境内に貼ってあった由緒書によりますと
竹田神社由緒略記だそうです
御祭神
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
天照大神の御子にあらせられ、
国土を開拓し、農具を造り、農業を教え給ひし
神にましまして、蒲生稲置の祖神と崇め奉る。
天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
天津彦根命の御子にあらせられ、
草薙の御剣を鍛造し給ひし神にましまして、
日本鍛冶の祖神と崇め奉る。
石凝姥命(いしこりどめのみこと)
神鏡、八咫鏡を鋳造し給ひし神にましまして、
鋳物師の祖神と崇め奉る。
大己貴命(おおなむちのみこと)
(御子、事代主命)
世に大黒、恵毘須と並び称えて、
福の神と仰ぐ神にましまして、
国土開発、産業振興、諸病を治め給ひ、
又縁結びの神として崇めまつる。
大屋彦命(おおやひこのみこと)
樹種を分播し、植樹し給ひし神にましまして、
木材を扱ひ、家宅を建つる工匠等の
崇め奉る神にまします。
由緒
当社は、人皇第十代崇神天皇の七年(皇、五七〇
西前、九一)水穂真若王が勅を奉じて
御創建遊ばされた二千年の古社にして、
延喜式内の菅田神社は当社である。
成務天皇五年十月(皇、七九五 西、一三五)
蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及
伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、
南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三麿は
蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、その徳
近江に洽く、欽明天皇六年(皇、一二〇五
西、五四五)綿向神社の祠宇を造営し、
推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。生前の
徳を仰ぎて祖神の座に配祠す。
天智天皇七年五月(皇、一三二六 西、
六六六)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、
幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし
剣一口、並に伝来の鉾一本を献上せり。又
藤原鎌足公の命により朝日山より日蔭蔓を採り
朝廷に献ず。これより御即位の大甞会ある毎に
献納するを例となす。
桓武天皇の延暦十六年(皇、一四五七 西、
七九七)坂上田村麿、当社に武運長久を祈り
本殿を再建す。
寛仁二年三月(皇、一六七七 西、一〇一七)
後一条天皇、当社社殿を今の地に造営し、御遷宮の
典を挙げさせられ、勅使藤原季忠を遣はし幣帛を
奉り給ふ。
後冷泉天皇の天喜四年(皇、一七一六 西、
一〇五六)大神主頼俊、野部勘六に鋳物師統領職の
綸旨を給ひ、大日本鍛冶鋳物師の統領となる。
元歴元年(皇、一八四四 西、一一八四)
源頼朝当社に使者を遣はし武運を祈る。
後鳥羽上皇、当社に御参籠遊ばされ、野部、増倉と
共に刀を打たせ給ひ、
今もなほわざならひて剣太刀
打つべき人の祈る神垣
と御製を献じ給ふ。
康永三甲申(皇、二〇〇四 西、一三四四)
足利尊氏石灯籠を寄進す。
文亀三年(皇、二一六三 西、一五〇三)兵燹に罹り、
拝殿、回廊、宝庫炎上したるにより、蒲生貞秀(智閑)
再建す。又不思議の神助ありとて神田を寄進す。爾来
蒲生家代々の崇敬厚く、天文十年(皇、二二〇二
西、一五四二)蒲生下野守賢秀本殿を再建し、天正二年
(皇、二二三四 西、一五七四)蒲生氏郷、神領
百五十石並、狛犬一対を寄進す。
天正年間、豊臣秀吉当社に参拝し、神能を奉献す。
現在当社に伝ふる「菅田」の能これなり。
慶長六年二月(皇、二二六一 西、一六〇一)
豊前小倉の藩士伴治左衛門当社に参拝し祭資料を
寄進し古式の祭事を復興す。
後水尾天皇宝永二年(皇、二二八五 西、一六二五)
二月二十八日正一位の宣旨あり。
領主市橋家より氏神として崇敬殊の外厚く、毎年一月、
四月に領主の参拝あり、月々には家臣をして代参せしめ
祭資料を奉れり。
当社の古文書の多くは文亀三年の兵燹により
湮滅したるも、古来皇室、並武将の信仰厚きのみならず、
広く世人の信仰をあつめ、鍛冶、鋳物師等金属製品を
扱ふ人達の祖神として、又農耕をなす者の祖神として
崇敬するの外、古くより開運繁栄、諸災難除け、方除け、
火防、縁結び安産の守護神として信仰する者多く、
御神徳いやちこにして、霊験を顕はし給ふこと、あたかも
響の音に応ふるが如く、いとも尊き神にてましますなり。
このお宮さんは 木喰上人が造った狛犬さんで有名です
木食とは 五穀(米 麦 粟 稗 黍)あるいは十穀を絶って
山菜や木の実しか口にしないと云う 修行の事だそうです
木食上人は 何人かいるそうですが この仏像を彫った事で
有名な木喰上人は 食に口片が付いた 木喰上人です
現在お宮さんにいる木喰狛犬は レプリカだそうです
どちらも 頭に宝珠のような物が乗っています
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