火曜日, 3月 31, 2009

狛犬さん 694

2009.03.01 愛媛県松山市南久米町 東山神社
 松山市には狛犬さんのいない神社が多数ありますが
 狛犬さん自身も 新しいものが 多いですね
 狛犬さんの台座には 昭和十九年(1954)十二月八日

月曜日, 3月 30, 2009

狛犬さん 693

2009.03.01 愛媛県松山市鷹子町 素鵞神社
 松山市内には 素鵞とか須賀という名前の神社が 沢山あります
 素鵞社は 出雲大社にあるそうですが どうして松山と関係があるのでしょう
 今まで 素鵞神社に何軒も行きましたが 由緒書きのあったところが
  無かったように思います

 狛犬さんの台座には 昭和十三年(1938)五月之嘉辰
     と刻まれていました

日曜日, 3月 29, 2009

狛犬さん 692

2009.02.12 愛媛県松山市石手 大山積神社
 境内にある説明板によると
 
大山積神社史
  主祭神 大山積神・高龗神・雷神
  配神  熊野皇大神・熊野三社神・加具土神
      伊弉冊神・菊理姫神・事解男神
  御由緒
   一二七四年(文永十一年)九十代亀山天皇は 
   皇位を後宇多天皇に譲位し亀山上皇となりました
   同年十月第一次蒙古軍の来襲があり 亀山上皇は
   伊勢神宮に 勅使を送り 敵国降伏を祈願し
   上皇も筑前 博多の筥崎宮に 祈られました
   伊代の武将 河野通有は 弘安年間 敵国降伏のため
   大三島の大山祇神社に祈願し 大山積神を別ち
   一二七九年(弘安二年) 石手村に大山積神社を建立した
     と伝えられております
   一二八一年(弘安四年六月)再び蒙古が来襲し
   河野通有の奮戦は 史上有名であります
  (熊野皇大神は 八九二年(寛平四年)伊与息方の勧請によります)

 この狛犬さんたちも 大きな玉を持っています
台座には 嘉永七歳(1854)三月吉艮辰  と刻まれていました

土曜日, 3月 28, 2009

狛犬さん 691

2009.02.12 愛媛県松山市石手 石手寺
 ここは  四国八十八箇所の内五十一番目の札所です
 真言宗豊山派 熊野山石手寺 本尊は薬師如来
 神亀五年(728)に 聖武天皇の勅宣により 伊豫の太守越智玉純が 
 伽藍を創建したそうです。
 本尊の薬師如来は 行基が刻み 安置したそうです 
 二王門の仁王さんは 運慶一門が  作ったと伝えられているそうですが
 実際のところは 不明だそうです
 弘安四年(813)に弘法大師が訪れ 法相宗だった宗派を真言宗に変えたそうです
 このお寺には「衛門三郎」の話が伝わっていますが
  この話も 弘法大師残酷物語です 
 

 お寺の入り口に 何故か吽形の狛犬さんがいます
 お寺には 2度行きましたが どこにも阿形は見つけられませんでした
 しかし 反対側に 後ろ(お寺側)から見ると 
 ちょっと狛犬さんに似た 大きな石がおいてありました
 道路のほうからでは 狛犬さんには 見えません

 ひとり 寂しく お寺を見守っています

日曜日, 3月 22, 2009

狛犬さん 690

2009.02.08 愛媛県松山市久万ノ台 大三嶋神社
 境内の石碑によりますと
 
大三嶋神社の由緒
  祭神 大山積神
  当神社の御祭神は古くからの 
  山の神 海の神(渡航海)として 信仰されており 
  この祭神を祀る三島神社は もと柴山(聖陵高校南の山)に
  鎮座されていたが 約二〇〇年前の文化元年(一八〇四)に
  久万ノ台の北方面を鎮護する神社のお旅所であった現在地に
  大三嶋神社として遷座され 爾来保免地区住民の崇敬のもとに
  三島神社の末社として毎年十月七日の秋の大祭には
  三島神社の神輿の重要なお旅所ともなっている
  さきの大東亜戦争末期には この神社境内に掘られた二カ所の
  防空壕によって 米軍の空襲から 多数の氏子を
  守護されたと語り継がれている
     平成十七年六月吉日

