金曜日, 2月 25, 2011

狛犬さん 1042

2011.01.30 滋賀県近江八幡市宮前町 日牟礼八幡宮
 境内社の天満宮に居た狛犬さんたちです
 説明板によりますと
  
天満宮
   祭神 菅原道真公
  元宮内町に独立して祀った。
  慶長六年(1601)勧請。
  大正五年(1916)現慰霊殿敷地から移建。
  昭和二十八年(1953)より
  現在の姿で祀る。宮内天神、庄六天神とも
  伝え、文麟の灯籠と鉄斎の一筆の牛が
  名高い。大正五年慈元天満宮を合祀す。
   
    だそうです

 願掛けなのでしょうか
  狛犬さんの上や廻りが石だらけになっています

 台座に 明治三十九年(1906)
    と刻まれていました














 狛犬さんの顔のアップです
 吽形の目の所に一円玉が乗せられていますし
 阿形の方は 可哀そうに石ころを入れられていますね

木曜日, 2月 24, 2011

狛犬さん 1041

2011.01.30 滋賀県近江八幡市宮内町 日牟礼八幡宮
 境内の説明板によりますと
  
拝殿 入母屋造
  鎌倉時代の初期文治三年(一一八八)
  源頼朝公近江の守護職佐々木六角に命じて建立
  元文・文化の改築を経て
  明治二四・昭和一三・五三年に
  屋根葺替を行い先年の葺替で
  銅版葺に改めた。平成九年
  床板等を主に改修の工事を実施
  現在に至っています
  
 又別の説明板によりますと
  
御本殿 (三間社流造
             向拝千鳥破風付)
  八幡大神をお祀りした建物で
  延暦二年勅願により宇佐の神を
  勧請して創建されました。嘉暦・
  弘治・万治・享保・文化と数回に及ぶ
  修復造替を経て、明治二十四年昭和十三年
  昭和五十三年と屋根葺替が行われ、
  先年の葺替により従来の桧皮葺を
  銅版葺(軒付桧皮)に改めた
    そうです

 桧皮葺にするのは大変なのでしょうね
  改修する前の姿を見て見たいと思いました

 楼門の中に居た狛犬さんたちです
 木製ですね
 周りの金網が邪魔で 
   とても写しにくい狛犬さんたちでした
 詳細については分かりませんでした

水曜日, 2月 23, 2011

狛犬さん 1040

2011.01.30 滋賀県近江八幡市宮内町 日牟礼八幡宮
 このお宮さんは 火祭りで有名ですね
 大きな楼門のある 立派なお宮さんでした
 
 楼門の前にいた狛犬さんたちですが
 周りに立っている幟がとても邪魔でした
 
 台座には明治四十一年(1908)
      十二月一日  と刻まれていました

月曜日, 2月 21, 2011

狛犬さん 1039

2011.01.29 滋賀県甲賀市信楽町 新宮神社
 本殿の前に居た狛犬さんたちです
 唯一 石造の狛犬さんです
 
 年号らしきものがあったのですが
 写真の写りが悪かったので 読み取れません
 しかし そんなに古い狛犬さんではなさそうです















 木像の高麗犬(鎌倉時代)があるようですが
 何処かに 保存しているのか
 社殿の中に居るのか わかりませんでした





 

日曜日, 2月 20, 2011

狛犬さん 1038

2011.01.29 滋賀県甲賀市信楽町 新宮神社
 説明板によりますと
 
新宮神社御由緒
  御祭神 素盞鳴命 稲田姫命 大山津見神
   新宮神社は奈良時代の霊亀元年(七一五年)
  九月に創建されました。それ以来、信楽町
  大字長野、神山、江田、小川の「産土神(氏神)」
  として広く人々から尊び崇められ社号を
  「新宮大明神」と呼ばれていました。これまでに
  近衛関白家を始め、近江の守護佐々貴氏等に
  篤く信仰され、代々当社に境内神領などの
  寄進がありました。
   南北朝の戦(一三三六年)の兵火にて
  焼失して再建されたが、その後大風の為、
  本殿が大破し、寛文三年(一六六三年)十一月に
  現在の本殿が再建されました。
   明治九年(一八七六年)十月「村社」に、
  大正二年(一九一三年)四月
  「神饌幣帛料供進神社」に指定、
  大正四年(一九一五年)五月、長野字西出と
  宇川東の二箇所に「山神社」として
  「大山津見神」を祀られていたのを、
  当社に合祀されました。
   大正十三年(一九二四年)には「郷社」に昇格。
  現代は「紫香楽一乃宮」として篤く崇敬されております。
      だそうです
 
