「たごりかみさま」の前にいた狛犬さんです
「たごり」は多分 咳・風邪の事のようです
松山市内には「たごりの神様」を祀った祠を
見かける事があります
狛犬さんの台座には 平成元年(1989)吉祥日と
刻まれていました
青麻三光神社略縁起
祭神 天御中主大神 天照皇大神 月夜見大神
当社は右三柱の大神の御神徳を日月星の
三光になぞらえて御社号を青麻三光神社と
申し上げます。
当社は昔から脳の守護神として一般の信仰が厚く
殊に中風除の神として遠近に多数の崇敬者を
持っております。
当社は古くは此処から南約一キロの
船ヶ谷茶臼山の麓に鎮座されておりましたが
安政の頃此社地へお遷し申し上げ明治の中頃に
なりまして今の社殿を新築して今日に
及んでおります。
諸山積神社略縁起
祭神 大山積神 外二神
昔伊予皇子勅命により西南の兇徒を退治の為
当国へ下降浦戸の丘に神籬を建て国家鎮護のため
大山積神を始め諸神を斎き祀り
諸山積宮一名浦戸明神と号し奉りしが当社の
創祀と伝えられる。
後和銅五年(712)大三島より高龗神、雷神を勧請して
諸山積神社へ合わせ祀りて浦戸新宮と号し
越智玉澄神殿を造営し郷内一宮と崇められる。
光孝天皇仁和三年(887)神供料を奉納あり。
文治年中(1185~1190)河野通信社殿を修治して以来
或は水田を献じ或は神領を奉り 社殿を修築せし等
河野氏厚く崇敬せり
惠美須神社の由来(仮説)
その昔、この辺りには天満神社や蓮華寺、
そして蓮長寺(架空の寺)などがあって、
当時は信仰心の厚い世相の時代でもあり、
里人はもとより、地方からの崇敬者のお参りも、
さぞや多かったであろうと思われます。
そうしたお参りの日には、門前で
それぞれが持ち寄ってきた米、麦、栗、
大豆などの穀類や、野菜、果物、
或は織物や工芸品などの生活必需品の交換が
行われていたようで、そのような交換の
取り??のこと?市といって里人は
市神をお祀りするようになったものと
考えられます。
市神には、ところによって、市杵嶋姫命、
大国主命、恵比須、大黒、事代主命などが
祀られていて、毎月の一日(おついたち)か
十五日(おじゅうごにち)とかが
市日に当てられていたようです。
市神は「土地を管理する」?の
性格を持っていたとも言われています。


霊峰石鎚山総本宮石鎚神社ご案内
石鎚神社は、関西第一の高峰石鎚山(1982m)を
神体山として仰ぐ、奥宮頂上社・中宮成就社と
土小屋遙拝殿・そしてこちらの口之宮本社の総称です
御祭神は、石鎚毘古命・石鎚大神とも
申上げ、伊邪那岐命・伊邪那美命の第二番目の
御子にあたり、諸願成就の神様として
知られていますが、殊に家内安全・厄除開運・
病気平癒の神として篤い信仰を受けています。
石鎚山は、日本七霊山・日本百名山の
一つに数えられ、今から約1300年の昔
役小角によって開山され、弘法大師も
修業したと伝えられる修験道の霊山です。山頂よりは
天候が良ければ土佐湾・太平洋また、瀬戸内海を
越えて中国・九州の山々まで遠望でき、
変化に富んだ風景が四季を通じて楽しめます。
時には、雲海が眼下に広がり、依るには満天の星空、
そして朝には素晴らしいご来光と野鳥の囀り、
正に「神」鎮まる御山です。
本日ご参拝頂きました本社本殿前の階段には、
石鎚山に安永8年に掛けられた鉄の鎖を
手摺りとして取り付け、皆様に御山の霊気に
触れて戴いて居ります。
石鎚信仰1300有余年、悠久の時を想いつつ
どうぞごゆっくりご参拝下さい。
貴布称神社
主祭神 大山祇神 別雷神 高龗神 罔象神
境内社 塞之神社 八衢天神
惠美須神社 大国主神
和霊神社 和霊大神(山家清兵衛公頼霊)
真名井神社 多紀理毘売命 他七座
一ノ宮神社 上筒男之神 他二座
金刀比羅神社 大物主神 他一座
