このお宮さんの 主な祭神は 事代主命
創立年代は不詳のようですが
寛保年間(1741~1744)に作られた
寛保改神社帳に
斎田村恵美須(岩崎明神と云う)とあるそうです
別当黒崎村西田寺
狛犬さんの台座には 明治四十年の文字が見えますが
この狛犬さんは 新しいものですね
本殿の中にも狛犬さんがいましたが
私のカメラでは 写すことが出来ませんでした
この狛犬さんが 明治生まれなのかもしれませんね
福俵記念
昭和八年五月建立
再建記念
初代福俵組が青銅唐獅子を奉献
せしが大東亜戦争に金属應召を受けし為
二代福俵組が石造として唐獅子を奉献す
昭和二十八年四月
寛文の頃まで 現在の大洲市中村宮前区あたりにだそうです
奉祀してあったが 寛文6年(1666年)の
洪水で大破し 御神体が現在の地に流れ着いたことから
元禄15年(1702年)に現在の地に遷宮しました
現在のお社殿は平成2年から8年にかけて
氏子・崇敬者多数のご尽力により再建されたものです
朱雀天皇の天慶2年(939年)伊予掾藤原純友がだそうです
反乱を起こした時 暴徒追捕のため
吉良喜命を喜多郡の大領に任じ 八多喜に着任した後
祇園の神を奉じ 宇津村に遷るとき
この地に休憩したことから社殿を建立し
牛頭天皇とも祇園さまとも称したと伝えられる
現在の社殿は 天保3年に再建された旧社殿が
昭和62年3月19日放火により焼失したことから
平成2年2月18日に新たに建設されたものです
梼原町指定文化財・三嶋神社と書かれていました
津野山郷の開祖・津野経高は、
梼の木の多いこの地を梼原と名付け、
延喜19年(919)竹の薮より移り
居城を築き梼原宮首に伊豆(静岡県)より
三嶋大明神を勧請したといわれている。
また藤原純友の乱の時、伊予(愛媛県)河野氏に
協力して純友征伐に向い、伊予三嶋大明神に詣で
純友の乱平定後帰国したとき伊予三嶋大明神も
勧請して祀ったと伝えられている。
慶応4年(1868)3月
三嶋大明神を三嶋神社と改称、
明治40年(1907)明治44年(1911)に
梼原地区無格社21社が合祀された。
現在の本殿は享和3年(1803)、
拝殿は明治23年(1890)に再建されている。
拝殿の彫刻は山口県の大工・中本喜作の作である。
境内には津野家代々を祀る「津野神社」
「朝鮮松(ハリモミ)」桂月大町芳衛書の
「鎮座千年碑」、木で作られた「神馬」もある。
高龗神(水の神)
祭神・・・・大山祇命、雷神
三嶋神社だそうです
津野郷の開祖津野経高公は、
延喜十九年(九一九)この地に三嶋大明神を
勧請して祀ると伝えられている。
慶応四年(一八六八)三嶋神社と改称。
のちに梼原地区無格社二十一社が合祀された。
祭神 大山祇命・雷神・高龗神
昭和五十七年度
高知県文化財保存事業
梼原町教育委員会
神社の由来だそうです
元徳二年(一三三〇)伊予国守護職に補された(異説もある)
宇都宮豊房が、元弘元年(一三三一)下野国宇都宮より
領内鎮護として大津の五郎(元 市川郷)に
勧請した神社であると伝えられているが、
当初の社伝については知る由もない。
現在の本殿は、勧請御三五四年を経過した
貞享二年(一六八五)九月、国主加藤遠江守(泰恒)の代に
再建されたものであることが棟札によって明らかである。
大洲市指定有形文化財(建造物)
宇都宮神社本殿一棟附棟札一面
天平年中(8世紀)喜多の郡矢野郷のだそうです
矢野の神山(出石寺山)に鎮座されていたのを
鎌倉時代守護職梶原景時が 現在の地に奉遷し
喜多一郡を敷地と定め 150貫の土地を献じました
元和3年(1617年)加藤貞泰公藩主となりて後は
大洲六万石領内の総鎮守と定められ
社費一切は藩費をもってまかなわれ 神宝を献じ
社殿を建造するなど特別の崇敬を受けました
雅楽奉納には藩主自らが三管を奏しました
現社殿は元禄11年(1698年)
藩主加藤泰恒公により建てられたものです
福石だそうです
古老の申し傅へに云う其の昔
平成十三年より約八二〇年前
平清盛公 安徳天皇を奉じて
神戸福原に都を遷せしに東北
の方に怪光を発する岩在る夢
を見ること連夜の如し清盛公
不審を懐き家臣越中次郎兵衛
盛純を遣わして之を探るに此
岩なり 即ち清盛公 此の
霊地に豫て尊崇するところの
市杵嶋姫命を祀り 此の石を
福石と称す
篠原厳島神社
御祭神 市杵嶋姫命 素盞鳴命だそうです
天兒屋根命 菅原道真公
嚴島神社由緒
人皇三十二代用明天皇の御官士 菅美高根庄
右部之大臣家臣佐高菅巳之進 友成兄弟 嚴藤
大夫重則に従ひ天子藝洲嚴嶋神社へ御宣之有
