2012.07.09 愛媛県西条市喜多川 荒神社
御祭神は 素盞男神
創立等は 不明です
台座に 明治廾四年(1891)
卯 九月吉日
と刻まれていました
境内の大銀杏です
横の石柱に依りますと
樹高約二十m 幹回り約五m 樹齢不詳
市内まれにみる銀杏の老大木である 幹から
下がっている乳柱を削り 蒸して飲むと
火曜日, 7月 17, 2012
日曜日, 7月 15, 2012
狛犬さん 1200
2012.06.01 愛媛県松山市北条 金毘羅大権現
このお宮さんは 十輪寺と云うお寺の境内と一緒になっています
神仏混合時代の 名残でしょうね
お寺の本堂の右手には春日神社
本堂と春日神社の間に鳥居と階段があり
それを上ると 金毘羅大権現のお社にたどり着きます
お宮さんには 沢山素敵な彫刻がされていました
その写真だけでも 20~30枚位撮りましたが
まだまだ撮っていない部分が沢山あります
境内の説明版に依りますと
だそうです
鳥居をくぐった所にいた狛犬さん達です
台座に 千(?)時(?)天保十(1839)巳亥
十月吉辰
今治城下
石工
中谷元右ヱ門
今治の石工 中谷 元右ヱ門 の作品は
あちらこちらで 見かけています
かなり大きな(有名な?)石工さんだったのでしょうか
説明板に在った 好道作の十二支の彫刻がこれです
このお宮さんは 十輪寺と云うお寺の境内と一緒になっています
神仏混合時代の 名残でしょうね
お寺の本堂の右手には春日神社
本堂と春日神社の間に鳥居と階段があり
それを上ると 金毘羅大権現のお社にたどり着きます
お宮さんには 沢山素敵な彫刻がされていました
その写真だけでも 20~30枚位撮りましたが
まだまだ撮っていない部分が沢山あります
境内の説明版に依りますと
金毘羅宮本殿・拝殿 二棟
金毘羅宮御神像 一躯
松山市指定有形文化財(建造物)
昭和五〇年十二月十一日指定
文治三(一一八七)年十月、讃岐
金光院(現讃岐金刀比羅宮)から仏法
護持神として金毘羅大権現を勧請し、
河野通信、通俊父子によって創建され
たと伝えられている。
本殿は扇垂木を用い、彫刻は竹田番
道、飛田円道の作品で、拝殿の蟇股に
は十二支の彫刻があり、好道の刻名が
ある。
御神像は、三宝剣を佩した修験者の
相をしており、両部神道を色濃く示し
ている。本地仏は不動明王で、秘仏と
されている。
だそうです
鳥居をくぐった所にいた狛犬さん達です
台座に 千(?)時(?)天保十(1839)巳亥
十月吉辰
今治城下
石工
中谷元右ヱ門
今治の石工 中谷 元右ヱ門 の作品は
あちらこちらで 見かけています
かなり大きな(有名な?)石工さんだったのでしょうか
説明板に在った 好道作の十二支の彫刻がこれです
水曜日, 7月 11, 2012
狛犬さん 1199
2012.06.01 愛媛県松山市北条 国津比古命神社
前回の櫛玉比賣命神社の階段を降りる時
正面に立派な楼門が見えてきます
国津比古命神社の楼門です
境内の説明板によりますと
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)
相殿 宇麻志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊(応神天皇)
国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。
昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。
その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。
大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、
この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、
なおかつ、自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、
櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。
後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、
国津比古命神社と元の社名になりました。
頭日(カグヒ)八幡宮と呼ばれた時期もありましたが、
享保年間(一七一六~一七三六)に、元の社名にもどりました。
物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇敬厚く、
戦火により焼失した社殿が再建されました。
享保元年(一七四一)松山藩主の松平定喬は毎年代官を
参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、
その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年( 1909)、
社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和六年( 1931)に
境内拡張・斎館の整備などが行われました。
そうです
狛犬さんの台座には
天保九戌年(1838)
八月吉日
年号は 戌は読み取れたのですが
後は読めなかったのです
しかし 天保年間で戌年は 九年だけのようなので
天保九年としました
今治石工 中谷元右ヱ門
楼門はお宮さんでは隋神門と言い
門を守る神様がいらっしゃいます
矢大臣・左大臣とも呼ばれる事があるようですが
片方の神様は弓を持ち腰に刀を佩いた姿を
よく見かけますが このお宮さんでは
どちらも笏を持っております
正面からでは分かりませんが
横から見ると 厚みが無くペタンコなのです
前回の櫛玉比賣命神社の階段を降りる時
正面に立派な楼門が見えてきます
国津比古命神社の楼門です
境内の説明板によりますと
国津比古命神社楼門 一棟だそうです
愛媛県指定有形文化財(建造物)
昭和二六年(1951)十一月二十七日史跡指定
昭和三二年(1957)十二月十四日史跡替
この八脚門は、慶安二(1649)年に市内
阿沼美神社に建立されたものを元禄年間
(一六八八~一七〇三)に、この地に移した
と伝えられるが、建立年については、慶長一〇
(一六〇五)年に初代松山城主加藤嘉明が
建立したものという説もある。
建築様式は、 単層、入母屋造、本瓦葺、柱は
円柱で、一部唐様をを取り入れた和様建築である。
入口の虹梁やその他の部分に後代の補修や
改築の跡があるが、虹梁の構造や蟇股などの
彫刻に創建当初の技法を残し、全体に雄大
で豪華な桃山建築の面影を伝えている。
松 山 市
松山教育委員会
国津比古命神社主神 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)
相殿 宇麻志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊(応神天皇)
国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。
昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。
その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。
大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、
この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、
なおかつ、自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、
櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。
後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、
国津比古命神社と元の社名になりました。
頭日(カグヒ)八幡宮と呼ばれた時期もありましたが、
享保年間(一七一六~一七三六)に、元の社名にもどりました。
物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇敬厚く、
戦火により焼失した社殿が再建されました。
享保元年(一七四一)松山藩主の松平定喬は毎年代官を
参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、
その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年( 1909)、
社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和六年( 1931)に
境内拡張・斎館の整備などが行われました。
そうです
狛犬さんの台座には
天保九戌年(1838)
八月吉日
年号は 戌は読み取れたのですが
後は読めなかったのです
しかし 天保年間で戌年は 九年だけのようなので
天保九年としました
今治石工 中谷元右ヱ門
楼門はお宮さんでは隋神門と言い
門を守る神様がいらっしゃいます
矢大臣・左大臣とも呼ばれる事があるようですが
片方の神様は弓を持ち腰に刀を佩いた姿を
よく見かけますが このお宮さんでは
どちらも笏を持っております
正面からでは分かりませんが
横から見ると 厚みが無くペタンコなのです
月曜日, 7月 09, 2012
狛犬さん 1198
2012.06.01 愛媛県松山市北条 櫛玉比賣命神社
境内の説明板に依りますと
相殿 御炊屋姫命
国津比古命神社の主神である
クシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)を
おまつりしているのが櫛玉比賣命神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容する言葉です。
その方の比売神ですから、「櫛玉の比売の命の神社」です。
風早の先人が国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、
のちに、物部阿佐利命がこの国魂も敬い、
合わせて祖神であるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、
現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社伝によると、寛永年間(一六一一~一六二九)に
前方後円墳のそばに遷されました。このことから考えると、
動座祭からの一連の神事は最大限ここまでさかのぼることが
できます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神」ともいわれました。
これは当社が国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと
考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのも
このためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと
「宵の明星」があります。
明治四二年、社格が郷社になり、現在の社殿は
昭和六二年(1987)に新築されました。
両社とも風早の大氏神として多くの老若男女に
厚く崇敬されています。特に、秋祭りに行われる「風早の火事祭」での
動座祭から神輿落としにいたる一連の神事・行事には
両社の特性がよくあらわれています。
だそうです
境内の石碑には 延喜式内社と書かれています
狛犬さんは新しいもので 台座には
一九九〇年
平成二年十月建立
と刻まれていました
境内の説明板に依りますと
櫛玉比賣命神社のいわれ主神 天道日御名命
相殿 御炊屋姫命
国津比古命神社の主神である
クシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)を
おまつりしているのが櫛玉比賣命神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容する言葉です。
その方の比売神ですから、「櫛玉の比売の命の神社」です。
風早の先人が国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、
のちに、物部阿佐利命がこの国魂も敬い、
合わせて祖神であるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、
現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社伝によると、寛永年間(一六一一~一六二九)に
前方後円墳のそばに遷されました。このことから考えると、
動座祭からの一連の神事は最大限ここまでさかのぼることが
できます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神」ともいわれました。
これは当社が国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと
考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのも
このためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと
「宵の明星」があります。
明治四二年、社格が郷社になり、現在の社殿は
昭和六二年(1987)に新築されました。
両社とも風早の大氏神として多くの老若男女に
厚く崇敬されています。特に、秋祭りに行われる「風早の火事祭」での
動座祭から神輿落としにいたる一連の神事・行事には
両社の特性がよくあらわれています。
だそうです
境内の石碑には 延喜式内社と書かれています
狛犬さんは新しいもので 台座には
一九九〇年
平成二年十月建立
と刻まれていました
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