当社は、第三二代崇竣天皇の元年(五八七)
八月二三日、伊予国司散位小千(越智)宿祢益躬が
勅を奉じ、越智の三島浦戸宮より
大山積神をこの地方の一の宮として
勧請したといわれ、また、和銅五年(七一二)
八月二三日越智玉純が、浦戸宮より
諸山積大明神(大山積神の別称)を
勧請、創立したともいわれている。
神亀五年(七二八)九月二三日には、
雷神、高龗神を合祀。更に山城国愛宕より
貴船神社、罔象女神を勧請
ついで宝亀一八年(延暦六年)(七八七)八月二三日には
三島宮より十六皇子神を勧請。
弘仁九年(八一八)には国司小千(越智)真勝が
水田を寄進し、社殿の結構を整え、別当寺を置き
郡司大領に命じて国司に代り奉幣させ
社運は隆盛を極めた。
承平、天慶の乱(九三五~九四一)により
荒廃したが、元暦元年(一一八四)
神官高市武者所清儀、本殿を修復。
文治三年(一一八七)高市太郎光儀、社領を確定し
社殿を荘厳して社運を回復。元弘元年(一三三一)
颶風出火、社殿悉く焼失したが、
貞和五年(一三四九)河野対馬守通治、社領百石寄進
更に河野通尭、社領百貫を加え、
神馬飼育料、大豆五〇貫、白銀二千疋を
毎年奉納。社運再び大いに開いた。
天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の
四国平定の戦禍により社殿焼失。
慶長五年(一六〇〇)正木城主加藤嘉明
社殿を造営 社領百石寄進。以来領主の崇敬と
神官の誠意奉仕、住民の尊崇により
地域の文教、徳育の中心となって
現代にいたる

本殿の前に 相棒を失くした狛犬さんがいました
お祭り風景です
菊万庄鎮守社 寛治四年(1090)
加茂別雷社 貴布禰社 神山(高山)鎮座
高山(神山)初篭峰 古戦場跡
正平二十三年(1368) 九月六日十日十九日
応安元年(1368) 木梨入道軍布陣
加茂別雷社 貴布禰社 古社之跡
応安元年九月六日十日十九日合戦ノ時
木梨入道軍兵士神山ヨリ移ス
古社ヨリ天授六年(康暦二年)庚申四月留山ニ移ス
三永九郎通能
元中四年(1387) 嘉慶元丁卯年 當所ニ移ス三永九郎通能
加茂別雷社応永六巳卯年四月菊万庄
遍照院境内ニ宮造鎮坐
遷宮眞恵上人宮僧一之坊
神主三永十郎左衛門
社人仲原図書城之上刑部
宇賀神社の御由緒と御神徳だそうです
御祭神 天照皇大御神 天之親神
宇賀之魂之大神 衣食住と大祖万民豊楽之神霊
建速素幸霊大神(タケハヤスサノオノオオカミ)
大地之親神
宇賀之魂乃大神亦の御名を豊受霊芽神
(トヨウケヒメノカミ=伊勢神宮外宮の神)
亦の御名を保食の神(ウケモチノカミ
=伏見稲荷大神と同神)
亦大食津霊芽神(オオゲツヒメノカミ)
亦大年之大神等何れも異名同神です
天下万民と生栄富栄之に栄え坐す衣食住の
大祖これを万民豊楽と御霊という。
伊勢外宮五部書に曰く「夫れ宇賀の魂之神霊は
衣食住の大祖にして万民豊楽の神霊也、往昔、
宇賀之魂乃神蚕と百穀(ももたなつもの)を
生し時に天照皇大大御神、之を喜びて曰く
蒼生(あおひとぐさ=万民)食して活きる者也
蚕を以て糸を抽り給う百穀を以て
陸田水田の種子と為し給う自比(これより)
始めて農業及び蚕事の道有り、因て上古今に
至る迄天下の蒼生寒凍の苦しみに堪之飢餓の患い
を凌ぐは皆宇賀之魂乃神の神恩也衣服を
まとい飽食する誰か宇賀之魂乃神を崇敬
為さざらむ乎(か)故に食する毎に
美悪を言はず珍奇を論ぜず箸を採る前
食神(みつけかみ)に奉饗(たてまつる)者は
古今通義也」云に畏くも明治天皇の詔勅に
「神祇を崇め祭祀を重んずるは皇国の大典にして
政教の基本なり」と仰せられ神祇の崇敬祭の尊重は
我国開闢以来一貫する根本精神であり、
日本民族の伝統的信念であります。
ことに我が民族の本宋である伊勢の大神宮尊崇は
鎌倉時代以後特別に盛んになり
