2010.09.25 大阪府寝屋川市池田中町 菅原神社
鳥居の扁額に 天満宮と書かれていました
御祭神は 菅原道真公
本殿の前にいた狛犬さんです
台座に 平成十八年(2006)十月吉日建立と
刻まれていました
土曜日, 10月 30, 2010
金曜日, 10月 29, 2010
木曜日, 10月 28, 2010
狛犬さん 962
2010.09.25 大阪府寝屋川市太秦中町 熱田大明神内若宮
内の 入口にあった説明板によりますと
この狛犬さんたちは 境内社の若宮の前にいました
詳細は不明です
内の 入口にあった説明板によりますと
太秦廃寺跡
ここ熱田神社境内からは、昔から古瓦が出土し、
礎石に使用されたとみられる巨石が多く認められ、
付近一帯が古代の寺院跡であることが知られています。
奈良時代後期から平安時代前期に属するものです。
秦(ハタ)・太秦(ウズマサ)の地は、寝屋川市域でも
早くから人々が足跡を残した地域の一つであり、
約千八百年前の弥生時代には、丘の上に
全国的にも有名な高地性集落がいとなまれていました。
その後形成された古墳群(太秦古墳群)は、
わが国の古代史に多大の影響をおよぼした
秦氏の人々の墓と考えられています。また、昭和三十七年
(一九六二)には、神社東の山の土取り工事中に
全国でも珍しい雄鹿の埴輪(頭部)が出土しました。
太秦廃寺の実態については不明な点も多くありますが、
『広隆寺末寺別院記』に記載されている「河内秦寺」に
あてる説もあります。
寝屋川市
この狛犬さんたちは 境内社の若宮の前にいました
詳細は不明です
水曜日, 10月 27, 2010
狛犬さん 961
2010.09.25 大阪府寝屋川市太秦中町 熱田大明神
名古屋にある熱田神宮から 分祀されたお宮さんでしょうか
そうだとすると 御祭神は天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)
草薙剣(クサナギノツルギ)とも言われます
壇の浦の戦いのとき 平清盛の妻 であり
安徳天皇の祖母であった二位尼が
神璽を持ち 剣を腰にさし 幼い天皇を抱いて
入水した と子供のころに 読んだことがあります
神鏡は 箱に入っていたので 沈まず
源氏方が拾い上げたとか
そうでは無くて 熱田神宮に保管されたままという説も
あるそうですが そうでないと 困る方々がいらっしゃるのですよね
本殿の前にいた狛犬さんたちです
台座には 弘化三年(1846) 丙午?
十二月吉? と刻まれていました
名古屋にある熱田神宮から 分祀されたお宮さんでしょうか
そうだとすると 御祭神は天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)
草薙剣(クサナギノツルギ)とも言われます
壇の浦の戦いのとき 平清盛の妻 であり
安徳天皇の祖母であった二位尼が
神璽を持ち 剣を腰にさし 幼い天皇を抱いて
入水した と子供のころに 読んだことがあります
神鏡は 箱に入っていたので 沈まず
源氏方が拾い上げたとか
そうでは無くて 熱田神宮に保管されたままという説も
あるそうですが そうでないと 困る方々がいらっしゃるのですよね
本殿の前にいた狛犬さんたちです
台座には 弘化三年(1846) 丙午?