 台座に 昭和五十年(1975)二月吉日
  と書かれていました
 目鼻立ちがはっきりした 狛犬さんたちですね

土曜日, 2月 19, 2011

狛犬さん 1037

2011・01・29 滋賀県甲賀市信楽町 新宮神社
 お宮さんの傍まで行くと 鳥居の前に
 こんな素敵な狛犬さんが座っていました
 
 大正亥子会還暦記念
    昭和五十八年(1983)二月吉日
  と書かれていました
 昭和五十八年は癸亥になります
 狛犬さんのお尻に 双芳作 と刻んでありました

金曜日, 2月 18, 2011

狛犬さん 1036

2011.01.29 滋賀県甲賀市信楽町 愛宕神社・陶器神社
 信楽焼と言えば 酒瓶を下げたタヌキの置物で有名です
 参道にある説明板によりますと
        
   愛宕山頂に祭祀する愛宕神社が、
  千二百年の伝統を誇る信楽焼の生産と
  不可分の関係にあり、それは、毎年七月に
  山頂の愛宕神社に松明を奉納する荘厳にして
  古式床しい神事が古くより行われており、
  また東京の有名な芝愛宕神社は、徳川家康が
  慶長八年に幕命によって、この信楽の
  愛宕神社の分霊を江戸に移し参らせたもので
  あることと多くの歴史学者の
  肯定している処であります。
   陶郷信楽の中心点ともいうべき愛宕山頂の
  陶器神社は、その御祭神を火の守護神
  「愛宕権現」と、土を司り給う「加具土師」
  及び焼物を始めとする当地方文化の祖
  「天日鉾命」祭祀し、遠く我々の祖先より
  祀り継がれてきた。正しく我が陶器産業の守護の
  神社であります。
         陶器神社奉賛会
   だそうです

 このお宮さんは鳥居も灯籠も信楽焼で出来ていますし
 本殿の横には 沢山の狸さんが勢ぞろいしています
 狸さんたちは 各製陶所の名前が入っていました
 
 社殿は小ぶりですが 狛犬さんは勿論信楽焼
 台座に明治三十七年(1897)辰第四月
    製造人 菱乕
 狛犬さんのお尻のあたりにも◇乕と書かれていました














 参道の途中にお稲荷さんが祀られていましたが
 その前に居る キツネさんも焼き物だと思います
 台座に 2009 初午
    贈 ㈱三彩
 製陶の会社からの 贈呈ですね

 この狐さんたちも個性的で素敵でした


 
 

火曜日, 2月 15, 2011

狛犬さん 1035

2010.01.29 滋賀県蒲生郡日野町 石原神社
 境内の石碑によりますと
 
石原神社記
  一、御祭神 須佐之男命
  一、御由緒 勧請年月不詳
   社伝に因れば往古、当地方に疫病流行し
   邑民甚だ苦しみし時、氏神竹田神社の
   神官安井春阿弥、須佐之男命を祭りて
   祈るや則ちにしておさまりしを以ちて、
   山城国八坂神社の御分霊を勧請し
   斎き祀りしとある。古へは牛頭天皇と
   稱せり。年々七月十四日よりの大祭は
   盛大にて、献ぜられる灯篭は邑民手工芸の
   技巧を競い、その風趣他に類を見ず夏の
   風物詩として世に知られ遠近よりの
   参拝者にて賑えり
   
