説明板によりますと
綱敷天神社御旅所は 当初西梅ヶ枝町にあり
明治維新後 現在の茶屋町に移され 社殿は今期の造改築で三度目であり
画期的とも言える設計技術の基に社殿を築造した
昭和五十九年(1984)十一月十五日
狛犬さんの視線の先は 阪急電鉄梅田駅
と言っても電車は見えませんが
狛犬さんの台座には 大正八年(1919)七月建之 と刻まれていました
その昔(年代不詳)豪雨あり洪水となり 一帯に被害をもたらし始む
住民挙って平穏を天に祈る
その時 御神像を負える亀 川上より流れ来り 池の面に浮かび
御神像彩光を放ち 池中の岩面に立ち給う
怱ち豪雨止み 洪水治まり 無事平穏を保つ
住民その神威に敬威し 御神殿を建立 御神像を納め 長く尊崇す
立ち給いし時の 御足跡と伝えられし岩 即ち之なり
一名 亀休石とも言う
洲本明神社
この近くに生まれた 明治の文豪岩野泡鳴が「うぶすなの神」として
親しんだ社で 天明の百姓一揆「縄騒動」にまつわる商人吉見平六の
寄進した石燈ろうが境内裏に残っている
聖武天皇の勅命により 東大寺大仏の鋳造が完成した
天平勝宝元年(七四九年)に 東大寺大仏の守護神として
宇佐八幡宮を勧請されることになりました
その宇佐八幡宮を平群郡に迎え 京(平城京)入りの前日に
和州薬師寺門前の休ヶ丘で一泊されました
その時 この地の豪族中尾氏が勧請し 柳八幡大菩薩と斉祀し
小高い丘(大阪口西の小高き丘)の老木の根元にお祀りし
この地を“柳”と命名されたのが 当宮です
天正十三年(一五八五年)大和大納言秀長(豊臣秀長)が
郡山城を築城の際 現在の地に遷宮申し上げ
大和郡山市の氏神として 人々から信仰を受け 崇拝されてまいりました
御祭神 八幡大神・比咩神
沿革 當社は 天平十二年(740) 聖武天皇 奈良の大佛鋳造を思い立たせ給いし時
豊前の宇佐八幡大神が 擁護の神勅を降し給いしに起因する事は
続日本記に詳なり
即ち天平勝宝元年(749)十二月十八日の御入京にして
宮南 梨原なる薬園の現地に鎮座し給うを創とす
薬園は 文武天皇の大宝元年(701)の創設なり
此地 孝謙天皇 天平勝宝元年十二月南薬園新宮に於て
大甞会を行い 亦翌二年(750)正月 群臣に饗を給いし所なり
境域は往古東古川筋より 西域二の丸を限り 南本庄より 北小川町に至る
その後 天正十三年(1585)郡山築城の際 薬園村を収めて 城下の市街となり
今の氏子区域是なり
社殿 御神殿は桃山時代の建造物にして
昭和二十八年(1953)三月二十三日文化財に指定される
御祭神 柳澤美濃守吉保公
創建 明治一三年(1880)
五代将軍綱吉公の幕臣となり 元禄元年(1688)一万石を与えられ側用人となる
英俊敏捷にして 学を好み 将軍綱吉公の意をよくとらえ
元禄七年(1694)には 武蔵国川越城主で老中格となる
宝永元年 甲府城主となり 表高一五万石を与えられる
民の疾苦を問い 強く仁政を施し 名士も多く
細井廣澤・荻生徂徠は もっともよく知られるところである
「御子柳澤吉里公が 甲府より郡山に国替えとなり 柳澤藩が
一五万一千石余の大名として 六代一四〇年 明治維新まで続いた」
宝永六年(1709)綱吉公の死後 東京駒込(六義園)に移り隠退
正徳四年(1714)一一月二日没す 享年五七歳
大織冠鎌足神社
祭神 大織冠内大臣 藤原鎌足公
天正十三年(一五八五)九月大和大納言豊臣秀長公が
郡山城に入場後 多武峯談山神社の藤綿鎌足公の御神霊を
郡山城西北の地の仮殿に遷座して
社領五百石を 寄進された
天正十五年(1587)十一月本殿が竣工し
後陽成天皇の綸旨により 翌十六年四月遷座祭が執行されて
大織冠宮と呼び 城の守護神としてまつられ 付近一帯の地を大織冠と称した
天正十八年十二月御神霊は 多武峯に帰山されたので
鎌足公の御分霊を奉斎したのが 大織冠鎌足神社である
創建当時は 東の丘陵地にあったのを
郡山城主柳澤甲斐守保光が 寛政元年(一七八九)現在の地に
移転改築されたのが いまの大織冠鎌足神社で
霊験あらたかな神として 崇拝護持されている
参道入口の石の鳥居には 聖護院寄付 寛政元年己酉九月吉日と記され
皇室の崇敬のあった神社である
現在も付近は大織冠と呼ばれている