帰宮の後此所に市杵嶋命奉安置勧請年暦不詳
又古老之申傳云 福原新都の節布引の瀧より
夜々光り物之有るを清盛公より仰越中次郎兵衛
盛純此を退治する所 白玉を頂きたる大龍なり
此の白玉を執て此所に安置し奉り市杵嶋姫命と
奉称し産土神と奉尊すと云ふ
御神徳
篠原地区の産土神で在ると共に海運交通の守神
学問芸術技術等の神と崇められる
当社の創始は、伊勢神宮開社の頃(西暦前3年)であるとだそうです
語り伝えられているが、正確な年号は判然としない。
しかし、『延喜式神祇部』に所載の神社として、
千数百年前既に由緒ある名社として尊崇されていたことが想像できる。
当社に祀られている御祭神の大己貴命は、
少彦名命と力をあわせ国土経営に当られ、
慈愛の心篤く福徳円満、医薬酒造の祖神、
また、七徳兼備を称えられ広く尊崇されているが、
一説には、摂津国造凡河内忌寸の祖を祀っていたのであろうといわれている。
延喜年間(901~)、菅原道貞公が筑紫の太宰府へ左遷の途次、
御影の浜に船を泊めたとき、菅公との別れを惜しみ
ひそかにこの地まで下向した師父尊意僧正(延暦寺第十三代座主)と
社頭において餞別の際、その応待が極めて慇懃丁寧なるを垣間見た村人達が、
菅公の没後、その勧学文墨の徳を慕って御霊を勧請合祀し、
俗に五毛天神と称せられるようになった。
当社は元、この地方の大氏神として厚く崇敬され、
昔は稗田・鍛冶屋・山田・篠原の四ケ村も氏子となっていたが、
現在は五毛・畑原・上野の旧三ケ村が氏子である。
大洲城の東方に位置し 小高い社がだそうです
商売繁盛の神・家内安全の神・安産の神・大漁満足の神
としられた大洲神社です。
宇都宮家譜によると、元弘元年(1331年鎌倉時代)
宇都宮豊房公が大洲城を築きし時、
城内総鎮守神として下野國二荒山(ふたちやま)神社より勧請し、
太郎宮として斎祭される。
戸田・藤堂・脇坂を經、元和3年加藤貞泰城主となり、
先例により祈願所と定めて崇敬し、以下歴代の藩主の崇敬篤く
境内地・社殿の造営・修復・祭器具等の寄進がたびたびされ、
旧縣社に列せられる。
三島神社由緒だそうです
神紋 傍折敷角切縮三文字
祭神 主祭神 大山祇命 大雷命 高龗命
由緒 寛平三年(891)宇多天皇の御宇、平安時代の初期、
河野対馬守通有六世の祖、甲祖五郎通敦が
この地の主領であったとき、越智郡大三島から
大山祇神霊を合祀勧請し、三島神社と奉称した。
現在の地名の高祖は「甲祖」の姓を取ったものである。
宝物二十三体も勧請の時に譲り受けたもので、
天正の兵乱に神体と木像が兵火に罹らなかったのは
川根と云う者が当社の南方二町余の山中の小瀑布の
側に奉遷したことによる。兵火鎮定の後に
小社を造営し、神霊及び隋神を奉祀し、さらに社殿を
以前の社地に建造した。
昭和三十二年(1957)本殿並びに拝殿を消失したが
同三十四年(1959)に再興した。
平成元年(1989)十月弊殿、拝殿を改築。社務所を建造した。
県神社(Agata Shrine)だそうです
県(あがた)とは、大和政権が西日本の要地に設けた
地域組織で、特に畿内にあった県は、政治と祭祀に
重要な位置を占めていたといわれており、当時
の宇治が属したといわれる栗隈県に社名の起源を
もとめることができます。祭神は木花開耶姫と
いわれ、永承7年(1052)に藤原頼道が平等院を
建立した時に、その鎮守としたとも伝えられています。
毎年6月5日から6日の未明にかけて行われる県まつりは、
暗夜の奇祭といわれ、多くの人出でにぎわっています。
県神社だそうです
当社は、天孫天津彦彦火瓊々杵尊の妃
木花開耶姫命を奉祀する。「あがた」の名は、
上古の「県(あがた)」の守護神であったことを示し、
神代以来当地の地主神であった。後冷泉天皇
永承七年(一〇五二)時の関白藤原頼道の
平等院建立にあたり、同院総鎮守となり、藤原氏の
繁栄を祈請したのである。
明治維新までは三井寺円満院(大津市)の管理下にあったが、
これは平等院が三井門主開眼に?かり
天台宗に属していたためである
維新後は神仏分離令によってその管理から離れた。
当社の大祭、六月五日から六日未明にかけて
行われる暗夜の奇祭「あがた祭」は近府県はもとより
広く全国から参拝者が集まりたいそうにぎわう。
宇治市
宇治神社そうです
宇治神社は、日本書紀に「応神天皇の皇子で、
兄である、仁徳天皇との皇位を巡る葛藤から宇治で
自殺した」と記されている。悲運の皇太子菟道稚郎子の
等身大の座像を祀っており、付近は菟道稚郎子が
造営した桐原日桁宮跡と伝えられています。また、
