2009.04.11 愛媛県松山市平井町 素鵞神社
ここで幾つめの 素鵞神社なのでしょう
松山市内には 素鵞神社が 数多くまつられています
この狛犬さんの顔 どこかで見たことがありますね
678の倉乃町神社(昭和11年10月)
695の軍森神社 (昭和24年10月)
顎から長く延びたヒゲの ようなものも 同じ
狛犬さんの台座には 昭和三十八年(1963) 十月吉祥日
と刻まれていました
日曜日, 4月 26, 2009
土曜日, 4月 25, 2009
木曜日, 4月 23, 2009
火曜日, 4月 21, 2009
狛犬さん 707
2009.04.11 愛媛県松山市高井町 波賀部神社
説明板によりますと
古墳があるかどうか 見てくるのを 忘れていました
拝殿の中にも 由緒書があり 説明板には書かれていなかった
御祭神に高龗神が 加わっていました
この由緒書は あまりにも達筆過ぎ 私には 読みにくいので
ご紹介はしません
狛犬さんの台座には 明治三十五年(1902) 六月建立
と刻まれていました
100歳を超えた お年寄りなのですね
それにしてもこの狛犬さん 全体に角いんです
写真では分かりにくいかもしれませんが 狛犬さんの持っている玉
球状ではなく 角を削り落とした 四角にも見えるんです
元の石が 四角だったのが よくわかります
奉納されていた 獅子の額 文化十三年(1816)丙子年
秋九月吉祥旦と 書かれています
200年近く前に書かれたものですが 屋内にあるせいか 色がきれいです
額の横に 動物の頭の骨と のこぎり鮫の歯が奉納されていました
説明板によりますと
波賀部神社古墳(はかべじんじゃこふん)
松 山 市 指 定 史 跡
昭和四〇年一一月八日指定
越智玉純が 神亀五(七二八)年大三島より勧請して
石井郷一宮三島大明神と称す社を建立したという
祭神は 大山積神・雷神・寛王命である
寛王命は 嵯峨天皇の皇子で 伊予国守として
赴任され この地で亡くなられたという その寛王命の
墓地が神社近くにあったところから 墓辺神社と呼ぶようになったが
墓の字をきらって 今の波賀部に改めたといわれている
社殿のうしろに 前方後円墳がある 古墳時代後期の
首長墓といわれている 全長六二メートル 松山平野では
最長大の古墳である 西が前方部で 幅二八メートル
前方部の高さ六,一メートル 後円部径二八メートル
後円部高さ六,七メートルある 外部には 堀をめぐらしていたといわれ
現存する古墳は 中腹より南半分が 崩れている
松 山 市
松山市教育委員会
古墳があるかどうか 見てくるのを 忘れていました
拝殿の中にも 由緒書があり 説明板には書かれていなかった
御祭神に高龗神が 加わっていました
この由緒書は あまりにも達筆過ぎ 私には 読みにくいので
ご紹介はしません
狛犬さんの台座には 明治三十五年(1902) 六月建立
と刻まれていました
100歳を超えた お年寄りなのですね
それにしてもこの狛犬さん 全体に角いんです
写真では分かりにくいかもしれませんが 狛犬さんの持っている玉
球状ではなく 角を削り落とした 四角にも見えるんです
元の石が 四角だったのが よくわかります
奉納されていた 獅子の額 文化十三年(1816)丙子年
秋九月吉祥旦と 書かれています
200年近く前に書かれたものですが 屋内にあるせいか 色がきれいです
額の横に 動物の頭の骨と のこぎり鮫の歯が奉納されていました
木曜日, 4月 16, 2009
水曜日, 4月 15, 2009
日曜日, 4月 12, 2009
金曜日, 4月 10, 2009
狛犬さん 703
2009.04.05 愛媛県松山市久保田町 履脱天満宮(くつぬぎてんまんぐう)
境内にある説明板によりますと
お宮さんの境内の敷地の中に お寺も同居していて
最初は お寺とお宮さんの区別が付いていませんでした
お寺に参拝していた 男の人が何故か 拍手を打っていました
境内にある説明板によりますと
履脱天満宮
祭神は 菅原道真公霊である
『予陽郡郷俚諺集』に「管丞相が筑紫に左遷のとき
越智郡桜井浜に船を寄せ 陸伝いに当地に至り
沓を脱いで三ヵ年逗留した 頭三位中将が追立ての
官人を連れ 都からやってきたので 道真公は
西方の橋まで出迎えた 道真公は筑紫へ向かうことになった
勅使橋といい 沓脱というようになった
船で出発するとき 名残惜し今出ると仰せられたので
その浜を今出浦と名付けた 別当長松山安楽寺」という
内容の記述がある
その後 長保元(九九九)年に 一条天皇が社殿を建立し
道真公霊を祀って 履脱天満宮と称したという