十二月吉? と刻まれていました
火曜日, 10月 26, 2010
月曜日, 10月 25, 2010
狛犬さん 959
2010.09.25 大阪府寝屋川市太間町 天満宮
境内の石碑にこんなことが書いてあります
神様のお告げにより 強頚と衫子が人柱に選ばれたのです
強頚は泣く泣く命令に従い死んでしまいますが
衫子はヒサゴを二つ川に投げ入れ
本当の神様ならば このヒサゴを沈める事が出来るだろう
と云ったそうです
そう言うと急に大風が起こり ヒサゴが沈みそうになりましたが
すぐに浮き上がり 下流に流れて行ってしまったそうです
その為 衫子は人柱になることを免れた そうです
狛犬さんの台座には 昭和五拾八年(1983)拾弐月
と刻まれていました
境内の石碑にこんなことが書いてあります
衫子(ころものこ)絶間跡茨田連衫子の機智とは
日本書紀 仁徳天皇の十一年(五世紀初)の
条に、茨田堤の築造のことが出ていますが、
それには、二ヵ所の難所があって、
何度工事をやり直してもつながらないので、
人柱を立てて、堤を完成させようとしました。
下の一ヵ所は、武蔵の国の、強頚(コワクシ)が
犠牲になりました。上の処は、茨田連衫子が
指名されましたが、衫子は、機智をもって
いけにえになることを免れました。
その現場は、こゝから、四百米東の方と云うことです。
神様のお告げにより 強頚と衫子が人柱に選ばれたのです
強頚は泣く泣く命令に従い死んでしまいますが
衫子はヒサゴを二つ川に投げ入れ
本当の神様ならば このヒサゴを沈める事が出来るだろう
と云ったそうです
そう言うと急に大風が起こり ヒサゴが沈みそうになりましたが
すぐに浮き上がり 下流に流れて行ってしまったそうです
その為 衫子は人柱になることを免れた そうです
狛犬さんの台座には 昭和五拾八年(1983)拾弐月
と刻まれていました
日曜日, 10月 24, 2010
狛犬さん 958
2010.09.25 大阪府寝屋川市石津中町 若宮八幡宮
境内の説明板によりますと
点野 木村家石材店施工
と刻まれていました
まだ新しく 目や口元に赤い色が 残っています
境内の説明板によりますと
石津の竜神様狛犬さんの台座には 昭和五十五年(1980)十二月建之
この話は、古くから石津に伝わっている物語で、
“石津の竜神様”“菱に乗ってきた竜神様”などと
いわれています。
田植えがすんで数日すると、大雨になり
激しくふりつづきました。せっかく植えた苗も
水の底に沈んでしまい、村は湖に浮かんだ
小島のように見えました。その時、水面に
菱がものすごい勢いで流れてきました。
見るとその上に竜神さまが乗っているではありませんか。
村の東の端の岸に着いた竜神さまは、
空を見上げました。すると、空一面にたちこめていた
雨雲の一部が激しい勢いで垂れ下がり、竜神さまを
包み空へ舞い上がっていきました。黒雲が
天にとどいたかと思うと、天候は一転し、
日がさし、青空がのぞき、水は減りはじめ、
青い田んぼが姿を現しました。村人はよろこび、
竜神さまが空へ舞い上がった場所を神域として
お祀りするようになりました。
この神域といわれるのが、ここから北西約四〇〇メートルの
ところにあります小さなお宮で、地元では「元宮」と
呼ばれています。
現在では、ここ若宮神社で祀られるようになりましたが、
長い年月を経た今でも人々は、毎年十月の秋祭には
元宮から若宮神社に至る参道をちょうちんで飾り、
菱を供えて「竜神さま」をお祀りします。
寝屋川市
点野 木村家石材店施工
と刻まれていました
まだ新しく 目や口元に赤い色が 残っています
土曜日, 10月 23, 2010
狛犬さん 957
2010.09.25 大阪府寝屋川市仁和寺本町 仁和寺氏神社(にわじうじがみしゃ)
昭和六十二年に災害に会い平成に再建したとのことですが
その昭和までの神殿のあった場所なのでしょう
「旧御神殿跡」の石碑が建っています
その石碑の前に居た狛犬さんたちです
詳細は不明です
