神社の前にある説明板によりますと
土佐神社だそうです
御祭神 味鋤高彦根神(一言主神)
雄略天皇(五世紀後半)時代の創建で
土佐の総鎮守である。
現在の社殿は元亀元年(一五七〇)に
長宗我部元親が再建したものであり、
鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)が
建立、再建したものである。
本殿・幣殿・拝殿は明治三十七年
(一九〇四)に、鼓楼は昭和九年(一九三四)
に、楼門は昭和五十七年(一九八二)に
国の重要文化財に指定されている。
大祭である「しなね祭」は、毎年八月
二十四・二十五日に行なわれ、多くの
参詣人で賑わっている。
土佐神社は土佐の国の一の宮
地名も「一宮」と書きますが 読み方は「いっく」
「しなね様」の語源に関しては 土佐神社のHPに
旧暦七月三日の祭ですだそうです
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから
風の神志那都比古から発したという説、
新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する
鍛冶と風の関連からとする説等があります。
拝殿にいた狛犬さんたちです
備前焼の狛犬さんたちですね
吽形の狛犬さんには 播磨姫路住
安川清泉造
阿形の狛犬さんには
備前伊部住
木村新七良
貞清造
と刻まれていました
製作年代は 新しいもののように見えました
土佐神社のHPの御由緒には
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、文中にある磐座(礫石)は これです
境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、
古代に遡ると言われています。延喜の制が布告された平安時代、
醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、
特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、
朱雀天皇の御代天慶三(940)年には、神階を正一位に進ませられています。
鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。
当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。
室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元(1570)年には、
長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代
後陽成天皇の御代慶長六(1601)年には、山内一豊封をこの地に享けると共に
以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を
増築して、土佐の国最上の祈願所としました。明治元年、神仏分離令により、
永年続いた神仏習合時代が終わり、明治四年には土佐神社と改称、
社格を国弊中社に列しました。戦後、昭和二十一(1946)年官国幣社の制度が
廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。
石の前にあった説明板によりますと
礫石の謂れだそうです
古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、
御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ
宮を建て加茂の大神として崇拝る。
或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて
石を取りて投げさせ給ひ此の石のと
落止る所に宮を建てよと有りしが
十四里を距てたる此の地に落止れり
と是即ちその石で所謂この社地を
決定せしめた大切な石で古来之を
つぶて石と称す。浦の内と当神社
との関係斯の如くで往時御神幸の
行はれた所以である。この地は
蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は
珪石で全然その性質を異にしており
学界では此の石を転石と称し学問上
特殊の資料とされている
昭和四十九年八月
宮司
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