 狛犬さんが抱えている珠は 少し小振りですが 
  阿形の顔は 恐ろしいですね

金曜日, 3月 20, 2009

狛犬さん 689

2009.02.03 愛媛県松山市土余戸東 三島大明神
 境内の石碑によりますと
 
社殿御修造由来
  三島大明神社は 余戸(ようご)の里の北隅に 
  神亀五年(七二八年) 大三島の大山祇神社から
  大山積神を勧請して 創建され
  配神として 雷神 高良神 猿田彦神を祭祀する  旧村社である
  中殿 拝殿は 明治六年(一八七二年)の 建造物であったが
  ?き 雨漏り等が 著しくなり 神殿尊厳の維持が困難となり
  平成三年三月御修造奉賛会を結成
  御大典記念事業として 新築することとし
  平成三年七月から 募金活動を行った結果
  氏子の方々の浄財が寄せられ 平成四年二月
  社殿一棟 倉庫一棟の新築工事に着工し
  同年八月完成したものである

 この狛犬さんたちが 抱えている大きな珠は 牡丹の花と雲が
 デザインされた ステキなものです
 お尻尾は 頭にくっついています
 台座に刻まれている制作年月ですが
  安政五年(1858) 八月 と読めるような気がしました

 これは「手引の松」
 説明板にによると
 
手引の松
  手引の松は 目通2,5mほどの松が 地上6mのところで
  H形につながり 手を引き合った姿にみえるところから
  いつとはなく手引の松と呼ばれるようになったもので
  余戸の象徴として 広く人々に親しまれてきた
  樹齢は推定200年位 学術的にも貴重なものとされ
  昭和三十七年には 松山市の天然記念物の指定を受けた
  松の保護には意が尽くされたが 昭和五十四年秋
  松くい虫の被害で枯死した
  正岡子規は『散策集』明治二十八年十月七日の項に
  「をさなき時の戯れも思ひ出されたり 竹の宮の手引松は
  今猶残りて二十年の昔にくらべて太りたる体も見えず」と記し
  「行く秋や 手を引きあひし 松二本」と詠んでいる
  かって人々が敬愛し 子規が幼時に戯れた手引の松の枯死を悲しみ
  ここにそのこんせきを保存して 記録をとどめる

 本当に 不思議な姿です

月曜日, 3月 16, 2009

狛犬さん 688

2009.02.01 愛媛県松山市南江戸 山内神社
 境内にある石碑によりますと
 
山内神社 縁起
   当社は 旧松山藩士山内興右衛門久元君の
  御霊をお祀りしてあります 君は土佐の国主山内公の支族です
  稟性は謹厳実直で 特に藩政に心を注ぎ昇進し
  卅二才にて 目付役を仰せ付けられるほどの英才でした
   特に享保の大飢饉あり 餓死者三千数百名を数う惨状となり
  主命で江戸より差し遣わされた君は 領内隈なく踏査し
  その対象と窮民救済を上申いたしました
   その頃 悪家老達は 城主江戸詰を好機と
  悪臣供を集い 主家を顚覆し 自己の権威を恣にせんと妄動
  藩主定英公は 心労重なって急逝しました 純忠至誠の君は
  力を尽くして 主家並に領民の安泰を図りましたが
  奸臣達は 君を不実不忠と讒言し 藩主が幕命で蟄居謹慎後
  急逝の因は君にありと冤罪を被せ 主命なりと強て割腹させました
  然し乍ら 君主家を懐う深き忠魂は 魂魄となり
  屡々奇瑞を顕し 主君の危難を救いました
   後文化十一年時の藩主定通公 その忠義を誉め
  当社を建立神霊を厳敏鎌輪瑗(?)命として お祀りしました
  爾来毎年四月廿三日除難の神として大祭があります
    平成二年十二月戦災焼失後再建時建立


