説明板によりますと
呉服神社の御縁起
大阪府呉服里池田市に かしこくも鎮座まします
日本最初「繊維」の祖神呉服大神の御由緒を左に申述べます
人皇第十五代応神天皇の御代に 猪名津彦命を
中国の呉の国に遣わし 機織(はたおり)裁縫(たいtぬい)の工匠を
お需めになりました その時 久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人を
案内役として 呉の国に趣き 呉王に乞うて 呉服(くれは)・綾織(あやはとり)・
兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の四人を伴い 渡来する事となりました
帰路九州の築紫潟に着きましたが 兄媛は 胸形明神のお望みにて
この地にお留りになり 他の媛は摂津の国武庫の浦にお着きになりましたので
猪名の港(今の唐船ヶ淵)に機殿を建て 呉服媛をお迎え致しました
呉服の神女は 昼夜怠りなく 布帛を織り 少しも倦み給う事がなかったと
申します この時より 機織裁縫染色の技術が我国に伝わり
男女寒暑の服装の別が定まりました 尚四季には上妙の衣服を
天子に献じ 下は万民に施されました
仁徳天皇の七十六年(385)九月十八日 呉服の大神は
御齢百三十九才という人生に倍する御長寿を以て お隠れになり
その御遺体を 今にその跡を残す梅室姫室に お納め申し上げました
その翌年仁徳天皇が 勅令を以て 御神祠をお建てになりました
この大神が糸を様々にお染分けになった所を 染殿井と称し
その糸を掛け晒しになりました松を 絹掛松と名付けて
その跡は 今も残って居ります
大神の御託宣に「我は衣服の神となり 人をしてその寒暑の憂なく
養蚕機織絹布裁縫の道を守護し 且つ船路遥かに この日本に帰化せし故
海上の難おも無からしめん」とあります
代々の帝 殊に御崇敬篤く 円融天皇御代には
鎮守府将軍源満仲公が 社祠を修復 又下って後陽成天皇の御代には
豊臣秀頼公が 片桐且元を奉行に命じて 再建の事があり
文政二年には 有栖川宮殿下の御祈願所となりました
近年になって 昭和四十四年 新拝殿の御造営が相なりました
因みに呉服大明神の御名は 後醍醐天皇より賜りました
御宸翰より起り 又これによりて 我国にて絹布の類をすべて「呉服」と
称する事となりました
省みまするに五穀を作るすべを授け 万民に飢餓の憂の無い事は
天照大神の御神徳であると等しく 機織裁縫の道を教えて
寒暑の憂なきは この大神の御遺徳に他ならずと信じます
この故を以て 衣服の業に従い 並びにその産物を商うものはおしなべて
祖神たる呉服大神を崇敬すべき事は論を俟たぬ事であり
古来より健康長寿家業繁栄文化経済手芸上達の神徳があるといわれています
狛犬さんの台座には 寛政三年(1791)辛亥四月吉日
石工 大阪 中村? と刻まれていました
吽形の頭には 小さな角が見えています
本殿は 祀ってある女神にふさわしい 華麗な装飾がされています
瓦にはお宮さんの紋として 糸巻きが付いています