ここで幾つめの 素鵞神社なのでしょう
松山市内には 素鵞神社が 数多くまつられています
この狛犬さんの顔 どこかで見たことがありますね
678の倉乃町神社(昭和11年10月)
695の軍森神社 (昭和24年10月)
顎から長く延びたヒゲの ようなものも 同じ
狛犬さんの台座には 昭和三十八年(1963) 十月吉祥日
と刻まれていました

波賀部神社古墳(はかべじんじゃこふん)
松 山 市 指 定 史 跡
昭和四〇年一一月八日指定
越智玉純が 神亀五(七二八)年大三島より勧請して
石井郷一宮三島大明神と称す社を建立したという
祭神は 大山積神・雷神・寛王命である
寛王命は 嵯峨天皇の皇子で 伊予国守として
赴任され この地で亡くなられたという その寛王命の
墓地が神社近くにあったところから 墓辺神社と呼ぶようになったが
墓の字をきらって 今の波賀部に改めたといわれている
社殿のうしろに 前方後円墳がある 古墳時代後期の
首長墓といわれている 全長六二メートル 松山平野では
最長大の古墳である 西が前方部で 幅二八メートル
前方部の高さ六,一メートル 後円部径二八メートル
後円部高さ六,七メートルある 外部には 堀をめぐらしていたといわれ
現存する古墳は 中腹より南半分が 崩れている
松 山 市
松山市教育委員会
履脱天満宮
祭神は 菅原道真公霊である
『予陽郡郷俚諺集』に「管丞相が筑紫に左遷のとき
越智郡桜井浜に船を寄せ 陸伝いに当地に至り
沓を脱いで三ヵ年逗留した 頭三位中将が追立ての
官人を連れ 都からやってきたので 道真公は
西方の橋まで出迎えた 道真公は筑紫へ向かうことになった
勅使橋といい 沓脱というようになった
船で出発するとき 名残惜し今出ると仰せられたので
その浜を今出浦と名付けた 別当長松山安楽寺」という
内容の記述がある
その後 長保元(九九九)年に 一条天皇が社殿を建立し
道真公霊を祀って 履脱天満宮と称したという
永正元(一五〇四)年には 河野通篤が当社に土地を
寄進している
江戸時代になって 松山藩主松平(久松)家が社殿を
再建し 代々の藩主が参拝して祖先神として
厚く敬い 幕 提灯にいたるまで 奉納したと伝えられる
松 山 市
松山市教育委員会
東野焼狛犬
松山市指定有形文化財(工芸品)
昭和五二年三月二五日指定
東野焼は 松山藩のお庭焼と伝えられている
この焼物の名は 明和年間(一七六四~一七八八)に
つくられたという『松山往来』にみられる
また 元禄一五年(一七〇二)年に僧曇海が著した
『玉の石』の中でも 道後名物の一つとして
東野焼茶碗が 紹介されている
しかし 東野焼は 窯跡や他の伝世品も発見されておらず
現在 幻の焼物といわれている
この狛犬は 銘文を有する唯一の作品として有名である
像全体に鉄釉が施され 茶色に発色しており
備前焼に似ていて 造形的にも優れている
像の背中には ヘラで 「奉寄進獅子二疋之内
元禄十丑二月二十四日 波賀氏藤原伴明」と刻み込まれている
松 山 市
松山市教育委員会