2013.04.05 姫路市本町 姫路神社内寸翁神社
拝殿の中にいた狛犬さんです
詳細は不明です
神社の境内の入り口に門扉がありました
門扉には 家紋が二つ
剣片喰は姫路城藩主酒井家の家紋
鷹羽は河合(寸翁)家の家紋のようです
土曜日, 1月 25, 2014
狛犬さん 1280
2013.04.05 姫路市本町 姫路神社内寸翁神社
境内の説明板に依りますと
寸翁は晩年の号で
河合道臣(かわいひろみち ・みちおみ)と言い
江戸時代後期の姫路藩家老でした
当時七十三万両もの借金があり
藩主ですら 日常生活にさえ支障を
起こすほどの貧乏藩だった姫路藩を
立て直した逸材だったそうです
明和四年(1767)生まれ
天保十二年(1841)没
社殿前にいた狛犬さんです
台座には 昭和四年十二月
と刻まれていました
境内の説明板に依りますと
境内社だそうです
寸翁神社
姫路藩経国済民の先覚者、
河合寸翁命を祭祀する。
河合寸翁命は、
播州一円の産業の開発、
経済の振興に多大の貢献があり、
現在の大姫路市の産業発展の基礎を
確立された。
又、仁寿山黌を起し、碩学頼山陽、
大国隆正らの学者文人を招聘するなど、
文学振興の祖とも讃仰する
郷土の偉人である。
昭和三十二年、商工産業界の奉賛により
社殿の造営なる。
寸翁は晩年の号で
河合道臣(かわいひろみち ・みちおみ)と言い
江戸時代後期の姫路藩家老でした
当時七十三万両もの借金があり
藩主ですら 日常生活にさえ支障を
起こすほどの貧乏藩だった姫路藩を
立て直した逸材だったそうです
明和四年(1767)生まれ
天保十二年(1841)没
社殿前にいた狛犬さんです
台座には 昭和四年十二月
と刻まれていました
木曜日, 1月 23, 2014
狛犬さん 1279
2013.04.05 姫路市本町 姫路神社
境内の説明板に依りますと
本殿の前にいた狛犬さんです
台座には 昭和四年(1929)十二月
石匠 姫路 奥田
と刻まれていました
境内の説明板に依りますと
姫路城鎮護だそうです
姫路神社御由緒
徳川内府大政を奉還し、
王政復古の大号令が発せられ、
明治維新を迎える。
明治四年(1871)、廃藩置県の改革成るに及んで、
姫路藩十代、百二十年余、
世々領主として全盛に勤められた境目も為に、
東京移住を令せられたのであります。
茲に、永年恩恵に浴した領下四民は、
欽慕の情止み難く、旧藩主大年寄、大庄屋等発起し、
相謀って、神東郡姫路本町五十、五一、五二、番の
合併地五百八十八坪 余を取得し、
明治十二年(1879)一月、官許を得て社殿を創建、
酒井家遠祖新田義貞公の裔、
烈祖正親公を奉祀し、
報本反始の誠を致したのであります。
明治十七年(1884)三月、県社に加列せられ、
春秋の祭儀も次第に多様盛大を極め、
御霊社の呼称と共に、
姫路市民の精神的支柱として
その尊崇を集めてまいりました。
然るに、この地は民家に隣接し、
且つ狭隘なりを以て、
大正十四年(1925)十一月、広く市民の奉賛を得て、
縁故深い姫路城内官有地、
一千九百七十四坪余を大蔵省より買受け、
社殿を新築、昭和二年(1927)六月御遷座、
爾来奉斎して今日に至るのであります。
偶、当地は、姫路城天守閣の東北隅の要地を占め、
春は桜花爛漫秋は紅葉彩る神域にして、
まさに姫路城鎮護神社に応しい立地を
兼ねるというべきであります。
昭和三十六年(1951)十月、酒井藩歴代城主を配祀し、
名実共に姫路城鎮護神社として鎮座されるのであります。
本殿の前にいた狛犬さんです
台座には 昭和四年(1929)十二月
石匠 姫路 奥田
と刻まれていました
火曜日, 1月 21, 2014
日曜日, 1月 19, 2014
金曜日, 1月 17, 2014
水曜日, 1月 15, 2014
月曜日, 1月 13, 2014
土曜日, 1月 11, 2014
木曜日, 1月 09, 2014
火曜日, 1月 07, 2014
狛犬さん 1271
2013.03.15 鳥取県鳥取市白兎 白兎神社
境内の説明板に依りますと
本殿の 手前にいた狛犬さんです
台座に 昭和十年(1935)
十月十七日
凱旋記念
と刻まれていました
満州事変は 1931~1932年
1937~1945年は日中戦争から第二次世界大戦
満州事変から第二次世界大戦が終わるまでを
十五年戦争とも呼ぶそうです
昭和十年(1935)年に凱旋したというのは
満州事変から日中戦争の間に
中国から 帰国してきたのでしょうか
本殿を支えている菊座石です
境内の説明板に依りますと
白兎神社だそうです
大黒さまと白うさぎの神話で知
られ、「古事記」「日本書紀」にも記
されている由緒ある神社である。
神話にゆかりの白兎神を祭り、
皇室の紋章である菊花を型どった
