2009.01.15 愛媛県松山市三番町 八坂神社
広い道路に面した 小さなお宮さんです
八坂神社なので ご祭神は 素戔嗚命ですね
狛犬さんは 昭和五十五年七月吉日生まれの新人さんですが
御手洗には 文化七(1810)午天(?) 八月吉日と
刻まれていたので お宮さん自体は 200年以上前から
あったのでしょうね
水曜日, 2月 25, 2009
火曜日, 2月 24, 2009
月曜日, 2月 23, 2009
狛犬さん 674
日曜日, 2月 22, 2009
狛犬さん 672
2009.01.07 愛媛県松山市天山 天山神社(あまやまじんじゃ)
境内の由緒書きによりますと
天山と言う地名も変わっていると思いますが
是に関しても 説明板がありました
狛犬さんの台座には 平成四年(1992)五月吉日 と刻まれていました
境内に不思議なものがありました
木の根元に結び付けられていたのですが
仏教の独鈷杵かと思ったのですが どう見ても違いますよね
境内の由緒書きによりますと
天山神社略縁起
祭神 天照皇太神
天櫛眞知命
社伝に云う天山神社は 人皇十代崇神天皇五年(紀元前九十一年)
天下餓疫す 天皇大いに懼れ群神を祀り給う時
久米麿「三輪田の祖」に勅して 天櫛眞知命を
久米吉井郷天山に祀らしめ 神地神戸を給うとあり
続日本紀に称徳天皇天平神護元年(七六五年)十一月
使を天下諸国の神社に遣わすと在り続いて
神護景雲元年(七六七年)二月天下諸社に
神服を奉ると在り 此の時の例に與り給う
徳川氏大政を奉還し王政復古 明治五年(一、八七一年)五月
神社沿革の際に当り村社に列せられる
平成四年五月吉日
天山と言う地名も変わっていると思いますが
是に関しても 説明板がありました
天山(あまやま)
八世紀前半に編集されたと言う地誌『伊予国風土記』逸文に
「伊予の郡郡家より東北のかたに天山あり
天山と名づくる由は 倭に天の香久山(あめのかぐやま)あり
天より天降りし時に 二つに分かれて 片端は倭の国に天降り
片端はこの土(くに)に天降りき よりて天山といふ
本(ことのもと)なり その御影を敬礼(みやま)ひて
久米寺に奉れり」と書かれている
この記述によると まず 「天山」は伊予郡にあり
郡役所の東北にある また 名前の由来は もと天上にあった山が
地上へ落ちてきたところ 途中で二つに分割されて
他の一つが天山になったという その時の天山の絵図を
久米寺に奉納したというのである
この久米寺の位置については 中ノ子廃寺跡
或いは国指定史跡来住廃寺跡の二説がある
この天山の周辺には小丘陵が点在していて
皿ヶ嶺を背景にして眺める風景は 奈良県の
大和三山に似ているともいわれている
松 山 市
松山市教育委員会
狛犬さんの台座には 平成四年(1992)五月吉日 と刻まれていました
境内に不思議なものがありました
木の根元に結び付けられていたのですが
仏教の独鈷杵かと思ったのですが どう見ても違いますよね
土曜日, 2月 21, 2009
金曜日, 2月 20, 2009
水曜日, 2月 18, 2009
狛犬さん 669
2009.01.23 愛媛県松山市桜谷町 伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)
説明板によりますと
狛犬さんは 長い階段の途中に居ました
嘉永六年(1853)癸丑九月 と刻まれていました
石工 坂? 和泉屋 吉助
一番下に 昭和三十八年十二月
鳥居下より移転 と刻まれていました
説明板によりますと
伊佐爾波神社
延喜式内社で 祭神は 仲哀天皇 神功皇后
応神天皇 三柱姫大神である 社伝によると仲哀天皇 神功皇后が
道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で
湯月八幡とも呼ばれたというて 神の命を請ひまつりき
是に大后(おほきさき) 歸神(かむがかり)して・・・」
『日本書紀』に建内宿禰に命せて琴撫(みことひ)かしめ
中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して