仁和寺庄の古跡だそうです
仁和寺は、「にわじ」または「にわいじ」と
呼ばれています。地名は、京都の仁和寺(にんなじ)の
所領であったことに由来すると考えられます
鎌倉時代初期に後鳥羽・御高倉院の生母であった
七条院が京都仁和寺を管領(寺務を司る権利)したことによって、
仁和寺庄も七条院領となり、のち地頭職(地頭としての権利)は
室町院(暉子内親王)へ寄進され、北朝方の持明院統の
所領になりました。この時『室町院御領目録』を見ると、
上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、
以後、上下二庄として史料に表れます。
南北朝時代に入って持明院統の花園上皇は
暦応五年(一三四二)に妙心寺を再興したとき、
上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺に寄進しました。
しかし、応永六年(一三九九)大内義弘が
将軍足利義満に謀反を起こした応永の乱が勃発し、
敗死した大内義弘と妙心寺の住持拙堂が親しかったために
妙心寺領は室町幕府に没収され事実上の幕府御料所となりました。
江戸時代の仁和寺村は、延宝二年(一六七四)と
享和二年(一八〇二)に二回の大洪水があり、
淀川の堤防が決壊しました。特に享和二年の決壊の時には
堤防が百五間(約一九〇m)にわたって切れたため、
浸水は遠く現在の八尾市や大阪市生野区・平野区まで及びました。
俗に「仁和寺・点野(シメノ)切れといわれている大災害です。
ここ、旧仁和寺村の氏神である仁和寺氏神社の創建は
室町時代の初期と伝えられ、もとは白山権現社でしたが、
寛永十年(一六三三)永井信濃守の支配に伴い天満宮となりました。
延宝二年の堤防決壊時に社殿が流失してしまったため、
現在の位置に移されました。
寝屋川市
昭和六十二年に災害に会い平成に再建したとのことですが
その昭和までの神殿のあった場所なのでしょう
「旧御神殿跡」の石碑が建っています
その石碑の前に居た狛犬さんたちです
詳細は不明です
金曜日, 10月 22, 2010
狛犬さん 956
2010.09.25 大阪府寝屋川市仁和寺本町 仁和寺氏神社
境内の石碑によりますと
境内の石碑によりますと
仁和寺氏神社そうです
御祭神 菊理比売命
応神天皇
菅原道真公
由緒 往古より 当社は白山権現を
奉斎してきたが 応永の乱後
この地方が男山八幡宮の社領となったため
八幡宮を境内に勧請した その後寛永十年
領主永井氏の勧めで 菅原道真公をお祀りし
天満宮と称するようになった
延宝二年 淀川堤が決壊して社殿が流された際
この地区の中央に再興された
昭和六十二年八月不慮の災いに
罹わりましたが 畏くも御神体は 御安泰であり
早速にも氏子崇敬者の格別のご奉賛を賜り
平成元年九月吉日竣工 同年洞月二十三日~
二十四日に 遷座奉祝大祭を斎行
水曜日, 10月 20, 2010
狛犬さん 955
2010.06.25 大阪府寝屋川市国松町 春日神社
境内の石碑によりますと
狛犬さんの台座には 昭和四十九年(1974)十二月吉日と
刻まれていました
吽形の頭には角があるように見えますが
近くで見ると 髪の毛の盛り上がり?のように見えます
境内の石碑によりますと
椎の社叢(国松・春日神社境内)だそうです
「社叢」とは神社の森のことで、
ここ春日神社の境内には、樹齢数百年の
シイの大樹が群生しています。
社殿をおおう大樹は陽光をさえぎり
神社の静寂をいっそう深めています。
このようにシイの大樹が群生している例は
非常に少なく、「椎の社叢」は、昭和五六年六月に
大阪府の天然記念物に指定されました。
また、国松という地名には、次のような伝承があります。
『昔、この地に大きな松の木がそびえていた。
それは見事な松で、国のうちでも一番だというので、
この松のあるあたりを「国松」と呼んだ。そして
やがてこの松が枯死してので、村人はこの松を伐り、
根本の太いところを焼いて灰にして、その灰で
