説明板によりますと
本荘宗秀・宗武の墓
ここは宮津藩最後の藩主 本荘氏六代宗秀・七代宗武の墓地である
松は枯れてしまったが 二基の墓標と 旧城内二の丸より移した石橋が残っている
宗武は天保十一年(一八四〇)宗発(むねあきら)より家督を継ぎ
寺社奉行・大阪城代・京都所司代・老中等幕府要職を歴任した
慶応二年(一八六六)長州再征に副総督として広島へ出張したが
捕慮の長州藩家老宍戸備後守らを独断釈放した事件をめぐって幕府の嫌疑を受け
副総督・老中を罷免され家督を宗武に譲った
宗武の時代は異国船渡来騒ぎのさなかで 宮津藩も海岸防備
「お台場」築造等慌しい時代であった 晩年は文芸書画を好み
又伊勢神宮大宮司となった 明治六年(一八七三)死去した 六十五歳
宗武は家督をついで間もなく慶応四年正月戊辰戦争をむかえた
山城八幡の警護に当たっていた宮津藩士のなかから官軍発砲事件を起こし
宗秀・宗武父子は朝敵の嫌疑をうけ入京をさしとめられた
ところが時あたかも山陰鎮撫使西園寺公望一行の宮津到着の機会に
随行の長州藩士らの陳情もあって 嫌疑はとかれ入京も許されることとなった
明治二年版籍奉還して宮津藩知事となる 同四年廃藩置県で
暫く宮津県知事 明治六年北海道農園開拓に従事したが
同年宗秀死去の後宮津に帰って籠神社宮司になる
天橋義塾の創設維持にも関係し 文芸を好んだ 明治二十六年(一八九三)
死亡した 四十八歳
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会
左側の写真の正面に写っているのは 宗秀の墓です
手前に写っているのが 城内二の丸から移した石橋だと思います
この狛犬さんも 阿形がいません
顔もかなり磨滅していています
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