2012.06.01 愛媛県松山市北条 国津比古命神社
前回の櫛玉比賣命神社の階段を降りる時
正面に立派な楼門が見えてきます
国津比古命神社の楼門です
境内の説明板によりますと
国津比古命神社楼門 一棟
愛媛県指定有形文化財(建造物)
昭和二六年(1951)十一月二十七日史跡指定
昭和三二年(1957)十二月十四日史跡替
この八脚門は、慶安二(1649)年に市内
阿沼美神社に建立されたものを元禄年間
(一六八八~一七〇三)に、この地に移した
と伝えられるが、建立年については、慶長一〇
(一六〇五)年に初代松山城主加藤嘉明が
建立したものという説もある。
建築様式は、 単層、入母屋造、本瓦葺、柱は
円柱で、一部唐様をを取り入れた和様建築である。
入口の虹梁やその他の部分に後代の補修や
改築の跡があるが、虹梁の構造や蟇股などの
彫刻に創建当初の技法を残し、全体に雄大
で豪華な桃山建築の面影を伝えている。
松 山 市
松山教育委員会
だそうです
国津比古命神社
主神 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)
相殿 宇麻志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊(応神天皇)
国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。
昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。
その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。
大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、
この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、
なおかつ、自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、
櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。
後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、
国津比古命神社と元の社名になりました。
頭日(カグヒ)八幡宮と呼ばれた時期もありましたが、
享保年間(一七一六~一七三六)に、元の社名にもどりました。
物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇敬厚く、
戦火により焼失した社殿が再建されました。
享保元年(一七四一)松山藩主の松平定喬は毎年代官を
参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、
その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年( 1909)、
社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和六年( 1931)に
境内拡張・斎館の整備などが行われました。
そうです
狛犬さんの台座には
天保九戌年(1838)
八月吉日
年号は 戌は読み取れたのですが
後は読めなかったのです
しかし 天保年間で戌年は 九年だけのようなので
天保九年としました
今治石工 中谷元右ヱ門
楼門はお宮さんでは隋神門と言い
門を守る神様がいらっしゃいます
矢大臣・左大臣とも呼ばれる事があるようですが
片方の神様は弓を持ち腰に刀を佩いた姿を
よく見かけますが このお宮さんでは
どちらも笏を持っております
正面からでは分かりませんが
横から見ると 厚みが無くペタンコなのです