永正元(一五〇四)年には 河野通篤が当社に土地を
寄進している
江戸時代になって 松山藩主松平(久松)家が社殿を
再建し 代々の藩主が参拝して祖先神として
厚く敬い 幕 提灯にいたるまで 奉納したと伝えられる
松 山 市
松山市教育委員会
お宮さんの境内の敷地の中に お寺も同居していて
最初は お寺とお宮さんの区別が付いていませんでした
お寺に参拝していた 男の人が何故か 拍手を打っていました
水曜日, 4月 08, 2009
火曜日, 4月 07, 2009
月曜日, 4月 06, 2009
狛犬さん 700
2009.03.15 愛媛県松山市東野 東山神社
残念ながら 本物がどこにあるのか 判りません
説明板によりますと
松山市の文化財課に連絡して どこに保管されているか
一度調べてみなければ いけませんね
残念ながら 本物がどこにあるのか 判りません
説明板によりますと
東野焼狛犬
松山市指定有形文化財(工芸品)
昭和五二年三月二五日指定
東野焼は 松山藩のお庭焼と伝えられている
この焼物の名は 明和年間(一七六四~一七八八)に
つくられたという『松山往来』にみられる
また 元禄一五年(一七〇二)年に僧曇海が著した
『玉の石』の中でも 道後名物の一つとして
東野焼茶碗が 紹介されている
しかし 東野焼は 窯跡や他の伝世品も発見されておらず
現在 幻の焼物といわれている
この狛犬は 銘文を有する唯一の作品として有名である
像全体に鉄釉が施され 茶色に発色しており
備前焼に似ていて 造形的にも優れている
像の背中には ヘラで 「奉寄進獅子二疋之内
元禄十丑二月二十四日 波賀氏藤原伴明」と刻み込まれている
松 山 市
松山市教育委員会
松山市の文化財課に連絡して どこに保管されているか
一度調べてみなければ いけませんね
日曜日, 4月 05, 2009
土曜日, 4月 04, 2009
金曜日, 4月 03, 2009
木曜日, 4月 02, 2009
水曜日, 4月 01, 2009
狛犬さん 695
2009.03.01 愛媛県松山市来住町 軍森神社(いくさもりじんじゃ)
正平十九年(1364)讃岐の国で 南朝に降った細川清と
兄 北朝の細川頼春と同族の争いが起こります
翌正平二十年(1365)に そのあおりを受けて
九州大宰府から伊予郡松前に上陸し 進撃して来た河野通尭の大軍と
湯築城(今の道後公園)を守っていた仁木義尹が戦闘になったそうです
このあたり一帯は そのときの主戦場で元々久米原と呼ばれていました
以来軍森(いくさもり)と呼ばれるようになりました
神社から南へ100メートルほど行ったところに
「久米原の戦跡」と書かれた石碑があるそうです
そのあたりを昔「伊予の血坂」と呼んでいたそうです
それほどすごい戦だったのですね
境内に 小さな土盛がありました
円墳にしては小さいなと思ってみてましたが
その土盛は 敵味方の将兵の亡骸を 村人が弔った塚だったそうです
通称 千人塚と言うそうです
拝殿に 軍森八幡神社と書かれた額がありましたので
御祭神は 応神天皇でしょうか
狛犬さんの台座には 昭和二十四年(1949)
十月吉日
石工 坂木村 相原良一 と刻まれていました
親狛犬の足元にいた 子犬たちです
境内の手水の水盤のデザインが 気に入りました
正平十九年(1364)讃岐の国で 南朝に降った細川清と
兄 北朝の細川頼春と同族の争いが起こります
翌正平二十年(1365)に そのあおりを受けて
九州大宰府から伊予郡松前に上陸し 進撃して来た河野通尭の大軍と
湯築城(今の道後公園)を守っていた仁木義尹が戦闘になったそうです
このあたり一帯は そのときの主戦場で元々久米原と呼ばれていました
以来軍森(いくさもり)と呼ばれるようになりました
神社から南へ100メートルほど行ったところに
「久米原の戦跡」と書かれた石碑があるそうです
そのあたりを昔「伊予の血坂」と呼んでいたそうです
それほどすごい戦だったのですね
境内に 小さな土盛がありました
円墳にしては小さいなと思ってみてましたが
その土盛は 敵味方の将兵の亡骸を 村人が弔った塚だったそうです
通称 千人塚と言うそうです
拝殿に 軍森八幡神社と書かれた額がありましたので
御祭神は 応神天皇でしょうか
狛犬さんの台座には 昭和二十四年(1949)
十月吉日
石工 坂木村 相原良一 と刻まれていました
親狛犬の足元にいた 子犬たちです
境内の手水の水盤のデザインが 気に入りました
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