 狛犬さんの台座には 天保十五年(1844)甲辰
           三月吉日    と刻まれていました
 狛犬さんは 本殿の横に置かれていましたが 
 平成二十年作成の他のHPでは 本殿の前に置かれていました
  

日曜日, 3月 15, 2009

狛犬さん 687

2009.01.27 愛媛県松山市別府町 飯岡神社
 御祭神は 大日孁尊・猿田彦大神・宇賀之御魂神・若皇産霊神・保食神 
 拝殿の中にあった説明板によりますと
 
当社の沿革
  天武天皇の御宇(六九七年頃)役の小角 来国の砌
  当地岡の上に登りて 四方を眺望し その景色の宜しきを
  称賛し「この地自然飯粒の形をなせり 
  是 五穀神を奉斎すべき地なり」とて 海辺に潔斎沐浴し
  五穀神を鎮奉す 依りて郷人等社殿を建て 
  飯岡大明神と稱し奉る 後に飯岡神社と改む
  是より五穀祭を行い来りしが 或る夜 宇賀之御魂神 老人に 
  稲穂を授け「此の地海辺続きなれども 吾前を治むる事
  毎年欠くこと無くば 五穀を豊かならしめん」と
  此に於て国司奉幣を奉り 例幣の例に加えて祈誓ありければ
  潮目自ら退き 難なく潮止を築き陸田と成すを得なり
  爾来河野家より五穀料拾石毎年寄進せし由 由記に見えたり
  河野氏府を別し処を茶臼山と呼び 西北の海上を
  一目に見渡す所にて 西の麓に突出の峯を「来津輪山」と呼び
  この東に船舶風待ちの港有り 入口に「佐島」と云う小島有り 
  右岸に三女神を鎮座する「佐島弁天宮」あり 大旱に雨乞を祈り霊験多し
  左岸に夷子神社あり 伊予十一夷子の内と云ふ
  弘安四年 蒙古来襲の砌 国司河野六郎通有以下"来津輪港"より出陣し
  激戦偉功を顕し この濱に帰り 四郎通時の死骸飯岡に埋む


 狛犬さんは 多分平成生まれの新人さんのようです

土曜日, 3月 14, 2009

狛犬さん 686

2009.01.27 愛媛県松山市神田 厳島神社
 御祭神は 宗像三女神(市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命)
  別名を道主貴之神(みちぬしのむちのかみ)とも言うそうです
 由緒
 当社は崇峻天皇の時代(587~592) 筑紫宗像神社の御祭神を勧請する
 文武天皇の時代(683~707)に
 東山の地(今の古三津新屋敷方面)に神殿を建立
 聖武天皇の神亀元年(724)安芸の厳島の神を勧請した
 天慶4年(941)橘遠保 河野 好方 野田 新藤次が
      社殿を修理し願文を納める
 
 明治4年に大国主命・小彦名命・塩土神・崇徳天皇・
   事代主命・蛭子命・保食神を合祀したそうです
 狛犬さんの台座には 安政五年(1858)十一月吉日 と刻まれていました 

金曜日, 3月 13, 2009

狛犬さん 685

2009.01.27 愛媛県松山市三津 恵美須社
 関西人の言う「えべっさん」です
 本殿の前には 石造の恵比寿大黒が 奉納されていました
 三津の漁港に近い 航海・漁業の神様です
 狛犬さんの台座には 天保九年(1838)
           五月吉日      と刻まれていました
 阿形のほうの足は 可愛そうに 何箇所も割れ目が見えています