神像をつくって祀ったのが、春日神社の創祀である』
と伝えています。
社記によると、建仁三年(一二〇三年)に、
古松のあったところに社祠を建て、大和春日神社から
分霊を勧請して春日神社と呼んで氏神にしたといいます。
この神社の境内には、推定六〇〇年をこえるシイの古樹が
根を張り、枝を広げていますが、おそらく創建時に
近いころの樹と推定されます。また、境内には、
シイの他にもモチ・クス・クヌギなどの樹齢二五〇年を
こす大樹が育っています。
寝屋川市
狛犬さんの台座には 昭和四十九年(1974)十二月吉日と
刻まれていました
吽形の頭には角があるように見えますが
近くで見ると 髪の毛の盛り上がり?のように見えます
火曜日, 10月 19, 2010
金曜日, 10月 15, 2010
木曜日, 10月 14, 2010
水曜日, 10月 13, 2010
火曜日, 10月 12, 2010
狛犬さん 949
2010.09.25 大阪府寝屋川市香里本通町 友呂岐神社
祭神は 応神天皇 菅原道真公 茨田連袗子
摂社 成願稲荷社 倉稲魂神
境内の石碑によりますと
鳥居の前に居た狛犬さんたちです
新しい狛犬さんたちですが すごい牙です
祭神は 応神天皇 菅原道真公 茨田連袗子
摂社 成願稲荷社 倉稲魂神
境内の石碑によりますと
友呂岐神社御由緒だそうです
友呂岐は鞆呂岐とも書き、
古代から皇室の荘園でした。
御祭神の応神天皇(三~四世紀)
別名大鞆別命と申し上げ、
鞆・・は天皇の立派なお姿の形容、
呂岐は神を表わす語でトモロギの
語源がしのばれます。
この地は天皇の皇子仁徳天皇が
茨田の屯倉を置かれ、太間の袗子は
その時の伝説です。ここは皇室の
別荘の営まれたところで、御所山と
呼ばれます。又、菅原道真公左遷の時の
通路に当たり公を祀る神社が多く、
公を祀った三井・田井・太間の各神社を
合祀しています。大祭は十月十六日
一月のお弓神事は美井(三井)に
残る伝統行事です。
鳥居の前に居た狛犬さんたちです
新しい狛犬さんたちですが すごい牙です
月曜日, 10月 11, 2010
狛犬さん 948
2010.06.21 愛媛県東温市野田 徳威三嶋宮
御祭神は 鹿屋野比賣神(かやぬひめのかみ)
大山積神(おほやまつみのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
高龗神(たかおのかみ)
阿形の狛犬さんは口に小さな珠をくわえています
御祭神は 鹿屋野比賣神(かやぬひめのかみ)
大山積神(おほやまつみのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
高龗神(たかおのかみ)
由緒だそうです
徳威原の台地に鹿屋野比売神を祀り
「徳威王楯明ノ宮」と称したことに始まる
慶雲3年(七〇六)国司越智玉興が大三島から
三神を勧請して上津社・中津社・下津社の三社を祀り
「徳威三島神」と崇めた。
寛永4年(1627)松山藩主蒲生忠知が入封
徳威原の開墾計画により寛文六年(1666)
上津社・中津社を下津社に合祀
寛文8年(1668)大干ばつが起こり
久米・浮穴両郡代官の支配にて雨乞い祈願祭を斎行する
世にこれを「寛文の御面雨乞い」と称す
明治4年(1871)太政官布告によって三島神社と号した
大正7年(1918)中殿改築、昭和28年(1953)神楽殿造営
同年11月「徳威三嶋宮」の旧名に復した
阿形の狛犬さんは口に小さな珠をくわえています
日曜日, 10月 10, 2010
狛犬さん 947
2010.06.21 愛媛県東温市田窪 浮島神社
浮島神社の浮島は その昔池や沼に葦の茂った浮島が
有ったのが 元になっているようです
田窪と云う地名も それに由来しているのかもしれませんね
しかし 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)を
御祭神にしているのは 珍しいそうです