審神者(さには)と為す」とあり
これに神聖 清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので
神功皇后に関わる名称ともされる
当神社は 河野氏が湯築城の鎮守として 今の地に移したといわれ
その後 加藤嘉明が 松山城の固めとして八社八幡を定めたとき
一番社として武運長久の祈願所となったという
現在の社殿は 松山藩松平第三代藩主定長が
将軍から命じられた流鏑馬を成功させたお礼として建立したもので
その様式は 大分県の宇佐神宮 京都の岩清水八幡と並んで
日本を代表する八幡造といわれる
松 山 市
松山市教育委員会
狛犬さんは 長い階段の途中に居ました
嘉永六年(1853)癸丑九月 と刻まれていました
石工 坂? 和泉屋 吉助
一番下に 昭和三十八年十二月
鳥居下より移転 と刻まれていました
火曜日, 2月 17, 2009
月曜日, 2月 16, 2009
日曜日, 2月 15, 2009
狛犬さん 666
2009.02.05 愛媛県松山市畑寺町 桑原八幡神社
八社八幡の内 二番目です
境内の説明板によりますと
狛犬さんの台座には 文政十一年(1828)
正月吉日 と刻まれていました
狛犬さんは高い台座に乗っているのですが
その台座のデザインが 少し変わっています
八社八幡の内 二番目です
境内の説明板によりますと
桑原八幡神社
松山の八社八幡の二番社
祭神は 誉田別尊(応神天皇)足仲彦尊(仲哀天皇)
息長足姫尊(神功皇后)姫大神である
源頼義が伊予の国の鎮護として八社八幡を定めたとき
第二番社としたと伝えられている
平安から鎌倉時代にかけて 源頼義が下向して
八幡宮を勧請・造営したという伝承の陰には
地方武士の協力があったといわれる
『豫章記』に「伊予入頼義 当国の国司として在国あり
親経と同志にて 国中に四十九ヶ処之薬師堂
八ヶ所八幡宮建立せらる」とあり 河野家代々の
崇敬を受けていたとみられる
万治二(一六五九)年 松山藩主松平定行」が
東野へ隠居所を建設したとき 当社を祈願所に定めたとある
なお 当社は はじめ桑原町古宮にあったが
寛治二(一〇八八)年に 今の地に移したという
移動の理由などは つまびらかでない
松 山 市
松山市教育委員会
狛犬さんの台座には 文政十一年(1828)
正月吉日 と刻まれていました
狛犬さんは高い台座に乗っているのですが
その台座のデザインが 少し変わっています
土曜日, 2月 14, 2009
狛犬さん 665
2009.02.05 愛媛県松山市鷹子町 日尾八幡神社内東道後神社
境内にあった説明板によりますと
狛犬さんの台座には 昭和五十三年(1978)三月吉日 と刻まれていました
新しい狛犬さんですが よく見る大量生産風の狛犬さんではなくて
個性的な狛犬さんです
境内にあった説明板によりますと
東道後神社略縁起
祭神
天御中主大神
天照皇大神
月夜見大神
右祭神三柱の大神の御神徳を日・月・星の三光になぞらえ
御社号を三光神社と申し上げ 古きより脳の守護神とし
殊に神経痛や中風除の神として崇敬されております
このたび 神社の改築を期に
併せて日尾神社氏子内の温泉守護神としてお祭りし
社号を東道後神社と御改稱申し上げ
氏子一同並びに広くご信仰者の一層の御崇敬を深め
永く三柱の崇高なる御神徳をお稱するものです
昭和四十九年三月吉日
狛犬さんの台座には 昭和五十三年(1978)三月吉日 と刻まれていました
新しい狛犬さんですが よく見る大量生産風の狛犬さんではなくて
個性的な狛犬さんです
金曜日, 2月 13, 2009
木曜日, 2月 12, 2009
月曜日, 2月 09, 2009
日曜日, 2月 08, 2009
狛犬さん 661
2009.02.05 愛媛県松山市鷹子町 日尾八幡神社
八社八幡の内 3番目のお宮さんです
境内の説明板によりますと
このお宮さんの鳥居は 真っ赤に塗られた両部鳥居でした
鳥居の手前にある〆柱の片方に「鳥舞」もう片方に「魚躍」と
