2007.06.16 徳島県海部郡由岐町伊座利 新田八幡宮
お宮さんの手前にある灯篭に 南無新田八幡宮と刻まれています
お宮さんに“南無”と入っているのは お寺と何か関係があったのでしょうか
砂岩で作られているのと 海に近いせいでしょうか かなり摩滅し壊れかけています
本殿に上がる階段の端に 「銀百五?目 武田市三良」等と刻まれています
お宮さんに 寄付をした人たちなのでしょうね
金曜日, 6月 29, 2007
木曜日, 6月 28, 2007
水曜日, 6月 27, 2007
狛犬さん 250
2007.06.10 兵庫県明石市二見町東二見 御厨神社
吽形の頭に小さな角が 見えますね
台座には 文化六年己巳(1809)二月吉日
西二見?? 布屋武助・冨田屋庄兵衛・播磨屋勘兵衛
石工同所 泉屋定? と刻まれています
吽形の脚に 藁縄と紐が結ばれていますが 紐のほうには 五円玉が通してあります
何か意味があるのでしょうか
御厨の名前の由来は 神功皇后が三韓征伐の際 二見浦に停泊して 食料を調達したためだそうです
厨とは 台所の意味ですよね
境内に 正一位 京極大明神
経王大菩薩
と書かれた お稲荷さんのような赤い鳥居があります
そこにいる 狐さんは木造なのです
でも古くなって 台座が壊れ 倒れそうになっています
経王大菩薩とは 岡山県に最上稲荷(さいじょういなり)が在り
伏見・豊川と並んで日本三大稲荷の一つだそうです
三大稲荷は 千二百余年の歴史の中で 仏教の流れを汲む 仏教稲荷であり
最上稲荷の開祖は 報恩大師です
天平勝宝四年(752) 朝廷より孝謙天皇の病気平癒の勅命があり
八畳岩の岩窟に篭り祈願していると 満願の日 白狐に乗った最上位経王大菩薩が降臨してきたそうです
その姿を自ら刻み 祈願を続けたところ 天皇の病気が平癒したそうです
更に 延暦四年(785)桓武天皇が病気になったときにも 大師が祈願し
この時も天皇は全快したそうです
桓武天皇に理想の霊地として 吉備の国・竜王山の麓に堂宇を建立してもらったんですって
お稲荷さんが 仏教と関係があるとは 知りませんでした
境内に 安永 三義人の碑があります
明石市は現在でも 蛸で有名ですが 江戸時代でも 蛸漁が盛んだったそうです
石碑の前に こんな説明があります
吽形の頭に小さな角が 見えますね
台座には 文化六年己巳(1809)二月吉日
西二見?? 布屋武助・冨田屋庄兵衛・播磨屋勘兵衛
石工同所 泉屋定? と刻まれています
吽形の脚に 藁縄と紐が結ばれていますが 紐のほうには 五円玉が通してあります
何か意味があるのでしょうか
御厨の名前の由来は 神功皇后が三韓征伐の際 二見浦に停泊して 食料を調達したためだそうです
厨とは 台所の意味ですよね
境内に 正一位 京極大明神
経王大菩薩
と書かれた お稲荷さんのような赤い鳥居があります
そこにいる 狐さんは木造なのです
でも古くなって 台座が壊れ 倒れそうになっています
経王大菩薩とは 岡山県に最上稲荷(さいじょういなり)が在り
伏見・豊川と並んで日本三大稲荷の一つだそうです
三大稲荷は 千二百余年の歴史の中で 仏教の流れを汲む 仏教稲荷であり
最上稲荷の開祖は 報恩大師です
天平勝宝四年(752) 朝廷より孝謙天皇の病気平癒の勅命があり
八畳岩の岩窟に篭り祈願していると 満願の日 白狐に乗った最上位経王大菩薩が降臨してきたそうです
その姿を自ら刻み 祈願を続けたところ 天皇の病気が平癒したそうです
更に 延暦四年(785)桓武天皇が病気になったときにも 大師が祈願し
この時も天皇は全快したそうです
桓武天皇に理想の霊地として 吉備の国・竜王山の麓に堂宇を建立してもらったんですって
お稲荷さんが 仏教と関係があるとは 知りませんでした
境内に 安永 三義人の碑があります
明石市は現在でも 蛸で有名ですが 江戸時代でも 蛸漁が盛んだったそうです
石碑の前に こんな説明があります
二見は古来有数の漁場であり 特に蛸漁を持って聞えたが 不慮の些事によって 十一漁区を奪われ為 二漁区を生命の綱と頼み 大阪代官所に訴えて解決を見ず 十数年係争に 住民は財政困窮 具に塗炭の苦を嘗めた 茲に於て庄屋代理孫惣兵衛農漁氏惣代網屋市郎右ヱ門同伊左ヱ門は同志中屋三右ヱ門の協力を得て 大阪及江戸表に東奔西走?痒数閲月 病に斃れんとしつつも 之に屈せず 遂に身命を賭して安永二年十一月 老中松平右近将監 下城の途を擁し 駕籠訴の挙に出た その誠意は裁定を動かし 二見の殖産?再興するに至った 嗚呼公衆の為に奮起した義人の熱誠は 終に美果を結び 郷里永遠の繁栄の礎を成化した 即ち茲に顕彰の碑を建てて義人の恩徳に酬いる所以である
火曜日, 6月 26, 2007
