勤めたのが渡邉家である。
  其の渡邉家は、往古千百年前、嵯峨天皇の
  皇子左大臣源融より五代目渡邉綱が
  摂津の渡邉荘に居を構へたるに依り、
  姓を渡邉と称し、これ即ち渡邉の祖なり。
  渡邉綱は源頼光の四天王の一人で羅生門の
  鬼退治に勇名を馳せ、歴史上に名を
  残した人物である。
  渡邉綱より十数代を経て、渡邉四郎兵衛持の
  代に足利尊氏に従ひ九州の菊池家との戦に
  大いに戦功あり、其の賞として備後国山田荘
  (今の福山市熊野町)を賜り地頭職を授かり、
  以後実に貳百七十年間に亘り、此の地に
  居住した渡邉四郎兵衛持より六代目
  渡邉越中守兼は、山田荘の黒木山上に
  城を築き一乗山城と称し城主と成り、
  近隣に威を揮い次第に勢力を強め
  備後国に於ける屈指の豪族となった。
  更に三代目渡邉民部少輔景の時に、関ヶ原の
  合戦に石田三成の軍に赴き戦破れて一乗山城を
  徳川方に明渡し、浪々の身となった處が、
  元和五年(1619)に水野勝成公
  福山城主と成り赴任さるるに及び、渡邉家の
  没落を伝え聞き渡邉家はその昔より備後国の
  名門の家なれば一族を召しだし、各々に
  扶持を与へ水野家の家臣とした處が、
  水野家は五代にして世継なく御家改易と
  成りしが、宝永七年(1710)
  阿部備中守正邦公福山城主に封ぜられ、
  渡邉一族は阿部家に仕へる事と成り、
  一族の内渡邉利八は道三町に屋敷を賜り、
  阿部家の家臣と成り後、吉津町御番所の
  役人を命ぜられ、以後代々の同役人を
  明治四年廃藩置県迄勤めた時当主渡邉吉三郎は
  御番所役職を返上し、一町民となり
  製綿業を営み生活する事と成り、同長男傳七は
  父の業を継ぎしが、明治四十二年(1909)
  製綿業を廃し鉄鋼原料問屋に転業し、其の
  長男渡邉泰輔は父の業を継ぎ、次第に
  業績を高め、昭和三十三年(1958)に
  本店を大阪に移し支店を東京・名古屋・姫路・
  岡山・九州八幡に設置し、全国的に業容を
  拡大し今日に及ぶ。
      平成二年八月吉日
    だそうです
 
 隋神門の格子の中にいた狛犬さんたちです
 陶器ですが 窯元は何処なのでしょう
 詳細については不明です