嶋姫は市杵嶋姫(いちきしまひめ)のことと思いますが この神様は水の神様です
「いちきしま」は「斎き島」のことで 「いちきしまひめ」は
神に斎く島の女性(女神)と言うことだそうです
このお宮さんは 田畑の中にありますが このあたりは水の便が悪く
溜め池が沢山あります
そこで 水の神である市杵嶋姫を 祀ったのでしょう
この神様は 仏教の弁財天と同じとされています
狛犬さんの台座には 大正?年十月 と刻まれていました
年号の部分だけが 削れて読めなくなっていました
神出神社
祭神 素盞鳴命・奇稲田姫命(くしいなだひめ)・大己貴命
勧請 五十一代 平城天皇 大同四年九月九日
由緒 この地に 二山がある 東を雄岡山(二四一米)
西を雌岡山(二四九米)古くから信仰の対象とされている
神代に素盞鳴命 奇稲田姫命の二神が
この雌岡山に降臨され 薬草を採取して 住民の病苦を救い
農耕を指導された 二神の間に多くの神々がお生まれになり
そのうち大己貴命は この地でご生誕されたと言う
このことから この地を神出と言うようになった
降る大同四年(809)平城天皇諸国巡幸のとき この地にたちよられ
神代の古事をしのび 三柱の神を勧請祭祀された
これが神出神社のおこりである
明治七年(1874)二月に村社 同十四年(1881)郷社となった
雌岡山(めっこさん)と雄岡山(おっこさん)
大きさも形も瓜二つの山で その昔 遠くから眺めると
子牛の角のように見えたことから
男牛(おご)・女牛(めご)といわれていたそうです
それが 雄子尾・雌子尾となり やがて雄岡・雌岡になったそうです
雌岡山には 牛頭天王を祀るので 天王山とも呼ぶ
神話によると 雄岡と雌岡は 夫婦の神で
男神の雄岡が 小豆島の美人神に惚れたことから
妻が止めるのも聞かず 鹿に乗り 会いに行きました
その途中 淡路の漁師に弓を撃たれ 男神と鹿は共に海に
沈んでしまいました すると 鹿は忽ち赤い石になり
それが 明石の名称の起こりともいわれています
由緒
当神社は 今を溯る千二百三十年の昔
第四十六代孝謙天皇の御代 天平勝宝六年(754)
旧暦の九月十三日に 川向いの元住吉山に勧請せしに創まる
永禄二年(1559)六月二十九日 「四百二十五年前」に
現在地に 遷座されました その後二十年過ぎて
天正七年六月二十五日(一五七九年)には 兵火にかかり
神社建物は悉く焼かれました 安土桃山時代の末期
文禄三年(1594)九月十三日には 高和の社地に
お旅所を創立し 江戸時代初期の元和五年(一六一九年)
住吉神社の朱印領は十石と 記されてあります
正保四年(1647)八月に 四別棟を再建し
享保十九年(1734)四月本殿覆を建立し
明治七年(1874)二月には 兵庫県明石郡の郷社に列せられました
格式の高い神社です 大正八年(1919)に境内敷地を拡張し
昭和五十六(1981)年六月には 参集殿を建設し 現在に至っております
住吉神社
押部の庄(今の押部谷全部の十二ヶ村と平野町の常本)全体の総氏神である
ご祭神は 表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長足姫命の四柱
孝謙天皇の天平勝宝六年九月十三日に 摂津の国 住吉神社から
社家 津守連(つもりのむらじ)が 楯神・鉾神と共に
神霊を元住吉神社に勧請したのが 始まりである
その後 疫病が流行し その上五穀が実らぬ年が続き
氏人らが ご神託により 永禄二年(一五五九)六月二十九日に
現在の宮地に奉遷した 天正七年(一五七九)六月二十五日
羽柴秀吉の三木別所攻めの兵火に遭い 社殿を焼失したが
正法四年(一六四七)社殿の復興が成り 再び本殿に遷座した
延喜式内 夜比良神社御由緒
御祭神 大己貴命(大国主命)
御神徳 縁結び・病気平癒・農業・福の神
御神紋 子持ち亀甲に米
御由緒 夜比良神社の創建は 千二百年以前と
伝えられています
ご祭神の大己貴命は 他に大国主命・大汝命(おおなもちのみこと)など