月曜日, 6月 25, 2007
日曜日, 6月 24, 2007
土曜日, 6月 23, 2007
狛犬さん 246
2007.06.10 兵庫県加古川市尾上長田 尾上神社
謡曲「高砂」で知られた 高砂の松があるお宮さんです
謡曲“高砂”
高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐(いでしお)の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり
四海(しかい)波静かにて 国も治まる時つ風
枝を鳴らさぬ 御代なれや
あひに相生の松こそ めでたかれ
げにや仰ぎても 事も疎(おろ)かやかかる
代に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき
君の恵みぞ ありがたき
この高砂は 世阿弥元清の作品で 阿蘇の神主友成が旅の途中で 高砂の浦で
相生の松の精である老夫婦に出会う 夫婦愛と長寿を寿ぐ謡曲の代表作です
すぐお隣の町 高砂市の高砂神社にも同じく謡曲「高砂」の“相生の松”があります
どちらも 雌雄の松が 一つの根から生えていると言うことです
そして どちらの松も五代目になるそうです
台座には 昭和十二年五月と刻まれています
五代目尾上の松
謡曲「高砂」で知られた 高砂の松があるお宮さんです
謡曲“高砂”
高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐(いでしお)の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり
四海(しかい)波静かにて 国も治まる時つ風
枝を鳴らさぬ 御代なれや
あひに相生の松こそ めでたかれ
げにや仰ぎても 事も疎(おろ)かやかかる
代に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき
君の恵みぞ ありがたき
この高砂は 世阿弥元清の作品で 阿蘇の神主友成が旅の途中で 高砂の浦で
相生の松の精である老夫婦に出会う 夫婦愛と長寿を寿ぐ謡曲の代表作です
すぐお隣の町 高砂市の高砂神社にも同じく謡曲「高砂」の“相生の松”があります
どちらも 雌雄の松が 一つの根から生えていると言うことです
そして どちらの松も五代目になるそうです
台座には 昭和十二年五月と刻まれています
五代目尾上の松
金曜日, 6月 22, 2007
木曜日, 6月 21, 2007
狛犬さん 244
2007.06.10 兵庫県加古川市加古川町木村 泊神社
本殿に“正一位 泊大明神”と言う額が掲げられていました
このお宮さんにたどり着く前に 雷雨に襲われ このお宮さんの拝殿で 雨宿りさせていただきました
これが ホンマの泊神社になりました
神社名の由来は 神代の時代 天照大神が天岩戸にお隠れになったとき
大神の怒りを解くため 群神事計り お鏡を造った
後に一つは伊勢神宮に祀られ 一つは海に流された
大和時代に それが泊まり着いたところに檍の木が有り
檍原泊大明神として祀ったのがこのお宮さんの起こりだそうです
飛鳥時代には 聖徳太子が鶴林寺を建立した際
棟梁の秦河勝が 紀伊の国から自身の氏神“国懸大神”を勧請し
社殿を建立したそうです
又 南北朝時代には石弾城が築かれていたそうです
承応二年(1653)宮本武蔵の甥で養子の伊織が
一族の氏神である泊神社の荒廃を嘆き
全面的に社殿を改築再建立したそうです
その時 伊織は 武蔵の生地が播磨であることを書き記した
棟札を奉納したそうです
本殿に“正一位 泊大明神”と言う額が掲げられていました
このお宮さんにたどり着く前に 雷雨に襲われ このお宮さんの拝殿で 雨宿りさせていただきました
これが ホンマの泊神社になりました
神社名の由来は 神代の時代 天照大神が天岩戸にお隠れになったとき
大神の怒りを解くため 群神事計り お鏡を造った
後に一つは伊勢神宮に祀られ 一つは海に流された
大和時代に それが泊まり着いたところに檍の木が有り
檍原泊大明神として祀ったのがこのお宮さんの起こりだそうです
飛鳥時代には 聖徳太子が鶴林寺を建立した際
棟梁の秦河勝が 紀伊の国から自身の氏神“国懸大神”を勧請し
社殿を建立したそうです
又 南北朝時代には石弾城が築かれていたそうです
承応二年(1653)宮本武蔵の甥で養子の伊織が
一族の氏神である泊神社の荒廃を嘆き
全面的に社殿を改築再建立したそうです
その時 伊織は 武蔵の生地が播磨であることを書き記した
棟札を奉納したそうです
水曜日, 6月 20, 2007
火曜日, 6月 19, 2007
月曜日, 6月 18, 2007