明治維新までは、宇治上神社と二社一体で、それぞれ、
離宮上社、離宮下社と名付けられていました。
現在の本殿及び外陣の狛犬は鎌倉時代につくられたもので、
狛犬は開口する獅子(阿形)と一角を持つ狛犬(吽形)で
一対とされ、格調高い作品として極めて貴重なものです。
当社の際れである離宮祭は、田楽等の芸能が催され、
平安後期から鎌倉時代には多くの人々が集まり大いに
賑いました。
延喜式内社だそうです
宇治神社
御祭神 菟道稚郎子命(ウジノワキイラツコノミコト)
第十五代応神天皇の皇子
御由緒
宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは
応神天皇の離宮
(桐原日桁宮キリハラヒケタノミヤ)跡でもあり、
皇子の菟道稚郎子命の宮居の跡と伝えられている。
応神天皇が稚郎子命を天位に任命するが稚郎子命は
和仁(ワニ)博士から儒教の思想を学んでいたので
兄の大鷦鷯命(オオサザキノミコト後の仁徳天皇)を
差し置いて天位に就く事が儒教の思想(長子相続)と
違ったため、稚郎子命は天位を兄の大鷦鷯命に譲りあいの後、
死をもって節を全うした。後に兄の仁徳天皇は稚郎子命の
宮居に祠を建て神霊を祀ったのが、この神社の始まりである。
御神徳 宇治の氏神様
幼い頃より聡明にして阿直岐や和仁博士について
学問の道を極められ、我が国最初の文教の始祖であり、
学業や受験合格の神様として崇められている。
御本殿 鎌倉時代初期の建物で
三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)
桧皮葺き(ひわだぶき)で御神像と共に
国の重要文化財に指定されている。
年甲辰秋
九月
と刻まれていました
宇治上神社又 別の説明板には
宇治上神社は、明治維新までは隣接する
宇治神社と二社一体で、それぞれ、
離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。
祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子
菟道稚郎子(ウジノワケイラツコ)のほか、父の
応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。
本殿は平安時代後期の、神社建築としては
最古のものに属する建造物で、一間社流造の
内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに
共通の覆屋をかけたものです。また、
その身舎(モヤ)の扉には、建立当時の
絵画が遺されています。なお、境内に
湧き出ている桐原水は、宇治七名水の一つと
されています。
宇治上神社は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で
採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、
「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。
このことは、人類全体の利益の為に保護する価値のある文化遺産として、
とくにすぐれて普遍的価値を持っていることを
国際的に認められたことになります
宇治上神社の創建は古くさかのぼりますが、平安時代に平等院が
建設されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の崇敬を集めて、
社殿が維持されてきました。
本殿は、正面一間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の
覆屋で覆った特殊な形式となっています、建立年代については、
蟇股の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に
造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築です。
また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿です。
意匠的には切妻造の母屋の左右に庇をつけた形であり、屋根はその部分が
唐破風となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられます。
神の為の本殿に対し、人の使う拝殿には
住宅建築の様式が採用されてることが多く、ここでは、拝殿が初めて