刻まれているのを面白く見ていました
鳥居を抜けるとすぐ この狛犬さんたちがいます
制作年代はわかりませんが 新しいものですね
それにしても 個性的な顔立ちの狛犬さんたちです
阿形のほうは 大笑いしていますよね
八社八幡の内 3番目のお宮さんです
境内の説明板によりますと
日尾八幡神社
本殿は西・中・東の三玉殿に分かれ
主な祭神は品陀和気命・帯仲日子命・大帯姫命・宗像三毘売命である
天平勝宝四(七五二)年 宇佐八幡から勧請して
孝謙天皇の勅願所となり 久米八幡と称し
朝臣久米麻呂と高市古麻呂が斎主になったという
その後 文治年間(一一八五~一一八九)に
源頼朝によって再興され 承久年間(一二一九~一二二一)
河野通信が社殿の改修をした
以降河野氏歴代の庇護を受けた
慶長八(一六〇三)年 加藤嘉明が近郷の八社八幡を
松山城の固めとし 当社もその一つとして武運長久の祈願所となった
松平(久松)氏も松山城鎮護として崇敬した
中殿に奉斎する伊予比売命は 伊予豆比古神社にまつられる
伊予比古命とともに 元は夫婦神として
久米郡古矢野神山にまつられていたが 洪水で流され
今では分かれてまつられていることで 有名である
社名は久米八幡宮から 中古には山の名前をとって
日王八幡宮と呼ばれ 後日王を日尾に改称したといわれる
松 山 市
松山市教育委員会
このお宮さんの鳥居は 真っ赤に塗られた両部鳥居でした
鳥居の手前にある〆柱の片方に「鳥舞」もう片方に「魚躍」と
刻まれているのを面白く見ていました
鳥居を抜けるとすぐ この狛犬さんたちがいます
制作年代はわかりませんが 新しいものですね
それにしても 個性的な顔立ちの狛犬さんたちです
阿形のほうは 大笑いしていますよね
金曜日, 2月 06, 2009
狛犬さん 660
2009.01.03 愛媛県松山市小栗 雄郡神社
松山の八社八幡の内4番目のお宮さんです
境内にある由緒書きによりますと
お正月三日だったので 狛犬さんも胸に注連飾りを着けています
吽形には 立派な角が見えています
台座には 平成五年(1993)建立と書かれた銘板が 付いていました
松山の八社八幡の内4番目のお宮さんです
境内にある由緒書きによりますと
雄郡神社 由緒
当國史見在社(旧縣社)は 天宇受売命(あめのうずめのみこと)を
主神と仰ぎ 松山市の三分の一の氏神として
その宮居を小栗町に占め 神徳古来遠近に遍き古社であります
当社は一般に八幡様として知られていますが
これは用命天皇の御代に 筑紫の宇佐から八幡三神を勧請したのに
因むのであります
主神天宇受売命(福運の神)奉斎の年代は
慶長年間 関ヶ原役の地方戦において 当社がその兵火に遭い
難を蒙ったため 史実に徴すべきものがありませんが
八幡神合祀のことから推しても 極めて遼遠悠久なことが 判るのであります
もと当社四方八方に余る神域を有し 今の社地より遥か西方に大鳥居があり
神苑の古樹鬱蒼として茂り 宏荘なる社殿 その間に聳えていたのでありますが
前記関ヶ原役に 社殿宝蔵悉く灰燼に帰したのであります
今往時を偲ぶものとして 加藤嘉明手植の松(左馬殿の松)
薦田・宮窪・金砂田・古屋敷等の遺跡があります
各謂れのある神社でありますから 神威古より弥高く
陽成天皇の朝に御贈位があり 御三條の御代には
伊豫守頼義(八幡太郎義家の父)が領内八ヶ所の八幡宮を定め
その一社として崇敬の誠を捧げ 加藤嘉明松山に築城後は
彼も亦深く当社を尊崇 旧藩主久松家に至っては
道後の伊佐爾波・味酒の阿沼美両社と共に藩の三社と崇め
社殿を寄進し家紋を献じて奉斎の誠を尽くされたのであります
お正月三日だったので 狛犬さんも胸に注連飾りを着けています
吽形には 立派な角が見えています
台座には 平成五年(1993)建立と書かれた銘板が 付いていました
木曜日, 2月 05, 2009
狛犬さん 659
2009.02.03 愛媛県松山市保免西 日招八幡大神社
境内の説明板によりますと
随身門を潜り さぞ立派な社殿があるだろうと 思ったのですが
有ったのは 小さな仮宮だけ