木曜日, 3月 12, 2009

狛犬さん 684

2009.01.27 愛媛県松山市港山町 湊三嶋神社
 神社の傍に有った由緒書きによりますと
 
湊三嶋大明神由緒沿革
  御祭神は 大山積命 大綿津見大神 雷神 高竈神 饒速日命 武雷神
      経津主神 上筒男神 中筒男神 底筒男神 瀬織津比賣神
      速秋津比賣神 伊吹戸主神 伊豫皇子命 越智宿禰通春公霊 
   往古湊山に鎮座し 御津大明神とも称した 
  聖武天皇・神亀五年(728)八月 勅詔によって国司小千宿弥玉興
  玉純父子が伊豫九四郷に一社宛大三島明神を勧請のとき
  この湊山に勧請し本郷一宮と称えた
   文治二年 河野四郎通信が湊山に築城のとき 
  当社は山の南麓に奉遷した
   文永・弘安年中 蒙古襲来のとき 河野通有 同通純は
  水田三反を献じて武運長久を祈り 元弘三年九月
  河野伊豫守通村 同備後守通綱は 神領を寄進し武運を祈った
   明徳三年 河野伊豫守通能は神殿を修理し 
  北條太夫越智親孝 同新太夫越智親経は この地に別亭を構え
  その祖饒速日神 伊豫皇子等の神霊を祭祀した
   河野通春 同通篤は湊山に居城して尊崇厚く
  文明年中 足利勢と合戦没後の霊を祀った
  慶長年間加藤左馬守嘉明は社殿を修理し 松平隠岐守が
  藩主となって 御用船出入安全 海路守護神として尊崇し
  毎例祭には代参があった
   又 往古より住民並びに航海を業とする者等
  大綿津見命 速秋津神を奉斎し 伊豫の熱田津(今の道後石湯の辺)
  成田津(今の徳威 野田井)秋田津(今の長戸 安城田)の総守護神
  三津大明神と称し 湊大明神とも称え 後に湊三嶋大明神社と称した
   然る所 明治十七年の大暴風雨の際 高潮大時化の夜
  社殿 社記 宝物等悉く流失せしが 
  御神体は 対岸三津の洲先(現在の須先町)北端に流れ着きしを
  翌朝 町の人々寄り集まり この地に奉祀せんは洲鼻のこととて
  何時流れんことを畏れ 御神慮を慰め御神楽を奉して
  再び港山中腹(現在地)に安置し奉り 永くこの郷及び三津町守護を
  御祈願申し上げし処 御霊験あらたに商売繁盛 五穀豊穣 大漁続き
  水難は元より幼き児等の勧学をお護り下さった尊い御神霊に感謝し
  町民は申すに及ばず 隣町 近村の崇敬殊に厚く 
  元治元年 須先町の仲津屋和十郎の妻が倅の航海無事を御祈願せしに
  危難救護のお告げあり 日を経て倅宇和島より帰国の途中難船し
  既に一命危うき時 湊三嶋大明神社を一心にお祈り申し上げしに
  神霊のご加護により命助かり 無事帰をことを得たる旨
  一家親族感涙 その御礼に当時使用の大錨を奉納下記録が現存している
   須崎町では霊験あらたなこの御神体が洲先に流れ止ったのを
  有難く勿体ない御縁とし 毎年七月二日を例祭日と定め
  須先町舟場近くに仮殿社を設け奉斎の儀を厳修しているが
  隣町は言うまでもなく 遠近からの参拝者相次ぎ
  御神徳を集計昂揚し 報恩報謝の誠を捧げている
   右 古文書並びに旧昔よりの伝承に基ずき
  御由緒を録し御神徳を顕彰し奉る
           湊三嶋大明神社