多くの別名で呼ばれ 出雲大社のご祭神と同神です
はじめ伊豆もの国を開拓 平定され 因幡国を経て
播磨国に入り 揖保川に沿って南下され 粒丘に足を
留められました そして この地域を開き 人々をいつくしみ
災禍を祓い除かれました これにより揖保川流域の北を
御護りする播磨国の一の宮である伊和神社を「北方殿」と
呼ぶのに対し 夜比良神社を「南方殿」と言います
また 中世には 下揖保社の総鎮守として 播磨国の豪族
赤松氏の尊崇をあつめ 「神式は赤松政村これを定む」と
今に伝えられています
やひら手を 取りにし神も あらましを
きねか 鼓の 音は絶せぬ
赤松広秀
(鶏籠山上にあった古龍野城の城主)
明治維新以前は 揖保川町域を含む 十六か村が氏子域
でしたが 現在は 五か村(揖保上・揖保中・今市・
正條・新在家)となっています
記録の上では 八枚(八尋)社刀踊りの故事が
あったと言われていますが 今では途絶えてしまいました
中臣印達神社(なかとみいだてじんじゃ)
御祭神 五十猛神(素戔鳴尊の御子)
創建 宝亀元年(西紀七七〇年)
例祭 四月十日 十月十日
社格 『延喜式』に名神大神とあり 古社であり 大神でもある
(『延喜式』第十巻五十七枚所蔵)
五十猛神は父神であられる素戔鳴尊とともに
天照大神が驚きになられるぐらいの 又 国内が
混乱するぐらいの新しい文化・文明を大陸より移入
それ以降 国内の農耕・文化・文明は 大変な発展をとげたとされる
これらより ご霊験灼な神と信仰が篤い そして大陸・朝鮮半島より
樹木の種を持ち帰ったことにより 植林の神とも伝えられている
近年では困った時の神頼みの神社として
一言心願成就が密かに人気である
記
当社は播磨の国にあって「延喜式」名神大社という
由緒正しき古社で 創設七七〇年(宝亀元年)で
以来一二二五年の年月を重ねて 平成七年にその祭儀を執り行った
しかし 幣殿・拝殿の老朽化により 屋根の雨漏りがすることとなり
修理を余儀なくされるに至った
今回の修造は氏子・企業・関係各位のご寄付により
完成を見たもので 改修に際して 古代建築物の様式を保ち
重厚と美観を図ると共に 風雨に耐え 長期に亘る保存に
配慮したものである
旧本殿跡地
旧本殿(現八幡宮)は 元この直上十数メートルの
宮山の中腹にあった
その大地(おおとこ)ゆかりの跡を 玉垣で囲み 聖地として保存する
石神
播磨風土記に「神山 此ノ山ニ石神在リ」とあるが
元 宮山の山頂には 大きな岩があって 古くから神の宿る霊地として
畏敬されてきた
昭和五十年 境内地造成中 山頂直下からこの大岩が現れ
人々は 「石神」の心岩であるとして畏れ これを祀る
御祭神 大己貴命・少彦名命
御神徳 大己貴命は又の御名を大国主命とも申し
少彦名命と共に 我が国を開かれた大神であり
播磨の国に黎明をもたらされ 庶民の生業を援け
病を治し 夫婦和合の道を教え給うなど
その広大な御神徳は 今に農業の振興 商売繁盛
病気平癒 縁結び 交通安全など 万民の諸運開顕
知徳成就を司宰し給う大神として 広く崇敬されている
由緒 ご祭神の鎮座されるこの地は 播磨風土記に
「此ノ山ニ石神在リ故神山ト號ク」とあり
山頂に巨岩があって 神の宿る霊地として往古より
畏敬されてきたが 応仁二年三月の午の日に 宍粟郡の
伊和神社より御分霊を勧請し 十月第二の午の日を午祭と定めて
五百有余年 継承してきた
この祭が菜くわずの祭とも言われる由縁は 弘法大師が
全国行脚の途次に 菜を所望されたのを固辞した為 以後
秋祭の日に 菜を食べた者は腹痛をおこすという伝承との
習合によるもので 当神社を「なくわずの宮」ともいう
昭和五十二年旧本殿を移し 三間社流れ造の新社殿を造営し
鎮まりまして現在に至る
御祭神
崇道天皇
惠美酒大神
厄除大神
崇道天皇は 光仁天皇の第二皇子桓武天皇の皇大弟で
早良親王と申し上げる
延暦十九年(800)七月廿三日 天皇の稱号を追贈