建てられた頃の住宅建築の様式である寝殿造の軽快な手法が、鎌倉時代
の再建にも受け継がれたと考えられます。
本殿の後方は広大な森林が広がっており、
こうした環境は緩衝地帯の一部となっています
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
宇治市
御祭神 大山祇神(おほやまつみのかみ)だそうです
高於加美神(たかおかみのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
由緒 和銅5年(712)8月23日、越智郡大山祇神社より勧請。
三島別宮地前宮と号した。建立は越智散位大夫玉輿、
同異母弟玉澄と伝えられる。
藩政時代は、井門・森松村(松山領)上麻生村(大洲領)、
下麻生村(新谷領)の三領にわたる氏神であった。
御祭神は 管相公(菅原道真公)以上は愛媛県神社庁のHPに書いてありました
淳茂公(道真の四男)
北ノ方
相殿 大山積神
由緒 管公御生再度御社篤の所神縁
深きを以って死去後殿内に祀り
客天神と拝む、天慶5年(942)9月25日
河野伊豫宍越智宿禰好方国内
25社の天神を大宰府より勧請す
相殿大山積神は聖武天皇
神亀5年8月23日有詔伊與国司
越智宿禰大三島神を勧請す
延喜式内社 堤根神社だそうです
御祭神 彦八井耳命
菅原道真公
約一〇〇六年前、河内湖周辺を水害から
守るため、仁徳天皇の命により茨田宿祢が
旧淀川(古川)に日本最古の堤防、
茨田堤を築く。
この堤を守るため、茨田の先祖彦八井耳命
(神武天皇の皇子)を守護神として
奉祀したのが神社の起源である。
平安時代の延喜式神名帳にも記され、
鳥居前には河内と大和を結ぶ行基道が通じ
ており、北河内随一の古社として厚い信仰を
集めている。
また江戸時代初期、淀藩主、永井信濃守尚政により
菅原道真公を、合祀させている。
大阪府史跡しかし この説明板がないと築堤跡とは思えません
伝 茨田堤(マンダノツツミ)
古代河内国はほとんどが海で、
河川の土砂により河内湾から河内潟、河内湖へと
地形が変化し陸地が形成されていきました。
五世紀中ごろの河内は河道の定まらない
北の河(淀川)南の川(大和川)の氾濫に
常に悩まされる土地柄でありました。
そこで時の仁徳天皇が渡来者の土木技術を
活用し北の河の南端の支流である現在の古川に
堤を築き、農耕地を広げるわが国最古の
国家的大事業を行われました。
この堤が日本最古の築堤である
茨田堤で、古事記、日本書紀にも記されています。
この茨田堤により河内国の低湿地帯にも
農耕文化が発達し、国家の経済的な発展の基盤に
なりました。
そして堤の守護神として建立されたのが
堤根神社であります。
その後淀川の流れは数度の改修工事を経て、
茨田堤は各地で分断され、堤根神社東方に
わずかに残るのみとなりました。
そこで日本最古の築堤を後世に残そうと
保存運動が起り昭和四九年及昭和五八年に
大阪府指定の史跡に認定され永久に
保存される事となりました。
住吉神社(ねや川戎)だそうです
住吉神社は古来三社大明神といい、
御祭神は住吉大神・春日大神・戎大神の
三柱を合わせ祀り、
もとは木田元宮公民館の近く
(木田元宮一丁目)にありましたが、
昔この辺りは降雨のたびに浸水し
「お社が水に浸かって困っている。
たとえ糠団子を食べてでもいいから、
水の浸からない高い所へ移りたい」と
村人に神様から夢のお告げがあり、
江戸時代慶長年間(一五九六~一六一五)に
現在の地に遷座されたと伝えられています。
またこの神社は、別名「ねや川戎神社」ともいい
「ねや川の戎っさん」と親しまれ、
北河内周辺では伝統ある戎祭として、
一月九日の宵戎・十日の本戎・十一日の
残り戎の三日間は、多くの参詣者で
賑わいをみせています。
寝屋川市
寄進の鳥居だそうです
ここ鞆呂岐神社の本殿は、市内でもめずらしい
桃山文化の流れを伝える美しい彩色のある流造りで、
境内奥の奥宮の社の前には、「寄進の鳥居」と
呼ばれる鳥居があります。この鳥居は、
『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士の一人、
村松喜兵衛秀直の四代目の子孫が寄進したといわれます。
事件後、縁者は捕えられ、秀直の子、政右衛門は
伊豆大島に配流されますが、四代将軍家綱の法要を機に
赦免されましたので、その後、木屋村に移り住んだようです。
鳥居には「播州赤穂城主浅野長矩家中四七人之内
村松喜兵衛秀直四代之孫 村松喜兵衛源尚次」と
きざまれています。
寝屋川市