 また 別の説明板によりますと
 
祇園社
  祇園社は京都にある八坂神社の分祀社ではあるが、
  元来は疫病の侵入を防ぐ神である牛頭天王を
  祀る神である。従って石原村が発生した当時から
  村の鎮守社として祀られた神社であろう。
  本殿横の石造灯籠に南北朝時代の
  貞和4年(1348)造立の刻銘があり、
  優れた石造物として町指定の文化財になっており、
  村と神社の歴史の古さを物語っている。毎年
  夏の例祭は祇園さんと呼ばれて大灯籠が奉納されて
  大変にぎわう。
    日野町観光協会・必佐公民館
    だそうです

 狛犬さんの台座には
  昭和八年(1933)二月 と刻まれていました

月曜日, 2月 14, 2011

狛犬さん 1034

2011.01.29 滋賀県東近江市鋳物師町 竹田神社
 境内に貼ってあった由緒書によりますと
 
竹田神社由緒略記
 御祭神 
  天津彦根命(あまつひこねのみこと) 
    天照大神の御子にあらせられ、
    国土を開拓し、農具を造り、農業を教え給ひし
    神にましまして、蒲生稲置の祖神と崇め奉る。
  天目一箇命(あめのまひとつのみこと) 
    天津彦根命の御子にあらせられ、
    草薙の御剣を鍛造し給ひし神にましまして、
    日本鍛冶の祖神と崇め奉る。
  石凝姥命(いしこりどめのみこと)
    神鏡、八咫鏡を鋳造し給ひし神にましまして、
    鋳物師の祖神と崇め奉る。
  大己貴命(おおなむちのみこと)
   (御子、事代主命)
    世に大黒、恵毘須と並び称えて、
    福の神と仰ぐ神にましまして、
    国土開発、産業振興、諸病を治め給ひ、
    又縁結びの神として崇めまつる。
  大屋彦命(おおやひこのみこと)
    樹種を分播し、植樹し給ひし神にましまして、
    木材を扱ひ、家宅を建つる工匠等の
    崇め奉る神にまします。
  由緒
    当社は、人皇第十代崇神天皇の七年(皇、五七〇
    西前、九一)水穂真若王が勅を奉じて
    御創建遊ばされた二千年の古社にして、
    延喜式内の菅田神社は当社である。
     成務天皇五年十月(皇、七九五 西、一三五)
    蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及
    伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、
    南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三麿は
    蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、その徳
    近江に洽く、欽明天皇六年(皇、一二〇五
    西、五四五)綿向神社の祠宇を造営し、
    推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。生前の
    徳を仰ぎて祖神の座に配祠す。
     天智天皇七年五月(皇、一三二六 西、
    六六六)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、
    幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし
    剣一口、並に伝来の鉾一本を献上せり。又
    藤原鎌足公の命により朝日山より日蔭蔓を採り
    朝廷に献ず。これより御即位の大甞会ある毎に
    献納するを例となす。
     桓武天皇の延暦十六年(皇、一四五七 西、
    七九七)坂上田村麿、当社に武運長久を祈り
    本殿を再建す。
     寛仁二年三月(皇、一六七七 西、一〇一七)
    後一条天皇、当社社殿を今の地に造営し、御遷宮の
    典を挙げさせられ、勅使藤原季忠を遣はし幣帛を
    奉り給ふ。
     後冷泉天皇の天喜四年(皇、一七一六 西、
    一〇五六)大神主頼俊、野部勘六に鋳物師統領職の
    綸旨を給ひ、大日本鍛冶鋳物師の統領となる。
     元歴元年(皇、一八四四 西、一一八四)
    源頼朝当社に使者を遣はし武運を祈る。
    後鳥羽上皇、当社に御参籠遊ばされ、野部、増倉と
    共に刀を打たせ給ひ、
     今もなほわざならひて剣太刀
       打つべき人の祈る神垣
    と御製を献じ給ふ。
     康永三甲申(皇、二〇〇四 西、一三四四)
    足利尊氏石灯籠を寄進す。
     文亀三年(皇、二一六三 西、一五〇三)兵燹に罹り、
    拝殿、回廊、宝庫炎上したるにより、蒲生貞秀(智閑)
    再建す。又不思議の神助ありとて神田を寄進す。爾来
    蒲生家代々の崇敬厚く、天文十年(皇、二二〇二 
    西、一五四二)蒲生下野守賢秀本殿を再建し、天正二年
    (皇、二二三四 西、一五七四)蒲生氏郷、神領
    百五十石並、狛犬一対を寄進す。
     天正年間、豊臣秀吉当社に参拝し、神能を奉献す。
    現在当社に伝ふる「菅田」の能これなり。
     慶長六年二月(皇、二二六一 西、一六〇一)
    豊前小倉の藩士伴治左衛門当社に参拝し祭資料を
    寄進し古式の祭事を復興す。
     後水尾天皇宝永二年(皇、二二八五 西、一六二五)
    二月二十八日正一位の宣旨あり。
     領主市橋家より氏神として崇敬殊の外厚く、毎年一月、
    四月に領主の参拝あり、月々には家臣をして代参せしめ
    祭資料を奉れり。
     当社の古文書の多くは文亀三年の兵燹により
    湮滅したるも、古来皇室、並武将の信仰厚きのみならず、
    広く世人の信仰をあつめ、鍛冶、鋳物師等金属製品を
    扱ふ人達の祖神として、又農耕をなす者の祖神として
    崇敬するの外、古くより開運繁栄、諸災難除け、方除け、
    火防、縁結び安産の守護神として信仰する者多く、
    御神徳いやちこにして、霊験を顕はし給ふこと、あたかも
    響の音に応ふるが如く、いとも尊き神にてましますなり。
    