伊勢参宮の風習は著しく普及すると同時に
各家々に伊勢大神宮の大麻(神札)を奉斎する
祖習も益々全国に行き渡って来た。
神宮大麻は即ち大神の御神徳を仰ぐ
御璽(みしるし)であって大神宮より
頒布授与せられる尊い神札である国民の
大神宮尊信念が盛んになるに及び
神宮の詞宮や御師(神主)が全国津々浦々に
出向いて神札を頒布するようになり、
地方に出向いても長期滞在するため
駐在所を設けるようになった。
我が壬生川町でも(現公民館の屋敷)駐在所を
設け社殿を造営して天照皇大大御神を奉斎し
伊勢本宮に習い、少し離れた蛭子町に小社を
建立して伊勢外宮神を奉斎し周桑郡越智郡の
一部を範囲として神宮大麻を頒布すると共に
尊信者の要望に応えて祈願祈祷祭典を行い
御神徳の取次を行っていた。
明治初年に至り全国の神社に奉仕する神職会が
組織拡充せられ神宮大麻は神職会を通じて
氏子に頒布せられる事になり神宮の御師は
引き上げてしまった。けれども大神宮の
御神徳を偲び御恵(みめぐみ)を慕い
参詣者は絶える事なく、ことに蛭子町に
外宮として宇賀之魂之大神を奉斎したお社に
特信者として御奉仕する人があり
御霊験著しく顕れ、参詣者が増加するに従い
お社も手狭になり町内有志相議り
大正十一年網敷天満宮境内へ社殿を新築して
移転御遷宮申上げ今日に至るも霊験いちじるしく
崇敬者は近郷近在は勿論ひろく東京・名古屋・
中国・九州にも及び御神徳弥々益々
盛之満ち輝いて居ります。
つかのまも などか忘れん 実(げ)にふかき
宇賀の み神の 高き恵みを
ー境内の歌碑に依るー
宇賀神社の玉垣からしかし その女性たちの名前を書いた玉垣は
大正十一年蛭子町から、この地へ
神社を移転した時に作られた玉垣の中に
地主や商人にまぢって、「西条芸妓中」の
名前が見られる。親に売られ、
貧しい水商売の女達がお金を出し合って
寄進したものと思われる。
このことは、この神社が職業・身分に
こだわらず、いかに多くの人達に
崇敬されたかを物語るものであり多くの
参拝者のなかに幸せを願い、朝に夕に
柏手をうつ女達の姿が見られたという
當門脇神社には
越智郡玉川町鈍川木地鎮座細野神社の神霊と
奈良原神社の分霊が合祠せらている
往古鈍川木地は戸数百余戸が
次第に出村して<今治地方に移住するもの 続出し昭和四十年六月現在僅かに二戸となりぬ 是を以て祖先代々祀り来し三柱の大神を 残置するに偲びず當社の境内に移築遷宮した
日本總鎮守 三島地御前「ゐ」と云う文字には「い」と振り仮名が打ってあります
別宮大山祇神社由緒
御祭神 大山積大神
御祭神大山積大神は 天照大神の兄神で
山の神々の親神にあたられて(古事記
日本書紀) 和多志大神とも云はれ(伊予国
風土記) 日本民族の祖神として また 地神
海神 兼備の大霊神として 海上の安全
交通 産業の守護をはじめ日本の
国土全体を守護し給ふ神であるところから
古代より日本総鎮守と尊称される
当神社は 和銅五年(皇紀一三七一年
西暦七一二年)越智玉澄公により
日本総鎮守 大山祇神社(大三島町 元国幣大社)
の地御前(ぢごぜん)として
勧請創建せられ(豫陽盛衰記)
伊予国一の宮の別宮として 創建以来
代々の領主 藩主等は勿論 人々に
広く篤く崇敬されてゐる
祭神 磐長姫大神だそうですが「?」の文字は
このお宮は 昔から「阿奈婆さん」といって
親しまれているお宮で 大三島の
阿奈婆神社から勧請申し上げたお社です
御祭神 磐長姫大神は 本社の御祭神
大山積大神のご長女にあたられ
大変ご長命にあらせられた上
福徳円満の神様で「長生の神様」「福徳円満の
神様」として ご神徳の高い神様であります
また 特に「下の病」の治癒にすぐれた
力をお持ちの神さまとして 崇敬者の
祈願奉?のため 遠近より参拝するものが
四時絶えません