境内の説明板によりますと
高縄神社だそうです
昔、越智高縄が高縄山の頂上に城をつくり
大山積神をとても大切にしていました
越智益躬が高縄天神森に 神仏の分霊を
移して祭り、社殿造営しました
1136年(保延二年)河野親清が現在地に移して
高縄三島神社と名前を付けました
1870年(明治三年)に高縄神社としました
神は、大山積神と高龗神と鳴雷神がいます
平成18年3月
河野小学校卒業生有志一同建之
又別の説明板によりますと
国史現在社 高縄神社 御由緒だそうです
ご祭神
大山積神 大山積神を三島大明神と申し上げ、
社伝に太古天地開闢の時に成りませる
天神国之常立命、神徳二義に化して
面足神惶根神と生じ給ひ、高縄山に天降り
大三島に垂跡して三島大明神と現じ給へりと
あります。神代史によれば、天孫爾爾藝命
(皇室の祖)の外戚の父神とあり又、
須佐能男命(出雲の神々の祖)にとっても
外戚の祖父神であるとされ最も古い系譜に
属する高貴の神様です。
高龗神
鳴雷神
高縄山は古来神霊天降る峯として山麓はもと
より広く齋灘一帯の海上から仰がれた神山であ
り、かって三島大明神を奉じ瀬戸内水軍を率ゐ
て天下に雄飛した小千(越智)河野一族は、当
地風早郡河野郷に発祥しました。
社伝によれば、河野氏の遠祖小千命九世の孫
小千躬尺は別名を小千高縄とも称し三島大明神
の神託により高縄山に居城したといはれ、後六
世を経て第十五代小千益躬は推古天皇七年(西
紀五九九年)山頂天神ヶ森に祭壇を新設、三島
大明神を主座に天神地祇を奉斎して高縄の神と
尊称しました。すなわち当神社の創建であり
ます。
「類聚国史」には当神社を推古天皇勅願社の一に
数えており「三代実録貞観五年の項には神階授
与のことが見え、当時より御神威赫然たりしこ
とが偲ばれます。
越智氏第二十七代の家督を継いで高縄城主とな
った河野親清は天神ヶ森の高縄神を奉遷すべく
御神意を伺ひ、当地を卜定して
保延二年(西紀一一三六年)三月二十三日鎮祀。
河野新宮とも河野三島宮とも尊称し、
社殿に大三島の大山祇神社に擬して壮大な
結構を営み、祭務を北条小太夫正岡経孝に
命じ、神官祝部社僧衛待等数十人を擁した
といわれます。
爾来、当神社は河野氏の産土神として格別に
崇敬され親清の子通清から末孫通直まで神
領安堵神田寄進累代に亘り御社領は荘厳を
きはめたものであります。
戦国時代河野氏は滅亡して当神社の神領
神田ことごとく没収され、さらに慶長五年
(西紀一六〇〇年)九月二十日夜兵火に罹っ
て社殿神宝古文書等すべて焼失しました。
徳川時代半ばになって当神社はようやく
復興の緒につき文化三年御社号を復古して高縄
神社と改め、同四年河野一郷の鎮守として
郷社に列格同二十八年には県社に昇格しま
した。現在は神社本庁傘下の宗教法人と
して深縁深き河野地区の氏子によって護持
されています。
平成十七年十一月吉日
参道に居た狛犬さんです
狛犬さんの台座には
天保九(1838)戊戌
八月吉祥日
今治 石工
大村忠右ヱ門
と刻まれていました
境内の稲荷社に居た狐さんたちです
台座に 弘化三午年(1846)
十二月吉日
と刻まれていました
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