境内の石碑にこんなことが書いてあります
衫子(ころものこ)絶間跡茨田連衫子の機智とは
日本書紀 仁徳天皇の十一年(五世紀初)の
条に、茨田堤の築造のことが出ていますが、
それには、二ヵ所の難所があって、
何度工事をやり直してもつながらないので、
人柱を立てて、堤を完成させようとしました。
下の一ヵ所は、武蔵の国の、強頚(コワクシ)が
犠牲になりました。上の処は、茨田連衫子が
指名されましたが、衫子は、機智をもって
いけにえになることを免れました。
その現場は、こゝから、四百米東の方と云うことです。
神様のお告げにより 強頚と衫子が人柱に選ばれたのです
強頚は泣く泣く命令に従い死んでしまいますが
衫子はヒサゴを二つ川に投げ入れ
本当の神様ならば このヒサゴを沈める事が出来るだろう
と云ったそうです
そう言うと急に大風が起こり ヒサゴが沈みそうになりましたが
すぐに浮き上がり 下流に流れて行ってしまったそうです
その為 衫子は人柱になることを免れた そうです
狛犬さんの台座には 昭和五拾八年(1983)拾弐月
と刻まれていました
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