惣社復興事業記念碑
惣社は 大己貴尊・素盞鳴尊・經津主尊・武甕槌尊を祭り
物部神社とも称され 延久三年(一〇七一)の再建と伝えられている
延喜式の制に於いては小社に列し 伊川谷の総氏神として崇められ
明治七年(一八七四)には郷社に列せられた崇敬篤き神社である
旧社殿は 宝暦十一年(一七六一)に造営されたものであり
社殿の老朽化に加え その後平成七年(一九九五)阪神淡路大地震に遭遇し
甚大な被害を受けたが 逸早く氏子崇敬者より
多大な浄財を得て 平成七年(一九九五)建設委員会を立ち上げ
第一期工事として「拝殿の再建」を行い 次いで復興委員会を組織し
第二期工事として「本殿解体修復」「玉垣及び石積」「境内社建替」
「手水舎建替」工事に着手 八年の歳月を要し
平成十六年(二〇〇四)に完成し 創建当初の様相を見るに至る
此処に記念碑を建立し 永く後世に語り継ぐものである
為那都比古大明神由来
使主室と云うのは 後漢の孝献皇帝(霊帝)の聖裔阿智王都加王の
両人を祀る所で 延喜式に云う摂津豊島郡鎮座の
為那都比古神社である
日本書紀に 応神天皇二十年秋九月 阿智使主其子都加使主は
部下十七県の人達を連れて我国に帰化し 大和国桧隈に住居を與へられ
同天皇三十七年春二月 両人を勅使として 呉国に
縫工女を求めしめんとされ 呉王より兄媛・弟媛・烏沙架女・幾利区珥の
四婦女を與へられ 同四十一年春二月阿知使主等呉国より
筑紫に帰着したが 匃月形大神の乞に 兄媛を差し上げ
他の三婦女を伴い 摂津武庫に到る
時に 天皇崩御の報に接し 献ずるを得ず
後仁徳天皇は 居館を豊島郡為那野に造営し 羅綾織紝の業を専らにされ
その功積により この地を呉服と名付け 反正天皇は勅令を持って
送り名をされ 為那都比古大明神とし 之が倭漢直の祖である
降って允恭天皇の時 その子孫忘奴手直に 阪上姓を
弟奴留間直に 素姓を賜う 文化年間に古墳の盗掘がはやり
阿知使主の古墳と傅へられた所も 其の例に漏れず 行はれ
此の所より珠塗の棺の破片 人骨の若干を持帰へり
為那都比古大明神跡に埋葬し 現地に御祀りしものであります
星の宮の由来
星の宮は 五月山のふもとにある穴織宮伊居太神社(あやはのみやいけだじんじゃ)
の末社(お旅所)で 星の大神を祀っています
その昔 仁徳天皇の御世 わが国に織物の技術がなかった頃
中国大陸から漢織・呉織の両姫が この地に渡ってこられ
綾錦(絹の織物)を 夜おそくまで灯もつけず機を織っていると
多くの星が天から降りて来て 織殿を真昼のように明るく照らしてくれたので
灯りをつける必要がなく 機織がきでたといわれています
こうしたことから 「星の御門」と称されています
そこで 星の宮を建てて 織殿を照らした星たちを
「明星大神」と申し上げてお祀りしています
その後 度重なる兵乱に遇い お社は焼失してしまいました
寛正四年(一四六三)に 池田城主筑後守勝正が
伊居太神社本殿と末社を再建されています
その後も焼失・再建を繰り返しましたが 村民の信仰が厚いことから
『日月清明・五穀成就・天下泰平・萬人安全』でありますようにと願って
このお社が 再建されました 現在のお社は明治初期の建物であろうと推測されます
現在 建石町町内が お社をお守りし 毎年十月二十七日
星の宮例祭がおこなわれています
色てるや 星の御門の 梅の花 止丸「俳諧呉服絹」
平成十八年三月吉日 建石町町内会
人皇十六代応神天皇二十年己酉秋九月
日本国に漢の直太祖後漢の霊帝四代の孫 阿知使主
その子都加使主 十七県の部下を卆いて帰化した
そこで天皇の三十七年丙寅春二月 天皇思召して
天下人民衣服裁縫の術を知らず 春夏秋冬の衣服が作れなかった
いま呉国には立派な縫工女が居ると聞き 勅使として
阿知使主 都加使主に命じて 呉国に縫工女求めようと考へられた
二人は勅使となって 呉国へ出発した
先ず高麗国に渡ったけれど それから先 呉国への道を知らなかったので
