ご祭神がすごいんです
素盞鳴命・弟橘姫他五十余神
主たる神様は素盞鳴命のようで 七月には祇園祭りが行われるそうです
明治末期 時の政令により 町内の小社・小祠を改築
(金刀比羅神社社殿を移築)した秋葉神社に合祀し 橘神社と改称した
・・・・のだそうですよ
本殿の前に居る狛犬さんです
台座には 嘉永六年(1853)丑六月と刻まれていました
石平?と刻まれていたのは 石工の名前でしょうか
御祭神 誉田別命・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰他
当社創建は 第六十八代後一条天皇の御世万寿元年(西暦一〇二四)
清和源氏新羅三郎義光の祖が崇敬し祀り始め
文永六年(一二六九)四月三日折原刑部丞実成が再興したと記されている
もと内原村鎮ヶ峰に祀られていたが 橘浦村江ノ浦へ遷され
その後 この地へお遷しされた
創建以来 家内安全・海上安全・浦中安全の守護神として尊崇をあつめ
遠くは江戸までその名が聞え 祈願や奉納の品が残されている
延喜元年(901)二月菅原道真公 九州へ御左遷の御途次
海上風波高く 航しかねて 此地に上陸し給い
里の浦人等は 網の綱を丸めて 円座とし座を設けました
道真公は ここに安居し給い 暫らく旅の疲れを休められ
須磨の風光を賞でられた
菅公薨ぜられて後七十六年目の天元二年(979)時の須磨人等が
その御像を模し 祠を建ててお祀り申上げたのが 当社の創建である
当天満宮は 日本二十五社の内 第十四番の霊社にして
特に 学問の神として 崇敬厚く 神威赫々として
庶民の信仰を集め 霊験又顕著であります
天正六年(1578)織田信長家臣高山右近が 播州進攻の時
大蔵谷城攻略の砌 稲爪神社がその兵火に罹り焼失
この地に その小祠を建て稲爪神社を 仮に祭った
その後 寛永十四年稲爪神社が再建したので 遷御の後
その小祠へ同年四月十九日 時の明石城主松平丹波守光重が
紀州熊野三社権現(熊野坐神社・熊野那智神社・熊野速玉神社)を勧請創立す
学業成就・疫病除・知恵の神・安産の神としての信仰が特に深い
推古天皇の御代 不死身の総大将鉄人率いる三韓の兵八千余
九州へ来攻し 勢ひに乗じ東進する
討伐の勅命を受けた伊予の國の武人小千益躬 三島大明神に祈願をなす
播州明石に至り 突如稲妻の中に 大明神現れ
鉄人唯一の弱点足裏を射よとの御瑞験あり
大雷鳴に好機を授かり 鉄人を「鬼指しの矢」にて
足裏から脳天まで射抜くと言ふ
心願叶ひて この地に稲爪神社創建す
「大蔵谷の牛乗り」縁起 今に伝ふ
長い尾のついた五色の笠を被り 矢をつがえた弓を手に持った人物が
黒牛(現在は牛をかたどった乗り物)に乗って口上を述べ
尾花をつけた者が牛の口とりをし、町内を一巡するものです
推古天皇の時代(在位西暦593~628年)
異国から鉄人が大将になり 黒牛に乗って日本へ攻めてきたのを
この地で滅ぼした古事を伝え 「播州名所巡覧図解」にも記録されています
江戸時代 大蔵谷村の庄屋が牛に乗り
昭和20年まで牛乗りを出す組(約50軒で組織する大統)がありましたが 昭和21年に解散
その後 昭和46年に保存会ができ復活しました
当社御祭神 柿本人麿公は
奈良時代に宮廷にお仕えになられた歌人で 明石にて詠まれた歌も数多くあります
元和六年(1620年) 当時 明石城主であった小笠原忠政公が
人麿公を歌聖として大変崇敬され 縁深いこの地にお祀りいたしました
主なご神徳は 学問・安産・火災除
更には 非常に愛妻家として知られる公を 夫婦和合の神としても お祀りしております
ご命日とされる旧暦三月十八日(現在では四月の第二日曜日)には
本神輿に地域の子供達の神輿も加わり 計五基のお神輿が練り歩き賑わいます
■末社
五社稲荷社
天神社
荒神社
天離る夷の長通ゆ恋ひ来れば
明石の門より大和島見ゆ
(あまざかる ひなのながちゆ こひくれば あかしのとより やまとしまみゆ)
留火の明石大門に入る日にか
漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
(ともしびの あかしおほとに いるひにか こぎわかれなむ いへのあたりみず)
明石市指定文化財
昭和五十八年度
工芸品 石造狛犬
一、明石市内の石造狛犬(54対)の中で 一番古いものである
一、向かって右の狛犬は阿形で牙があり 高さ109cm 台座109cm
左の狛犬は呍形で角があり 高さ99cm 台座110cm
一、狛犬の材質は砂岩で 台座は花崗岩 宝暦四年(1754)の銘がある
明石市教育委員会
當山の妙見尊は 往古 武将「島左近」が常時崇拝された尊像で
後年 明石藩に仕え本松寺の檀徒となった島家の末裔により
當山に奉納された 霊験誠にあらたかな尊像であります
當山では 本松寺の守護神として ご本尊(本堂)の乾(西北)に安置し
毎朝 天下泰平・国土安穏と檀信徒並びに参拝者の所願成就を祈願して居ります
妙見尊は 開運妙見大菩薩と申しまして 運勢を切り開いて
信奉する人を助けようとする尊神さまです
中島と天満神社
旧中島村は 野田川と市川河口部の間にあり
文禄三年(一五九四)「下中しま村」「下中嶋」(芥田家文書)とみえ
明治二十二年高浜村に属し 同二十七年分離 大正八年飾磨町に属し中島と改称
昭和十五年飾磨市 同二十一年姫路市となる
神社の東西に連なる集落地は 江戸時代以前の海岸砂堆で
その南方は 明和元年(一七六四)寛政の相生新田
天保十三年(一八四二)寛政の相生新田 文久三年(一八六三)完成の大森新田など
江戸時代を通して開発された新田
天満神社は通称中島天満宮 恵美酒宮天満神社より分霊を勧請したといい旧村社
もと蓮浄寺の門前にあったが 元禄七年(一六九四)高浜の松林と言われた現在地に
移転したと言う
境内には 弘化三年(一八四六)の水盤 当村の弥左衛門が文久二年(一八六二)に
持ち上げたと言う力石 文久三年の石燈籠などが残る
平成一七年三月 姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会