境内の石碑に依りますと
由来
当里浦の地は日本書紀にある蜑男狭磯の
感動的故事から「里の蜑」といわれ歌枕となり
古来多くの歌に詠まれた名所である。里海荘は
歌聖を祭り歌を捧げる人丸影浜の料として
清少納言の父清原元輔の所領以来世々伝領された。
当社は里蜑人丸神社ともよばれ、益田市の
柿本神社、明石市の人丸神社とともに
日本三社の一である。
柿本人麻呂がこの磯辺に船寄せたと伝える
ゆかりも古く元永元年(1118)に
修理大夫の藤原顕季が六条東洞院で催した
人丸影供は歌聖の画像を掲げ酒果を供え
儒仏の法をも併せ祭った荘重にして典雅な
画期的祭典であり、その資は実に里浦の荘の料であった
???建立及び正応(1288~1292)の頃に
和歌所で行われた人丸影供も亦里の蜑の料によって
賄われた。影供の都度その資にこの地の年貢が当てられて
使途は定着し 里浦の庄には人丸の神詞が祀られた。
鳴門市里浦出張所のあたり天神の森に年久しく祀られてあった
古祠???寛政の頃(1789~1800)?北の山根に?し
社殿を造営して奉齋した。この間豪族の山野??や土地領有の
??するとして、この地は人丸の祠を祭って兼併???
安堵を得人丸に対する尊崇が高まった。
人丸は学問歌道の神である。歌聖を慕って全国各地から
歌人文人か?り詣で和歌を奉納する儀は絶えず、歌会もまた
しばしば????きた。
このたび併せて改築された十五神社の境内に残る
蜑の古?を修復しかつ男狭磯の功を讃える碑を
寄進した。
以下略
人丸神社三社の内の一つと書かれていますが
違う資料では 人丸神社は252社あるそうです
人丸信仰は除難祈願で タタラ師・木地師等の
職人集団の移動により広まったとか
話としてはこの方が面白いと思いますが
土地の方が誇りとしている事に クレームは付けません
階段の先に在る鳥居の手前にいました
詳細は不明ですが 新しい狛犬さんですね
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