土曜日, 2月 15, 2014

狛犬さん 1282

2013.05.31 埼玉県川越市南通町 川越八幡宮
 御祭神 応神天皇
  宇佐八幡宮より勧請されたと伝えられてるそうです
 ご由緒は
 当社・川越八幡宮は、
第68代・後一条天皇の時代の
長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって
創祀されたと伝えられています。
 長元元年(1028)、下総国(千葉)の城主前上総介平忠常は
朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従わせ、
大軍を起して武蔵国に攻め入りました。
この乱は長元の乱と言われ、
3年に渡り鎮圧できませんでした。
有力武士だった冷泉院判官甲斐守源頼信が
長元3年に平忠常追討の綸旨を賜りました。
 源頼信は当地で必勝祈願を行い、
敵陣に切り込んだところ、
忠常の軍勢はたちまちに乱れました。
そして三日三夜の間、追討してついに乱を平定しました。
頼信は神様の御神威に深く感謝して、
すぐに当地に八幡神社を創祀しました。
これが当社の創建です。
 当時このあたりは、
豪族河越氏の所領で鎌倉時代、
神社後方に川越氏の館がありました。
応永32年(1425)には、
関東管領足利持氏河越兵庫助のはと館跡地の半分を
当神社に日伴料として寄進したといわれています。
長禄元年(1457)、川越城が完成しました。
築城の名手だった太田道灌は当神社を篤く崇敬し、
分霊を川越城内の守護神として奉斎しました。
 爾来、川越の歴代城主、城代の崇敬が深く、
特に天正18年(1590)以来の城主・酒井氏一族の崇敬はすこぶる篤く、
社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次ぎました。
酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。
文花9年7月1日(1812)、姫路城城主・酒井雅樂頭源朝臣忠衛は
御神号「川越八幡宮」(文字は向鳩形)の額と掛物一幅を奉納しました。
寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、
酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、
その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。
 明治維新の際には、別当万蔵寺を廃しましたが、
河越城主の地の人々は当社を川越の守護神として崇敬しています。
昭和51年(1976)秋に、当社は埼玉県にて一社、
神社本庁第一次神社振興対策モデル神社にしていされました。
 創建から約980年、今も相変わらず当社は篤い崇敬を受け、
関東一円より多くの皆様からご参拝をいただいております。

      だそうです   
 
 拝殿へと上がっていく階段の下にいました
 台座には 昭和五十八年(1983)一月一日
           と刻まれていました

  


 












 境内にこんな神様がいらっしゃいました
 「ぐち聞きさま」です
 この神様は聖徳太子のお姿だそうです
 聖徳太子は一度に十人の訴えを聞きわけたと言われ
 多くの人々の悩みを救っていた と言う事から
  ぐち聞きの神様だそうです

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