狛犬さん 241
2007.06.10 兵庫県加古川市粟津 粟津八幡神社
この狛犬さんたち あまり犬に見え無い気がします
狛犬さんは砂岩で作られることが多く どうしても摩滅しやすいんですね
台座には宝○○辛?未? 十一月吉日と書いてあるように見えます
“宝”がつくのは 宝暦(1751~)宝永(1704~)宝治(1247~)
宝治年間は 鎌倉時代になりますが そこまで古くないと思われますので
多分 宝暦元年辛未(1751)ではないかと思います
このお宮さんは 鳥居がありません
その代わりに
「随神門」が あります
どうもこの随神門と言うのは 昔神仏混交だった時に お寺がありその山門の跡のようです
お宮さんに仁王さんは要らないので 代わりに右大臣・左大臣の像が置かれています
境内に大歳神社があり その前でこんな狛犬さんたちが がんばっていました
この狛犬さんたち あまり犬に見え無い気がします
狛犬さんは砂岩で作られることが多く どうしても摩滅しやすいんですね
台座には宝○○辛?未? 十一月吉日と書いてあるように見えます
“宝”がつくのは 宝暦(1751~)宝永(1704~)宝治(1247~)
宝治年間は 鎌倉時代になりますが そこまで古くないと思われますので
多分 宝暦元年辛未(1751)ではないかと思います
このお宮さんは 鳥居がありません
その代わりに
「随神門」が あります
どうもこの随神門と言うのは 昔神仏混交だった時に お寺がありその山門の跡のようです
お宮さんに仁王さんは要らないので 代わりに右大臣・左大臣の像が置かれています
境内に大歳神社があり その前でこんな狛犬さんたちが がんばっていました
日曜日, 6月 17, 2007
土曜日, 6月 16, 2007
金曜日, 6月 15, 2007
木曜日, 6月 07, 2007
水曜日, 6月 06, 2007
火曜日, 6月 05, 2007
狛犬さん 235
2007.06.05 徳島県徳島市山城町 塩竃神社
ご祭神は 猿田彦命・宇賀能美多麻廻神・大鷦鷯神の三柱です
猿田彦命は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した時 道案内をした神様
瓊瓊杵尊は「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」とも書くそうで
読み方は(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)
宇賀能美多麻廻神は宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)のことでしょうか
宇迦御魂大神は倉稲魂命とも書き 命の根つまり「イネ」と呼び 神霊の宿ったものを米「コメ」
この神様は イネを成らせる神ということから 稲荷(いなり)の社名が出来たそうです
お稲荷さんの鳥居が赤いのは 「赤」と言う色は 豊年を象徴しているそうです
最後の神様は読み方もわかりません
享保二十年(1735)永田勘右ェ門(山城屋勘右ェ門)が
塩田としてこのあたりを開拓した時 守護神として奉斎したそうです
狛犬さんの台座には 明治二十二年九月十一日と刻まれています
ご祭神は 猿田彦命・宇賀能美多麻廻神・大鷦鷯神の三柱です
猿田彦命は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した時 道案内をした神様
瓊瓊杵尊は「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」とも書くそうで
読み方は(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)
宇賀能美多麻廻神は宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)のことでしょうか
宇迦御魂大神は倉稲魂命とも書き 命の根つまり「イネ」と呼び 神霊の宿ったものを米「コメ」
この神様は イネを成らせる神ということから 稲荷(いなり)の社名が出来たそうです
お稲荷さんの鳥居が赤いのは 「赤」と言う色は 豊年を象徴しているそうです
最後の神様は読み方もわかりません
享保二十年(1735)永田勘右ェ門(山城屋勘右ェ門)が
塩田としてこのあたりを開拓した時 守護神として奉斎したそうです
狛犬さんの台座には 明治二十二年九月十一日と刻まれています
日曜日, 6月 03, 2007
土曜日, 6月 02, 2007
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