高麗王に願い 久禮波・久禮志の二人を 道案内者として選んで頂き
漸く呉国に事故もなく到着した
呉王は工女兄媛・弟媛・呉織・漢織の四人の婦女を與へられたのである
今の世に呉をくれと読むのは 道案内者久禮波・久禮志の名を
かたどったものである二人の功績を 忘れないためである
同天皇四十一年春二月阿知使主等は 筑紫へ帰へり着いた時に
胸形の大神が工女を乞はれたので 兄媛を差し上げられたは
残り三人の工女を連れて 津の国に帰着し
以来呉衣縫蚊屋(アヤ)衣縫と云はれて居る由因は是である
呉織は呉の人であり 漢織は漢の人である
この二人は 呉服の里に居住されたけれど
弟媛は何庽に居られたが 明らかでない
二十二代雄畧天皇の時代にも 呉織・漢織・兄媛・弟媛が
来日して居るけれど 此れは耺名であり 異人である
応神天皇の時代の前から 衣服裁縫の技が明かでなかった
この二媛の教へにより 天下の婦女が裁縫の術 機織の術を教えられ
四季の衣 春秋の衣服 上下の服装を教へられた
その功により天皇は宮中に縫殿寮を設け 縫部司縫女部を設け
二女を祀られたのである
これより先 麻をつむぎ 蚕を飼い 桑の皮をつむぎ 麻の皮から
織物を作っていたのであるが 二媛の教へにより
呉織蜀錦等綾羅錦綺の衣服ができるようになったのである
今 呉服尺・呉竹・呉藍・生姜等 此時に持帰へれるもので
呉橋・牙床等も此頃に 呉国から我国に入り呉国の文化が広まった
二媛は一室にこもり その身に光明があり ひたすらに機織と裁縫に
従事され 百余歳の高令まで我国の文化の興隆に貢献され
此地に絹掛の松・染殿井・絹舒の里・唐船潭等の地名が残るのも
当然のことと思はれる
此の二媛が他界されたので 仁徳天皇は 七十六年九月十八日に
衣服裁縫の功績を稱へるため 桊上の社・桊下の社を建立し
両媛の功績をたたへ 降世までその功を忘れない様に残され
世の人々は文化発祥の神として 代々お祀りを続けたのであります
五社神社
御祭神 国常立尊(くにとこたちのみこと)
建速須盞鳴尊(たけはやすさのをのみこと)
五十猛尊(いたけるのみこと)
住吉大神
穴織大神(あやはのおおかみ)
由緒
社伝に依れば 聖武天皇の神亀元年(724) 僧行基
当地に多羅山若王子を創建し その鎮守として当神社を勧請する
鎌倉時代若王子が真言宗に属し 社殿の背後の鉢塚古墳(史跡)石室内に
石造十三重塔(重要文化財)を建立
この金剛界曼荼羅の五智如来を本地として 五社大明神と号した
天正元年(1573)兵火にかかり 烏有に帰したが
同十七年(1589) 若王子の伝誉法印再興する
明治初年(1686)の神仏分離により五社神社と改める
大阪府指定
史跡鉢塚古墳
本墳は 上円下方墳と云う特異な墳形と巨大な横穴式石室を有する
大阪府下有数の古墳である
その兆域は 五社神社境内に含まれ 南面の周濠や墳丘の一部が削られている外は
畧々完好な状況を保ち 周濠の形跡も明瞭である
石室は 両袖式で 南面に開口し
奥行全長十五米(内玄室七米羨道八米)玄室高さ五米幅四米
羨道高さ二米幅二米を算える
被葬者は不明であるが 六、七世紀頃 この地方を統轄した
首長の墳墓と見られる
尚玄室内には 重要文化財指定の石造十三重塔が祀られ
相輪が後補である以外は よく旧規をとどめ 各屋蓋に
上層の軸部を造出す形式のもので 軒口厚く 隅反りがあり
鎌倉時代の特色を示している
御祭神 素戔鳴尊(牛頭天王)
円融天皇 天元元年(西紀九七八)創祀せられた(常福寺蔵 慶長十六年縁起書)
と伝えられる古社で 神田の産土神である
古来 農耕守護・厄除開運の神として 広く崇敬せられ
氏子崇敬者から 神田の宮の名で親しまれている
御本殿は 桃山時代の建造物で 重要文化財に指定されている
御例祭(十月二十二日)の幟・神額の宮入は
北摂の特異神事として有名である
神奈備は 御創祀の縁起により 早苗の森と称する
千早振る 神田の村の稲なれば
月日と共に久しかるべし
大江匡房