境内の説明板に依りますと
若一王子神社 由緒
祭神 莵道雅郎子命(ウヂノワキイラツコノミコト)
当社の創祀は紀元一九三五年(西一二七五年)
建治元年第九一代後宇多天皇様の御宇にして
讃岐は東西に豪族名家が割據していた時に
香川郡の主護耺初代香西資村氏が香西の
勝賀城を築造して威を振い第三代香西資茂氏の時代に
して瀬戸内海の制海権を掌握し陸海軍の武威盛んであった。
紀州の住人にして新羅三郎義光の十一代の
岡田丹後守重宗氏ありて香西家の旗下の将として
招かれ箆原郷を治めし人である重宗氏は
箆原郷西浜城主にして城は何処に在りしか
詳でないが西方寺辺とも伝えられ陣屋の守護神として
紀州の熊野の王子小社より分霊を勧請奉齋せし所と
伝えられている。社地は城の巽の隅とも云ひ
然し本城は坂田にあったのであろうと伝えられる。
紀元二一〇五年(西一四四五年)文安二年
第一〇二代後花園天皇様の御宇岡田丹後守清家社殿を
再興される創紀より約一七〇年後である。
此の時浜の町蓮華寺も創建せられ社僧となる。
次いで紀元二一九二年(西一五九五年)天文元年
第一〇五代後奈良天皇様の御宇岡田丹後守守清再興、
紀元二二三〇年(西一五七〇年)第一〇六代
正親町天皇様の御宇元亀元年岡田丹後守宗輪氏再興
次いで岡田宗忠を経て紀元二三一二年(西一六五二年)
承広三年第一一〇代後光明天皇様の御宇
岡田治長再興、其後岡田家は二十代に至って姓を高島と
改め、初代高島甚左衛門より、治政、治賢、治吉、
教武、教親、清、清也、清衡、功、定吉
十一代高島衡介氏あり子孫は生存する。高島家は
松平家に仕へ西通町の鐡鉋町に住んでいた。
壬子神社の祭禮には明治になっても戸主が
馬上で槍を立てて渡御に供養していた西通町は
昔は高島町とも言伝へられていた。伝説によると
老人夢見らく神黒馬に召され往行すと御轡の音のみは
正しく現はに聞し人数人ありと云う馬はこれ神馬なり
此の神馬も四足に泥土に躅し踏あり。その踏も
時を経て損せり。又昔当神社の広場に男女の童子
集りて遊ぶ祭神は其の中に交りて遊ぶ童子互に
顔を見合せると必らず見知らぬ一人の童子が交りて
居た。然しその容貌を記憶して者はないと云う。
祭神が幼児に交りて それとなく擁護し給うたのである
以上の伝説は当社に残された古文書より記す
古記に曰く祭神は應神天皇様の皇子様で
幼児のころより非常に頭脳明敏で父君の
寵愛厚く皇位継承の話題になられた皇子様
あらせられますので、学業は勿論幼児の病気等に
奇特な霊験あり崇拝されている
そうです
阿形の方が塀の影になり しかも繁茂する植物が
邪魔になり 足元が遷せなくて残念でした
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