前回ご紹介した 勝山八幡神社は 八社八幡の八番目
今回は 七番目のお宮さんです
説明版によると
還熊八幡神社
松山の八社八幡の七番社
祭神は 品田和気命・帯中彦命・息長帯姫命・迦具都知命である
貞観年間(八五九~八七七)越智(後の河野)氏によって
岩清水八幡を勧請して創建された
延久五(一〇七三)年 国司の源頼義により
八社八幡の一つに加えられたという
八幡神は神功皇后の伝説から 弓矢の神となり 源氏の氏神といわれた
河野氏も源氏と深い関係を持っていたので
当社への尊心は厚かった
延元年間(一三三六~一三三九)には
後醍醐天皇の皇子懐良親王が 武運長久を祈願したと伝えられている
慶長五(1600)年 関が原に出陣した加藤嘉明の
留守をねらって 河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し
佃十成と戦ったとき 当神社に立てこもった河野一族は敗北し
社殿 宝物等すべてが焼失した
のちに 松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し
八社八幡の一社として崇敬した
『愛媛面影』に「旅行する人此社詣(づ)れば
必(づ)恙無くかへり来とて信ずる人多し
還熊と云(ふ)名によるなるべし」とある
松 山 市
松山市教育委員会
狛犬さんの台座には 天保五甲午年(1834)八月吉日
と刻まれていました
神社のHPに
矢取社・京都の祇園社・天満社も合祀してある
と書かれていますが 還熊八幡神社の北方に
矢取宮というお宮さんが別に有ります
由緒書きによりますと
矢取宮 由緒 沿革 再建
矢取宮は「遠く長寛年間 鎮西八郎源為朝公が 伊予に下り
河野親清公に拠り 常に弓術を練磨し 五十猛神を尊信した
弓術の奥儀を悟るに際し 神祠を建て 五十猛神を祭り
矢取宮と称したという」に 起源いたすのであります
爾来ここに八百余年 北山越 北組の守護神として
五穀豊穣 家内安全等に 霊験あらたかでありまして
組内の尊崇するところでありました
更に 五十猛神の御神徳にちなみ 青少年鍛錬の勇武の神として
代々松山藩主並びに住民の崇敬するところであったと
伝えられております
その後 近代に至りましても 組内に「講」を編成いたしまして
輪番制で祭事を執り行ってきたのであります
また少年達は四季ごとに集団参拝を実施して心身の鍛錬の一助になす
というような行事が連綿として続けられてきたのでありました
ところが 戦後数回に亘る台風のために
社殿が大破損いたしましたので これに伴い
信迎的諸行事も一時中断のやむなき状態に立ち至っておりましたが
このたび地区内崇敬者の方々のご熱意によりまして
社殿再建ここに竣工の日を迎えました
私達の祖先が数百年の永い間守り続けてきた
信仰の灯を 皆様方とともに復活し 後世に遺し得ますことは
崇敬者一同無上の光栄と存ずる次第であります
昭和五十七年四月吉日
矢取宮社史調査担当
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