本当かどうかは知りませんが ある日宮司さんが拝殿で焼身自殺
そのため 本殿も燃えてしまったとか
狛犬さんは 大きな珠の上に乗った形ですが
その珠に牡丹の花と雲が 彫りこまれていました
こんな華麗な珠は 始めて見ました
吽形の珠には 子犬さんが乗っていて 親の顔を見上げています
台座には 嘉永七年(1854)四月吉日
松前 石工 ??? と刻まれていました
石工さんの名前が どうしても読み取れませんでした
松前は 松山市の地名で「まさき」と読みます
境内の説明板によりますと
日招八幡大神社(ひまねきはちまんだいじんじゃ)
松山の八社八幡の五番社
祭神は 品陀和気命 息長帯姫命 宗像三女神 である
社伝によれば 越智益躬(おちますみ)が筑紫国から勧請したが
大同年間(八百六~八一〇)大納言雄友卿が痘瘡を患って
この社に祈り平癒したので 伊予痘瘡宮として民間の信仰を集めた
元慶年間(八七七~八八五)に 八幡神を合祀し
岩清水八幡宮と号したという
元暦元(一一八四)年 佐々木四郎高綱が入国し
砥部荏原の城主森山・大野の一族と戦った時 勝利目前に日が傾くのを嘆き
八幡神に祈願をして 太陽を呼び返し 大勝した
高綱は 日招八幡宮と改称し 社殿の改築 神領の寄進をしたと伝えられる
『伊予古蹟志』では 高綱ではなく 佐々木三郎盛綱のこととしている
松山城築城のとき 石を頭に載せて 松前から運んだ
「おたたさん」のひとりであるお豊さんが この地まで来て倒れた
そのとき運んでいたという 丸に二の字の印を刻んだ大きな石が境内にある
松 山 市
松山市教育委員会
随身門を潜り さぞ立派な社殿があるだろうと 思ったのですが
有ったのは 小さな仮宮だけ
本当かどうかは知りませんが ある日宮司さんが拝殿で焼身自殺
そのため 本殿も燃えてしまったとか
狛犬さんは 大きな珠の上に乗った形ですが
その珠に牡丹の花と雲が 彫りこまれていました
こんな華麗な珠は 始めて見ました
吽形の珠には 子犬さんが乗っていて 親の顔を見上げています
台座には 嘉永七年(1854)四月吉日
松前 石工 ??? と刻まれていました
石工さんの名前が どうしても読み取れませんでした
松前は 松山市の地名で「まさき」と読みます
火曜日, 2月 03, 2009
狛犬さん 658
2009.02.01 愛媛県松山市南江戸 山内神社
松山の八社八幡の六番は 朝日八幡神社ですが
残念ながら 狛犬さんが居ませんでした
朝日八幡の少し下に 山内神社がありました
境内にある石碑によりますと
狛犬さんたちは 天保十五年(1844)甲辰三月吉日 のようです
狛犬さんたちは 本殿の前でなくて 横に置かれていました
本殿を再建したときに 戻されなかったようですね
せっかくですので 朝日八幡神社の木鼻の狛犬さんです
こう言うのを 獅子鼻と言うそうです
他にも牡丹の花の彫刻もありましたが 非常に見事な作品でした
松山の八社八幡の六番は 朝日八幡神社ですが
残念ながら 狛犬さんが居ませんでした
朝日八幡の少し下に 山内神社がありました
境内にある石碑によりますと
山内神社 縁起
当社は旧松山藩士 山内興右衛門久元君の 御霊をお祀りしてあります
君は土佐の国主山内公の支族です
禀性は謹厳実直で 特に藩政に心を注ぎ?進し卅二才にて
目付役を仰せ付けられる程の英才でした
時に享保の大飢饉あり 餓死者三千数百名を数う惨状となり
主命で 江戸より差遣わされた君は
領内隈なく踏査し その対策と窮民救済を上申いたしました
その頃悪家老達は 城主江戸詰を好機と悪臣供を集い
主家を顛覆し自己の権威を恣にせんと盲動
藩主定英公は 心労重なって急逝しました
純忠至誠の君は 力を尽くして主家並に領民の安泰を図りましたが
奸臣達は 君を不実不忠と讒言し 藩主が幕命で蟄居謹慎後
急逝の因は君にありと 冤罪を被せ 主命なりと強いて割腹させました
然し乍ら君主家を懐う深き忠魂は魂魄となり ?々奇瑞を顕し
主君の危難を救いました
後文化十一年時の藩主定通公その忠義を誉め 当社を建立
神霊を厳敏鎌輪瓊命として お祀りしました
