火曜日, 11月 04, 2008

狛犬さん 628

2008.10.19 兵庫県高砂市阿弥陀町 生石神社(おうしこじんじゃ)
 このお宮さんは「石の宝殿(鎮の石室)」で有名なところです
 「石の宝殿」は 人工的な巨石が残る遺跡のことだそうです
 兵庫県・大阪府に 五ヶ所あるそうです
  1.石宝殿古墳      大阪府寝屋川市 
  2.六甲山の石の宝殿   兵庫県神戸市
  3.金剛山の石の宝殿   大阪府南河内郡と奈良県御所市の境
  4.葛城山の石の宝殿   大阪府岸和田市・貝塚市と和歌山県紀の川市の境
  5.生石神社の石の宝殿  兵庫県高砂市

 又 宮城県鹽竈神社の塩竃・宮崎県霧島神宮の天逆鉾と石の宝殿を
  総称して「日本三奇」と呼ぶそうです
 神社略記と境内の説明版によりますと
 
石宝殿  生石神社
  御祭神 大己貴神(生石大神・大国主神ともいう)
      少彦名神(高御位大神・粟島神ともいう)
  創建  崇神天皇十三年(西暦九七年)申日
   神代の昔 大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の
   二神が天津神の命を受け 国土経営のため 出雲の国より
   此の地に座し給ひし時 二神相謀り 国土を鎮めるに相応しい石の宝殿を
   造営せんとして 一夜の内に工事を進めらるるも
   工事半ばなる時 天佐久売がやってきて 阿賀の神が麓の里で
   反乱を起こしていると 二神に告げた
   そのため 二神は山を下り 数多神々を集め(当時の神詰・現在の高砂市神爪)
   この賊神を鎮圧して 平常に還ったのであるが 夜明けとなり
   此の宮殿を 正面に起こすことが出来なかったのである
   時に二神宣はく たとえ此の社が未完成なりとも 二神の霊は
   この石に籠り永劫に 国土を鎮めんと 言明されたのである
   以来此の宮殿を石乃寶殿・鎮の石室と稱して居る所以である

   此の工事の時生じた石屑は 人や動物に踏ませじと 
   一里北の高御位山の山頂に 捨てられた
   現在も 莫大な石屑が山頂から麓にかけて  今尚あり 
   魚の象(かたち)になっている 
   此の付近には 岩を切ったあとかたは全く無い

   鎮の石室は 三方断崖に囲まれ 池中に石殿横たわる
   樹木が上部に生い茂っている
   四方三間半(約六,三六メートル)棟へ二丈六尺(約七,八メートル)
   重量五〇〇~七〇〇トンと云われている
   此の石室は 俗に浮石という
   この浮くは 石工の用いる言葉で 岩にひびが入る
   即ち割れ目の出来ることを意味している
   石宝殿と台座との間に ひびが入っているので 浮石という
   池中の水は 如何なる旱魃に於いても渇することなく
   海水の満干を表し 万病に卓効有るものと云ひ伝へられている

   崇神天皇十三年に創建されて以来 伊保荘・平津荘の鎮守として
   崇められ 孝徳天皇は 白雉五年(654)千石の土地
   (現在の 生石・神爪・島の土地併せて千石)を寄付されたので
   この三町は墓地をいみ 生石は魚橋、神爪は岸、島は米田に墓地を作り
   宮百姓と称していたので 大いに栄えていたが
   天正七年(西暦一五七九年)羽芝秀吉(後の豊臣秀吉)が三木城攻略の折
   神吉城も落とさんとして 當神社を陣所に貸与せよとの申出に対し
   兄の城を攻める〔時の宮司は神吉城主の弟〕陣所には貸さぬと
   拒否したるため 秀吉の怒に触れて焼き撃に逢い
   そのため神社伝承の凡てが一瞬にして 灰燼に帰したのである
   その時焼け残った梵鐘は 持ち去られ
   後日 関ヶ原の戦に西軍石田三成の勇将大谷刑部吉隆が
   陣鐘として使用したるも 敗戦の結果 徳川家康が
   戦利品として 美濃国赤坂の安楽寺に寄付し 敵将ながらも
   実に惜しむべき武将であると慨嘆し 朝夕この鐘を撞いて
   未来永劫に吉隆及び戦没者霊を慰めよとの事であったと云われている
   現に 大垣市の指定文化財として保存され 鐘の表面には
   當生石神社名が 刻銘さる

   大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経   万葉集
    (おおなむち すくなひこなのいましけむ 
      しづのいわやは 幾代へぬらむ)


 2008年1月12~13日に 日本文化財探査学会による
  石の宝殿の内部診断調査が行われたそうです
 レーダー探査では 上部に水分を含む部分があるらしいことがわかったそうですが
 それが 人工的な穴なのか 風化による亀裂なのかは わからなかったそうです
 超音波検査では 超音波が宝殿内部を流れないことが判り
 このことは かなりの亀裂が 表面付近から内部にあることを意味しているそうです
 しかし 石棺を収める石槨ならば存在するはずの空洞は 確認できなかったそうです   

 狛犬さんの台座には 明治三十九年(1906)五月建之   と刻まれていました

 お宮さんのすぐ傍に 石切り場があります
 ここから取れる石は「竜山石」「宝殿石」と呼ばれ 比較的軟質で
  加工しやすく 仁徳天皇陵などの石棺にも使用されているそうです
 竜山石は 兵庫県加古川下流右岸に産する流紋岩溶結凝灰岩の呼び方だそうです
 白亜紀後期(約1億年前)の 火山活動によって噴出した
 火砕流堆積物が厚く堆積したものだそうです

 江戸時代初期・慶長年間の姫路城や明石城には 石垣などの建築構造資材として
 大量に使用されたそうです
 天保七年(1836)には 姫路藩の専売品となったそうです

 生石神社自体が 大きな一枚岩に囲まれて 建っています

0 件のコメント: