境内にあった由緒書によりますと
宇賀神社の御由緒と御神徳だそうです
御祭神 天照皇大御神 天之親神
宇賀之魂之大神 衣食住と大祖万民豊楽之神霊
建速素幸霊大神(タケハヤスサノオノオオカミ)
大地之親神
宇賀之魂乃大神亦の御名を豊受霊芽神
(トヨウケヒメノカミ=伊勢神宮外宮の神)
亦の御名を保食の神(ウケモチノカミ
=伏見稲荷大神と同神)
亦大食津霊芽神(オオゲツヒメノカミ)
亦大年之大神等何れも異名同神です
天下万民と生栄富栄之に栄え坐す衣食住の
大祖これを万民豊楽と御霊という。
伊勢外宮五部書に曰く「夫れ宇賀の魂之神霊は
衣食住の大祖にして万民豊楽の神霊也、往昔、
宇賀之魂乃神蚕と百穀(ももたなつもの)を
生し時に天照皇大大御神、之を喜びて曰く
蒼生(あおひとぐさ=万民)食して活きる者也
蚕を以て糸を抽り給う百穀を以て
陸田水田の種子と為し給う自比(これより)
始めて農業及び蚕事の道有り、因て上古今に
至る迄天下の蒼生寒凍の苦しみに堪之飢餓の患い
を凌ぐは皆宇賀之魂乃神の神恩也衣服を
まとい飽食する誰か宇賀之魂乃神を崇敬
為さざらむ乎(か)故に食する毎に
美悪を言はず珍奇を論ぜず箸を採る前
食神(みつけかみ)に奉饗(たてまつる)者は
古今通義也」云に畏くも明治天皇の詔勅に
「神祇を崇め祭祀を重んずるは皇国の大典にして
政教の基本なり」と仰せられ神祇の崇敬祭の尊重は
我国開闢以来一貫する根本精神であり、
日本民族の伝統的信念であります。
ことに我が民族の本宋である伊勢の大神宮尊崇は
鎌倉時代以後特別に盛んになり
伊勢参宮の風習は著しく普及すると同時に
各家々に伊勢大神宮の大麻(神札)を奉斎する
祖習も益々全国に行き渡って来た。
神宮大麻は即ち大神の御神徳を仰ぐ
御璽(みしるし)であって大神宮より
頒布授与せられる尊い神札である国民の
大神宮尊信念が盛んになるに及び
神宮の詞宮や御師(神主)が全国津々浦々に
出向いて神札を頒布するようになり、
地方に出向いても長期滞在するため
駐在所を設けるようになった。
我が壬生川町でも(現公民館の屋敷)駐在所を
設け社殿を造営して天照皇大大御神を奉斎し
伊勢本宮に習い、少し離れた蛭子町に小社を
建立して伊勢外宮神を奉斎し周桑郡越智郡の
一部を範囲として神宮大麻を頒布すると共に
尊信者の要望に応えて祈願祈祷祭典を行い
御神徳の取次を行っていた。
明治初年に至り全国の神社に奉仕する神職会が
組織拡充せられ神宮大麻は神職会を通じて
氏子に頒布せられる事になり神宮の御師は
引き上げてしまった。けれども大神宮の
御神徳を偲び御恵(みめぐみ)を慕い
参詣者は絶える事なく、ことに蛭子町に
外宮として宇賀之魂之大神を奉斎したお社に
特信者として御奉仕する人があり
御霊験著しく顕れ、参詣者が増加するに従い
お社も手狭になり町内有志相議り
大正十一年網敷天満宮境内へ社殿を新築して
移転御遷宮申上げ今日に至るも霊験いちじるしく
崇敬者は近郷近在は勿論ひろく東京・名古屋・
中国・九州にも及び御神徳弥々益々
盛之満ち輝いて居ります。
つかのまも などか忘れん 実(げ)にふかき
宇賀の み神の 高き恵みを
ー境内の歌碑に依るー
又境内に説明板がありまして
宇賀神社の玉垣からしかし その女性たちの名前を書いた玉垣は
大正十一年蛭子町から、この地へ
神社を移転した時に作られた玉垣の中に
地主や商人にまぢって、「西条芸妓中」の
名前が見られる。親に売られ、
貧しい水商売の女達がお金を出し合って
寄進したものと思われる。
このことは、この神社が職業・身分に
こだわらず、いかに多くの人達に
崇敬されたかを物語るものであり多くの
参拝者のなかに幸せを願い、朝に夕に
柏手をうつ女達の姿が見られたという
見つかりませんでした
こんな説明板を立てるのなら その玉垣を
明確にして欲しいですよね
それにしても 文中の「女達」の文字に
「女達」を下に見下した
「上から目線」を感じるのは私だけなのでしょうか
狛犬さんの相棒はどこにも見つかりませんでした
顔もかなり磨滅していて 阿さんなのか吽さんなのか
判断が付けにくいのですが
しかも足が全てなくなっているので
デザインがよくわからないのですが
見ようによっては 玉を抱えているように
見えます
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