   だそうです

 このお宮さんは 木喰上人が造った狛犬さんで有名です
 
 木食とは 五穀(米 麦 粟 稗 黍)あるいは十穀を絶って
 山菜や木の実しか口にしないと云う 修行の事だそうです
 木食上人は 何人かいるそうですが この仏像を彫った事で
 有名な木喰上人は 食に口片が付いた 木喰上人です

 現在お宮さんにいる木喰狛犬は レプリカだそうです
 どちらも 頭に宝珠のような物が乗っています
 

日曜日, 2月 13, 2011

狛犬さん 1033

2011.01.29 滋賀県東近江市鋳物師町 竹田神社
 本殿の前に居た狛犬さんたちです
 
 台座には 明治三十四年(1901)
      十月吉日
        寄附
 と刻まれていましたが
 狛犬さん自身には 
 昭和四十三年(1968)十二月再建
    と刻まれていました

 明治生まれの狛犬さんは もういないみたいでした















 塀の中にもう一対狛犬さんがいたのですが
 残念ながら 片方しか写せませんでした

 台座には 御大典記念
   昭和三年三月  と刻まれていました
 昭和三年の御大典は 昭和天皇の即位式だそうです
 明治に 東京奠都したため 御大礼は
   京都で行うよう決められていたそうです
 その為 昭和天皇も京都まで行ったそうですが
 その時 進むスピードが決められていて
 1分間に 86mだったそうです
 時速に直すと 5160m
  人が歩くより ほんの少し早いくらいですね


 

土曜日, 2月 12, 2011

狛犬さん 1032

2011.01.29 滋賀県東近江市鋳物師町 竹田神社
このお宮さんには 鳥居が二つあり
前回の狛犬さんは 奥の方の
鳥居の前に居た狛犬さんでした
今回の狛犬さんが 参道を入ってすぐの
鳥居の前に居る狛犬さんです

台座には 昭和五十二年(1977)
     九月吉日   と刻まれていました

水曜日, 2月 09, 2011

狛犬さん 1031

2011.01.29 滋賀県東近江市鋳物師町 竹田神社
 御祭神は 天津彦根命 天目一箇命
      配祀神 大己貴命 石凝姥命 大屋彦命
 
御由緒
 社伝によれば、崇神天皇の御代
 明神森の地に創祀し、延暦6年(787)
 坂上田村麿社殿を再造す。
 延喜式内の菅田神社は当社であるという。
 寛仁元年(1017)今の地に移し
 地名竹田により竹田神社と改める。
 天目一箇命を奉斎するのは
 古へ毎年9月19日の祭日に
 稲60穂を伊勢の多度神社に送る
 ならわしがあり、同神の分祀である事を
 語る古例である。境内に古い石灯籠
 一基あり康永3年(1344)甲申云々と
 刻すもので、足利尊氏の寄進と伝へられている。
 文亀3年の乱、兵燹に罹り社頭炎上し
 蒲生賢秀が再建する。爾来蒲生家代々の
 崇敬篤く、天正2年(1574)蒲生賢秀は神田及び
 狛犬一対を奉納する。
    だそうです
 