爾来毎年四月廿三日除難の神として大祭があります
平成二年十二月戦災焼失後再建時建立
狛犬さんたちは 天保十五年(1844)甲辰三月吉日 のようです
狛犬さんたちは 本殿の前でなくて 横に置かれていました
本殿を再建したときに 戻されなかったようですね
せっかくですので 朝日八幡神社の木鼻の狛犬さんです
こう言うのを 獅子鼻と言うそうです
他にも牡丹の花の彫刻もありましたが 非常に見事な作品でした
日曜日, 2月 01, 2009
狛犬さん 657
2009.02.01 愛媛県松山市御幸 還熊八幡神社(かえりぐまはちまんじんじゃ)
前回ご紹介した 勝山八幡神社は 八社八幡の八番目
今回は 七番目のお宮さんです
説明版によると
狛犬さんの台座には 天保五甲午年(1834)八月吉日
と刻まれていました
神社のHPに
矢取社・京都の祇園社・天満社も合祀してある
と書かれていますが 還熊八幡神社の北方に
矢取宮というお宮さんが別に有ります
由緒書きによりますと
前回ご紹介した 勝山八幡神社は 八社八幡の八番目
今回は 七番目のお宮さんです
説明版によると
還熊八幡神社
松山の八社八幡の七番社
祭神は 品田和気命・帯中彦命・息長帯姫命・迦具都知命である
貞観年間(八五九~八七七)越智(後の河野)氏によって
岩清水八幡を勧請して創建された
延久五(一〇七三)年 国司の源頼義により
八社八幡の一つに加えられたという
八幡神は神功皇后の伝説から 弓矢の神となり 源氏の氏神といわれた
河野氏も源氏と深い関係を持っていたので
当社への尊心は厚かった
延元年間(一三三六~一三三九)には
後醍醐天皇の皇子懐良親王が 武運長久を祈願したと伝えられている
慶長五(1600)年 関が原に出陣した加藤嘉明の
留守をねらって 河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し
佃十成と戦ったとき 当神社に立てこもった河野一族は敗北し
社殿 宝物等すべてが焼失した
のちに 松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し
八社八幡の一社として崇敬した
『愛媛面影』に「旅行する人此社詣(づ)れば
必(づ)恙無くかへり来とて信ずる人多し
還熊と云(ふ)名によるなるべし」とある
松 山 市
松山市教育委員会
狛犬さんの台座には 天保五甲午年(1834)八月吉日
と刻まれていました
神社のHPに
矢取社・京都の祇園社・天満社も合祀してある
と書かれていますが 還熊八幡神社の北方に
矢取宮というお宮さんが別に有ります
由緒書きによりますと
矢取宮 由緒 沿革 再建
矢取宮は「遠く長寛年間 鎮西八郎源為朝公が 伊予に下り
河野親清公に拠り 常に弓術を練磨し 五十猛神を尊信した
弓術の奥儀を悟るに際し 神祠を建て 五十猛神を祭り
矢取宮と称したという」に 起源いたすのであります
爾来ここに八百余年 北山越 北組の守護神として
五穀豊穣 家内安全等に 霊験あらたかでありまして
組内の尊崇するところでありました
更に 五十猛神の御神徳にちなみ 青少年鍛錬の勇武の神として
代々松山藩主並びに住民の崇敬するところであったと
伝えられております
その後 近代に至りましても 組内に「講」を編成いたしまして
輪番制で祭事を執り行ってきたのであります
また少年達は四季ごとに集団参拝を実施して心身の鍛錬の一助になす
というような行事が連綿として続けられてきたのでありました
ところが 戦後数回に亘る台風のために
社殿が大破損いたしましたので これに伴い
信迎的諸行事も一時中断のやむなき状態に立ち至っておりましたが
このたび地区内崇敬者の方々のご熱意によりまして
社殿再建ここに竣工の日を迎えました
私達の祖先が数百年の永い間守り続けてきた
信仰の灯を 皆様方とともに復活し 後世に遺し得ますことは
崇敬者一同無上の光栄と存ずる次第であります
昭和五十七年四月吉日
矢取宮社史調査担当
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