 このお宮さんの後ろは 小高くなっていて 湊山城(港山城)が
 築かれていたそうです
 水軍を置くには絶好の地形ですが 今では その面影は残っていません

 狛犬さんの台座には 平成七年(1995)十月吉日  と刻まれていました

水曜日, 3月 11, 2009

狛犬さん 683

2009.01.23 愛媛県松山市祝谷東町 松山神社
 境内にある説明板によりますと
 
松山神社
   祭神は 菅原道真公 徳川家康公である
   元和四(一六一八)年 松山城主加藤嘉明が
  湯月八幡宮の境内に小祠を建て 家康公の神霊を祭祀したが
  明和八(一七六五)年に松山藩主松平定静が
  祝谷の田高の丘(現社地)に社殿を造営し 東照宮と称え
  城下の鬼門鎮護の神として崇敬した
   また 延喜元(九〇一)年 菅原道真が筑紫に
  左遷されていく途中 祝谷山崎の丘に立ち寄りて
  温泉に浴した故事により 里人が大宰府天満宮より
  旧跡の山崎の丘に神霊を勧請し 天満神社として尊崇していた
   その後 明治四三(一九一〇)年 東照宮に天満神社に
  天満神社を合祀し 松山神社と改称した
   現在の社殿は 元治二(一八六五)年に造営されたものであり
  典型的な権現造りの面影を 今もそのまま伝えている
        松  山  市
        松山市教育委員会

 狛犬さんの台座には 安政四巳年(1857)
           四月吉日   と刻んでありました
 阿形の頭には 小さな角が見えています

月曜日, 3月 09, 2009

狛犬さん 682

2009.01.23 愛媛県松山市御幸 護国神社内忠魂社
 境内の石碑によりますと
 
 当社は昭和五年一月県下各市町村並に
 一般有志の浄財により堀之内兵舎内 衛兵所西側に聯隊忠魂社として
 建設 同年五月三十日鎮座祭が執行せられた 尓来毎年軍旗祭当日
 戦没者の慰霊祭が盛大且厳粛に執行せられていたが
 昭和二十年の終戦により翌二十一年一月現在地に奉遷された
 その後護国神社の例大祭に併せて英霊鎮魂の祭典が
 執り行われている

     そうです
 狛犬さんの台座には 昭和五年(1930)五月建立 と刻まれていました

護国神社の境内に馬の像があり
 「愛馬の像建立について」と言う石碑が建っていました
馬や犬まで 戦争の犠牲になっていたのです
護国神社からの帰り道 いろいろ考えていました
もし今日本で戦争が始まったとして・・・・・・
 子供達を外国に逃がすことで 戦争に巻き込まれないならば
 私は 喜んで 手放します
 別れより 無事に平和に生きて行ってくれる事
 それが私にとって 一番の喜びですから
戦争のとき 若者達は「国の為」に 死んでいきました
「国」って 何なのでしょう
命を懸けなければならないほど 大切なものなのでしょうか
日本国 アメリカ国とかではなくて
 地球国 地球人であっては どうしていけないのでしょう
どうして 地球国 地球人になれないのでしょう 

日曜日, 3月 08, 2009

狛犬さん 681

2009.01.23 愛媛県松山市御幸 護国神社
 境内の由緒書きによりますと
 
愛媛縣護國神社御由緒(略)
  御由緒
   当神社は 明治三十二年(一八九九)
  県内一八八名の有志により 私祭招魂社として
  当時官有地(温泉郡持田町現東警察署地)に建立
  仝年三月戊辰の役 西南の役 竹橋事件 台湾守備
  日清戦争等における郷土出身戦没者四八四柱の御英霊を
  御奉斎申し上げたに始まる
   その後大正二年(一九一三)同地に愛媛県立農業学校を
  建設することとなり多賀神社(松山市新立町)に
  お遷し 昭和十四年(一九三九)現在地に御遷座 
  愛媛縣護國神社として御奉斎された
   御祭神は右記の外 日露戦争を圣て 大東亜戦争に
  至るまでの事変 戦争において護國の重任に当り
  遂にその尊い生命を捧げられた愛媛県出身の戦没者の
  御英霊を奉斎し その後社会公共のために尽くして
  県民に恩恵をもたらされた先賢諸士 即ち松山城を
  築城された加藤嘉明命 宇和島今治城主藤堂高虎命 
  松山初代藩主久松定行命 宇和島初代藩主伊達秀宗命
  その他藩主及び公共事業に功労のあった足立重信命
  又建武中興(一三三四)より明治維新(一八六八)に
  至るまでの国事に殉じて御贈位になった方々 
  産業功労者としては 義農作兵衛命 下見吉十郎命
  鍵谷カナ女命 文化人として尾藤二洲命 近藤篤山命
  矢野玄道命 正岡子規命等を合祀 さらに軍属
  女子学徒 看護婦 電話交換手 報国隊 義勇隊
  富山丸 東予丸犠牲者 警察官 消防団 自衛隊等の
  公務殉職者を併せて御祭神数は四九七二一柱を
  御奉斎申してあります