 鳥居の傍に居た狛犬さんです
 台座に 昭和五十二年(1977)
     九月吉日  と刻まれていました

火曜日, 2月 08, 2011

狛犬さん 1030

2011.01.29 滋賀県蒲生郡日野町 竹田神社
 ご祭神は 天麻比都津神
      伊斯許理度売神
      配祀神 市杵島姫神
 
御由緒
 社伝によると 寛永6年(1629)蒲生町鋳物師の
 竹田神社より分祀し 創祀された
 配祀神は 丹波国竹田郷より
 遷座したものである
 旧領主有馬家より度々参拝あり
 また延享5年(1748)大改修を加えた
 寛永6年延享5年の棟札を存する
 明治9年(1873)村社に列す
 石造手水鉢に享保14年(1729)
 石灯籠に安永3甲午(1774)の銘がある
 境内社南宮神社は勧請年月日不詳
 南宮御前と称したこともある
 大字小谷の中央部に鎮座していたが
 境内に移転し鎮座する
     だそうです

 また 境内の説明板には
 
竹田神社
 竹田神社と円林寺の一帯は、鎌倉時代から
 室町時代にかけての日野谷の領主
 蒲生氏の居城小谷城の城域といわれている。
 その頃にほど近い鋳物師村の竹田大明神を
 勧請したのが創建と考えられる。
 室町時代中期蒲生氏の本城が音羽城へ
 移された以降は、蒲生氏の分家であった
 小谷氏を中心とした村人達が、村の鎮守として
 崇敬護持してきた。明治の末年にこの付近一帯が
 蚊屋野公園として整備され遊客でにぎわった。
      日野観光協会・必佐公民館
 
     だったそうです

 狛犬さんの台座には
 大正六?(1917)八月
   と刻まれていました















 本殿の前の柱の上に 不思議なものがありました
 御神紋が真向兎なので 兎でしょうか
 しかし どう見ても兎に見えません
 最初見た時 イタチかと思ったのですが
 

土曜日, 2月 05, 2011

狛犬さん 1029

2011.01.21 愛媛県松山市北条辻 鹿島神社
 神功皇后が三韓征伐の時 この鹿島に立ち寄り
 武甕槌神・経津主神を祀り 戦勝祈願・航海安全を
祈願したとの伝承があるそうです
又 京都の祇園祭の船鉾に 鹿島大明神を祀るのは
この伝説によるものだそうです

 他にも「要石」の伝説があります
この地方では、昔から地底に大鯰がいて、
常には静まっているが 目覚めてあばれだすと
地震になって大地が振動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が
「要石」で押さえているので、この風早地方には
地震が少ないと言い伝えられてきた。
かたわらの石に次の歌が刻まれている。
  ゆるぐとも
よもやぬけじな要石
鹿島の神のおわすかぎりは

