神社の傍に有った由緒書きによりますと
湊三嶋大明神由緒沿革
御祭神は 大山積命 大綿津見大神 雷神 高竈神 饒速日命 武雷神
経津主神 上筒男神 中筒男神 底筒男神 瀬織津比賣神
速秋津比賣神 伊吹戸主神 伊豫皇子命 越智宿禰通春公霊
往古湊山に鎮座し 御津大明神とも称した
聖武天皇・神亀五年(728)八月 勅詔によって国司小千宿弥玉興
玉純父子が伊豫九四郷に一社宛大三島明神を勧請のとき
この湊山に勧請し本郷一宮と称えた
文治二年 河野四郎通信が湊山に築城のとき
当社は山の南麓に奉遷した
文永・弘安年中 蒙古襲来のとき 河野通有 同通純は
水田三反を献じて武運長久を祈り 元弘三年九月
河野伊豫守通村 同備後守通綱は 神領を寄進し武運を祈った
明徳三年 河野伊豫守通能は神殿を修理し
北條太夫越智親孝 同新太夫越智親経は この地に別亭を構え
その祖饒速日神 伊豫皇子等の神霊を祭祀した
河野通春 同通篤は湊山に居城して尊崇厚く
文明年中 足利勢と合戦没後の霊を祀った
慶長年間加藤左馬守嘉明は社殿を修理し 松平隠岐守が
藩主となって 御用船出入安全 海路守護神として尊崇し
毎例祭には代参があった
又 往古より住民並びに航海を業とする者等
大綿津見命 速秋津神を奉斎し 伊豫の熱田津(今の道後石湯の辺)
成田津(今の徳威 野田井)秋田津(今の長戸 安城田)の総守護神
三津大明神と称し 湊大明神とも称え 後に湊三嶋大明神社と称した
然る所 明治十七年の大暴風雨の際 高潮大時化の夜
社殿 社記 宝物等悉く流失せしが
御神体は 対岸三津の洲先(現在の須先町)北端に流れ着きしを
翌朝 町の人々寄り集まり この地に奉祀せんは洲鼻のこととて
何時流れんことを畏れ 御神慮を慰め御神楽を奉して
再び港山中腹(現在地)に安置し奉り 永くこの郷及び三津町守護を
御祈願申し上げし処 御霊験あらたに商売繁盛 五穀豊穣 大漁続き
水難は元より幼き児等の勧学をお護り下さった尊い御神霊に感謝し
町民は申すに及ばず 隣町 近村の崇敬殊に厚く
元治元年 須先町の仲津屋和十郎の妻が倅の航海無事を御祈願せしに
危難救護のお告げあり 日を経て倅宇和島より帰国の途中難船し
既に一命危うき時 湊三嶋大明神社を一心にお祈り申し上げしに
神霊のご加護により命助かり 無事帰をことを得たる旨
一家親族感涙 その御礼に当時使用の大錨を奉納下記録が現存している
須崎町では霊験あらたなこの御神体が洲先に流れ止ったのを
有難く勿体ない御縁とし 毎年七月二日を例祭日と定め
須先町舟場近くに仮殿社を設け奉斎の儀を厳修しているが
隣町は言うまでもなく 遠近からの参拝者相次ぎ
御神徳を集計昂揚し 報恩報謝の誠を捧げている
右 古文書並びに旧昔よりの伝承に基ずき
御由緒を録し御神徳を顕彰し奉る
湊三嶋大明神社
このお宮さんの後ろは 小高くなっていて 湊山城(港山城)が
築かれていたそうです
水軍を置くには絶好の地形ですが 今では その面影は残っていません
狛犬さんの台座には 平成七年(1995)十月吉日 と刻まれていました
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