狛犬さんの台座には 嘉永二年(1849)
酉八月 と刻まれていました
境内の看板に
浮島神社の浮島は その昔池や沼に葦の茂った浮島が
有ったのが 元になっているようです
田窪と云う地名も それに由来しているのかもしれませんね
しかし 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)を
御祭神にしているのは 珍しいそうです
狛犬さんの台座には 嘉永二年(1849)
酉八月 と刻まれていました
境内の看板に
磐座(イワクラ)
本殿の庭にある三つの大石を磐座という。
社殿建築が行われる以前の古代祭祀様式の一種で、
神様の御降臨を仰いでお祭りをするための依代であり
御神座である。そのため、石の中央が少しへこみ
神様に座っていただくのに丁度よい大きさや形になっている。
当社では、中央に可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)
左右に伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)を
お祭りしてきたと伝えられている。磐座が現存する神社は
古社で、全国的にも少ないといわれている。
土曜日, 10月 09, 2010
狛犬さん 946
2010.06.21 愛媛県東温市田窪 宇氣洲神社
御祭神は 三島神 大山祇命 雷神 高龗神 十六皇子神
海稲八幡神 譽田別神 息長足帯中日子神
境内の石碑によりますと
このお宮さんでは すでに江戸末期に合祀されたのですね
狛犬さんの台座には 大正元年(1912)六月建之
石工 金子忠太郎
と刻まれていました
絵馬の一枚にこんな額がありました
これはいったい何が書いてあるのでしょう
最初見た時は 河童だと思ったのですが
よく見ると 獅子の絵でしょうか
御祭神は 三島神 大山祇命 雷神 高龗神 十六皇子神
海稲八幡神 譽田別神 息長足帯中日子神
境内の石碑によりますと
宇気洲神社由来神社合祀令は 主に明治末期に行われたそうですが
この神社は 三島神社と海稲八幡宮を合祀している
三島神社は千二百五十年前神亀五年(728)
伊予の国主越智玉純が大三島より勧請したという
その後荏原城主平岡氏と志津川の城主和田氏と
数次の戦いに社殿を破壊されたが
後醍醐天皇のころ 越智通孝が社殿を再興した
海稲八幡宮はおよそ九百年前の延久二年(1070)
源頼義が現在地に創建したと古記にあり
嘉永二年(1849)二社合祀の儀おこりこの地に三島神社を合祀して
大正二年(1913)一月宇気洲神社と改称し今日に至る
昭和五十三年十月
このお宮さんでは すでに江戸末期に合祀されたのですね
狛犬さんの台座には 大正元年(1912)六月建之
石工 金子忠太郎
と刻まれていました
絵馬の一枚にこんな額がありました
これはいったい何が書いてあるのでしょう
最初見た時は 河童だと思ったのですが
よく見ると 獅子の絵でしょうか
金曜日, 10月 08, 2010
木曜日, 10月 07, 2010
狛犬さん 944
2010.06.21 愛媛県東温市志津川 三島神社
境内の石碑によりますと
狛犬さんの台座には 大正十年(1921)盛春
三津石工 三嶋亀吉
と刻まれていました
境内の石碑によりますと
縁起修覆ノ記だそうです
三島神社ハ神亀五年辰八月廿三日
(皇紀一三八八年)(728)
伊豫國守越智宿禰王純公ニヨツテ
大三島ヨリ岩伽羅山上に勧請シ
文治元年(一八四五年)(1185)岩伽羅城築城ニヨリ
コノ地ニ遷宮セラレル 當時吉井郷
一ノ宮テアルト傳ヘラル
東方ニ鎮座セラル客八幡神社ハ
文中年間(二〇三二年)(1372~1375)
河野通定公ニヨリテ筑紫ノ宇佐八幡宮ヨリ勧請シ
正八幡宮ト稱シタ
慶長年間(1596~1615)天満宮ヲ合祀
正八幡宮客天満宮ト稱セシカ安政ノ頃(1854~1860)
客八幡神社ト改稱現在ニ至ル
爾来幾星霜吾ラ父祖ハ産土神トシテ
景仰シ幾度カ御社殿ノ修覆?