狛犬さんの台座には
文政八年(1825)乙酉九月吉日
海辺に在る狛犬さんですが
余り磨滅していず 二百年近くたっているとは
思えないほど 奇麗な狛犬さんです

石工さんの名前も刻まれていましたが
 読み取れませんでした

金曜日, 2月 04, 2011

狛犬さん 1028

2011.01.02 愛媛県松山市古川北 三嶋神社
境内の説明板によりますと
三嶋神社 縁起
和霊神社 縁起
稲荷神社 縁起

三嶋神社は、今から約千二百年前、
河野家崇敬の大山祇神社(大山積神)を
勧請し、三嶋神社として朝生田の鎮守と定めました。
その時、大三島の本社から弓矢、刀剣、兜、
鉄砲、馬具、薙刀、具足など沢山の宝物を贈られました。
申すまでもなく、大山積神は、天孫瓊々杵尊の皇妃として
迎えられた木花開耶姫の父にあたり、天照大神の
兄神様で日本建国の功労者であり、
日本全土の総鎮守であります。
和霊神社は、宇和島の和霊神社を勧請したものですが、
その和霊神社は、仙台藩主伊達政宗の長男秀宗が
大阪冬の陣の戦功により、宇和島藩十万石の領主として
新封を受け、その家臣である総奉行の
山家清兵衛公頼を祀っております。
山家清兵衛は、宇和島藩の財政再建を図る途上、
俗に云う宇和島騒動で非業の死を遂げた訳ですが、
後年藩主伊達秀宗がその忠節を称え、
清兵衛の至誠奉公の行績は、万世の後までも
輝いているのであります。
お稲荷さんの御祭神については、古来から
色々と云われておりますが、伊勢外宮の豊受大神即ち、
五穀を作る生産の神様とか、或はスサノオノ命の御子だあるとか、
或は豊川稲荷の如く仏教に云う語法の神とか諸説がありますが、
稲荷信仰は古くから伝えられ、要するに生産の神として
崇められ、今日では広く商売繁盛、開運安全から
諸願成就まで幅広く行きわたって信仰されているので、
吾郷土の産業発展を祈願して、京都伏見稲荷を
勧請したものであります。
このようにして私たちの祖先は、日本全土の総鎮守たる
大山積神、至誠奉公の義人山家清兵衛公頼、
生産興業の実力者稲荷神の教える精神と行績をたたえ、
更に郷土の安泰を祈願して、合祀したものであります。
末永く、和光同慶の里として平和と繁栄を祈念いたします。
だそうです

狛犬さんの台座には 昭和六十二年(1987)四月吉日
伊予松山
石匠 相原誠鳳
と刻まれていました

水曜日, 2月 02, 2011

狛犬さん 1027

2010.12.20 徳島県鳴門市里浦町 人丸神社
神社の全てが 新しく
古い狛犬さんは 居ないのかと思いました
しかし 境内の隅に居ました
どちらも顔が崩れ かなり磨滅しています
残念ながら 詳細は不明です

火曜日, 2月 01, 2011

狛犬さん 1026

2010.12.20 徳島県鳴門市里浦町 人丸神社
 境内の石碑に依りますと
由来
当里浦の地は日本書紀にある蜑男狭磯の
感動的故事から「里の蜑」といわれ歌枕となり
古来多くの歌に詠まれた名所である。里海荘は
歌聖を祭り歌を捧げる人丸影浜の料として
清少納言の父清原元輔の所領以来世々伝領された。
当社は里蜑人丸神社ともよばれ、益田市の
柿本神社、明石市の人丸神社とともに
日本三社の一である。
柿本人麻呂がこの磯辺に船寄せたと伝える
ゆかりも古く元永元年(1118)に
修理大夫の藤原顕季が六条東洞院で催した
人丸影供は歌聖の画像を掲げ酒果を供え
儒仏の法をも併せ祭った荘重にして典雅な
画期的祭典であり、その資は実に里浦の荘の料であった
???建立及び正応(1288~1292)の頃に
和歌所で行われた人丸影供も亦里の蜑の料によって
賄われた。影供の都度その資にこの地の年貢が当てられて
使途は定着し  里浦の庄には人丸の神詞が祀られた。
鳴門市里浦出張所のあたり天神の森に年久しく祀られてあった
古祠???寛政の頃(1789~1800)?北の山根に?し
社殿を造営して奉齋した。この間豪族の山野??や土地領有の
??するとして、この地は人丸の祠を祭って兼併???
安堵を得人丸に対する尊崇が高まった。
人丸は学問歌道の神である。歌聖を慕って全国各地から
歌人文人か?り詣で和歌を奉納する儀は絶えず、歌会もまた
しばしば????きた。
このたび併せて改築された十五神社の境内に残る
蜑の古?を修復しかつ男狭磯の功を讃える碑を
寄進した。
以下略

人丸神社三社の内の一つと書かれていますが
違う資料では 人丸神社は252社あるそうです
人丸信仰は除難祈願で タタラ師・木地師等の
職人集団の移動により広まったとか
話としてはこの方が面白いと思いますが
土地の方が誇りとしている事に クレームは付けません

階段の先に在る鳥居の手前にいました
詳細は不明ですが 新しい狛犬さんですね