 狛犬さんの台座に 昭和十四年(1939)五月 と刻まれていました

土曜日, 3月 07, 2009

狛犬さん 680

2009.01.15 愛媛県松山市日の出町 祖神神社
 額に「?祖神」と書かれていましたが 最初の字が読めませんでした
 崩し字は 読めないことが多く 日本語の難しさを再認識しております
 狛犬さんは 小振りなちょっとぬいぐるみを連想した
  可愛い姿でした
 吽形のほうは 台座に針金で固定されていました

 先日再度訪問したところ「金」の字が 目に入りました
 このお宮さんは 金毘羅神社のようです
 しかし 額の?の文字は 読めませんでした

水曜日, 3月 04, 2009

狛犬さん 679

2009.01.15 愛媛県松山市新立町 金刀比羅神社
 由緒書きによりますと
 
金刀比羅神社御由緒略
  御祭神 大物主大神(大国主神の和魂)
      第七十五代崇徳天皇
   大物主大神は天照皇大神の御弟建速盞鳴神の
   御子に?して 国津神の大崇にして 日本國を造り開き
   農業殖産漁業航海医薬 福徳に御力を注がれ
   国民の豊で平和な生活の向上に御心を傾けさせ給ひ
   今に至るまで我が大神の御余徳に預からぬものは
   一物もないといわれております
   御相殿には 第七十五代崇徳天皇を合祀されております
  御由緒
   このご祭神の偉大で高大な御神徳を戴き奉らんと
   徳川時代には全国津々浦々に全金刀比羅信仰が広まり
   御分霊が勧請されました 当社もその一社で
   最初松山城下の讃岐街道の出入口のこの地に本宮
   遥拝所處として建立され 以後藩主を始め庶民
   に至る厚い崇敬を集めて発展を重ね現代全国に
   千余社県下にも一五〇社に及ぶ全金刀比羅神社が有る
   中 全国唯六社の内に数えられる本宮直轄分社として
   格式高く人々に明るい希望と幸福の道を開いている

      だそうです
 狛犬さんの台座には 元治元子年(1864)
           甲三月吉日
           石工
            田野屋好五郎  と刻まれていました
 この狛犬さんたち 正面から見ているだけですと 可愛いのですが
 後ろに廻ると 足の間から 男性・女性のシンボルだけでなく
  お尻の穴まで 丁寧に刻まれていました
 他のお宮さんでも その様な狛犬さんを見かけました
  どうして そこまでリアルにする必要があったのでしょうか

火曜日, 3月 03, 2009

狛犬さん 678

2009.01.15 愛媛県松山市小坂 倉乃町神社
 由緒とかご祭神等は わかりません
 でも 狛犬さんはとてもステキです
 目が 空を向いています
 正面からは 口しか見えないんですよ
 口元からは まるで長いひげが垂れ下がっているように見えます
 そのひげの陰に隠れるように 小さな珠が見えています
 阿形のほうは 光の加減で見えにくくなってますが
  口の中に 小さな珠が入っています
 高いところに居るので確かめられませんでしたが
  コロコロと 動くようでした
 こんなデザインの狛犬さんを バッテラ型と呼ぶとか
     云いえて妙です
 台座には 昭和十一年(1936)
      十月吉祥日建  と刻まれていました