狛犬さんの台座には 大正十年(1921)盛春
三津石工 三嶋亀吉
と刻まれていました
水曜日, 10月 06, 2010
火曜日, 10月 05, 2010
月曜日, 10月 04, 2010
狛犬さん 941
2010.06.11 大阪府大阪市住吉区 浅沢神社
御祭神は 市杵島姫命
すぐ傍にある住吉大社の 境外末社だそうです
住吉大社の境内社・境外社の四社
種貸社・楠珺社・浅沢社・大歳社を
毎月初の辰の日に 参拝すれば より一層の御利益があるそうです
境内の説明板によりますと
わたしが行ったの時 残念ながら杜若は咲いていませんでしたが
池の隅に立派な灯篭が立っていたのが 印象的でした
狛犬さんの台座には 昭和十二年(1937)七月吉日建之
と刻まれていました
御祭神は 市杵島姫命
すぐ傍にある住吉大社の 境外末社だそうです
住吉大社の境内社・境外社の四社
種貸社・楠珺社・浅沢社・大歳社を
毎月初の辰の日に 参拝すれば より一層の御利益があるそうです
境内の説明板によりますと
浅沢の杜若だそうです
住吉の浅沢小野の杜若
衣に摺りつけ着む日知らずも
万葉集
その昔、ここから南にかけては清水の湧く
大きな池があり浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢・
京都の大沢と並ぶ近畿の名勝であった。
とくに住吉の浅沢池は、美しく咲き乱れる
杜若で歌人たちに愛され、万葉集をはじめと
する多くの歌集にその名をとどめている。
しかし昭和に入って「忘水」と称された浅
沢の清水も枯れ、杜若に代って明治神宮の
花菖蒲が移植されていたが、平成九年地元の
強い要請を受け、細江川改修の一環として浅
沢に新しい水脈を加え、各地の原種の杜若を
集め、ここに住吉区の区民の花の由来となる
「浅沢の杜若」を復活させることが出来た。
いにしへを偲ぶ市民の憩いの場として、この
名勝を長く守り伝えなければならない。
(財)住吉名勝保存会
わたしが行ったの時 残念ながら杜若は咲いていませんでしたが
池の隅に立派な灯篭が立っていたのが 印象的でした
狛犬さんの台座には 昭和十二年(1937)七月吉日建之
と刻まれていました
日曜日, 10月 03, 2010
土曜日, 10月 02, 2010
狛犬さん 939
2010.06.11 大阪府堺市北区百舌鳥梅町 尾羽根天満宮
境内の説明板によりますと
この狛犬さんは鳥居をくぐってすぐのところにいました
境内の説明板によりますと
尾羽根天満宮の由来だそうです
当天満宮は今より三百年前より河内國
道明寺天満宮の分祀としてこの地に
祀られたものである。当地には
尾羽根庵があり、真言宗道明寺より
派遣された尼僧が代々お守りしていたが、
明治初期の神佛分離令により各村々の鎮守さんは
百舌鳥八幡宮に合祀されたが
当天満宮だけはこの地に残されたものであります。
厨子は二百八十年前泉州大鳥郡万代之庄と言った頃
当社再興に当たり享保壬寅七年(1722)八月
堺湯屋町の富豪布屋谷善右衛門
齋泉主より寄進されたものであります
右は当天満宮の由縁であり以前は木造
であったが平成九年十二月吉日鉄社に造営されました
尾羽根天満宮講中
この狛犬さんは鳥居をくぐってすぐのところにいました
登録:
投稿 (Atom)