菊座石が社殿の土台に使われてい
る。
神社の前には、いかなる旱天・
豪雨にも水の増減がないという「
不増不減の池」があり、神話によ
ればこの池で、皮をむかれた赤裸
の白兎が真水で身体を洗い、ガマ
の穂でくるんだ、といわれている
鳥居をくぐり、石段を上った右
手には、言語学者、北里翁の詠ん
だ「ワニの背に似たる岩見ゆ蒲な
らぬ、浪の花散る気多の岬に」の
歌碑が立っている。
本殿の 手前にいた狛犬さんです
台座に 昭和十年(1935)
十月十七日
凱旋記念
と刻まれていました
満州事変は 1931~1932年
1937~1945年は日中戦争から第二次世界大戦
満州事変から第二次世界大戦が終わるまでを
十五年戦争とも呼ぶそうです
昭和十年(1935)年に凱旋したというのは
満州事変から日中戦争の間に
中国から 帰国してきたのでしょうか
本殿を支えている菊座石です
土曜日, 1月 04, 2014
狛犬さん 1270
2013.03.15 鳥取県鳥取市東町 長田神社
ご祭神は
事代主神・猿田彦神・誉田別尊・菅原道真命
ご由緒は
創設は不明のようです
鳥取市久松山に 長田大明神と称し鎮座し
産土神として崇敬されていたそうです
天文十四年(1545)因幡国布勢城主
山名誠通が久松山に築城した際
城外の東南の山麓に奉遷し
以後 この谷を御宮谷と称しているそうですが
谷奥に上水地を三か所築造したので
水樋戸谷とも言うそうです
天正九年(1581) 十月 羽柴秀吉が
鳥取城を攻略 この社に戦勝祈願をした
そうです
又 鳥取城主だった山名豊定及び
豊国吉川経家宮部継潤の諸将が
この社を鎮守の神として崇敬したそうです
旧幕政御櫓日記寛保二年(1742)
正月二十二日に
「覚、前々数度書付を以て申上候通り
長田大明神往古御城内(久松城)鎮座の節は
社頭も大社にて年中数度の祭礼神事も御座候処
天正の兵乱以後中絶仕云々」と記されているそうです
鳥居の手前にいた狛犬さんです
詳細は不明ですが 伏せたスタイルで球を持っているのは
初めてだと思います
ご祭神は
事代主神・猿田彦神・誉田別尊・菅原道真命
ご由緒は
創設は不明のようです
鳥取市久松山に 長田大明神と称し鎮座し
産土神として崇敬されていたそうです
天文十四年(1545)因幡国布勢城主
山名誠通が久松山に築城した際
城外の東南の山麓に奉遷し
以後 この谷を御宮谷と称しているそうですが
谷奥に上水地を三か所築造したので
水樋戸谷とも言うそうです
天正九年(1581) 十月 羽柴秀吉が
鳥取城を攻略 この社に戦勝祈願をした
そうです
又 鳥取城主だった山名豊定及び
豊国吉川経家宮部継潤の諸将が
この社を鎮守の神として崇敬したそうです
旧幕政御櫓日記寛保二年(1742)
正月二十二日に
「覚、前々数度書付を以て申上候通り
長田大明神往古御城内(久松城)鎮座の節は
社頭も大社にて年中数度の祭礼神事も御座候処
天正の兵乱以後中絶仕云々」と記されているそうです
鳥居の手前にいた狛犬さんです
詳細は不明ですが 伏せたスタイルで球を持っているのは
初めてだと思います
木曜日, 1月 02, 2014
狛犬さん 1269
2013.03.15 鳥取県鳥取市国府町宮下 宇部神社
因幡一之宮です
境内の説明板に依りますと
入り口にいた狛犬さんです
台座には 昭和六十三年(1988)十一月
石工 土橋充朗 と
刻まれていました
因幡一之宮です
境内の説明板に依りますと
因幡一之宮 宇部神社だそうです
ご祭神武内宿禰命は上古、
景行天皇以下五期の天皇に歴任され、
奥羽から九州の果てまで東奔西走、
日本の発展に努力され、さらに
神功皇后を御輔けして日本の統一に
尽力されました、また応神天皇の
ご成長を見守られながら
大陸文化を導入されて平和と繁栄の
礎を築き国の功神として我が国最初の
大臣とされました。
武内宿禰命は仁徳天皇五十五年
因幡国に下向され御社背後の亀金岡にて
双履を残し、三百六十余歳を以て
昇天されました。
この由緒をもって創建された
宇部神社は平安時代には
名神大社、因幡一之宮として尊崇され、
明治四年(1871)には国幣中社に列せられました、
また明治三十二年(1899)、現在に御社殿新築のおり
命の御尊像と共に当社全景が全国で
最初に紙幣に載せられ、
以後大正、昭和と五円、一円紙幣で
広く国民に親しまれて来ました。
古くから福徳長寿、厄除の神として、
また病気平癒交通安全や子供の成長を祈り、
さらに志を打ち立てる社として
広く崇敬されております。
入り口にいた狛犬さんです
台座には 昭和六十三年(1988)十一月
石工 土橋充朗 と
刻まれていました
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