本殿の中にいた狛犬さんたちです
このお宮さんにいる狛犬さんたちは
新しいものを除いて 砂岩で出来ているようで
表面の剥離がかなりあります
この狛犬さんたちは 建物の中に入れてもらっているので
今後も傷みが少なく 長命を保ってくれるといいのですが
天孫神社
御祭神 彦火々出見尊
国常立尊
大己貴尊
帯中津日子尊
御由緒 社伝に據れば人皇第五十代桓武天皇の
勅命により其地鎮護の神として四座の
神を齋ぎ奉らせ給う今の四宮の社であります
当社は歴代国司の崇敬を受け
文禄四年(1595)十月近江守源朝臣高次
より当郷の内参拾石之地を寄附せられ
又元亀年中(1570~1573)の
御遷宮に付き佐々木家より造営寄進あり
豊臣秀吉公の大津城築城以来全城下の
鎮護神として当時の摂家たる近衛家の
尊崇殊の他篤く文政十三年(1830)
庚寅年六月拝殿拝所の造営に預ったのであります
例祭を十月十日にして曳山十三本祭禮の
行粧として綾羅錦繍の帷帳を垂れ
笛鉦鼓を以て囃し種々の木偶人を
載せて機械の功を為し所望と云ふて
機者に乞うことあれば諾して傀儡をなし
氏子の町々を巡行するその美観壮麗は
大津祭と称し湖国一の大祭であることは
人の良く知るところであります
当社は元四宮神社又は天孫第四宮大明神とも
奉称せしを明治維新の際単に
天孫神社と改称したのであります
昭和四十七年九月 記
長等神社社歴
御祭神 建速須佐之男大神
大山咋大神
宇佐若宮下照姫大神
八幡大神
地主大神
由緒 天智天皇が近江大津宮へ
遷都(西暦六六七年)の際に
都の鎮護として、須佐之男命を志賀の
長等山岩座谷の地に祀られたのが
始まりである。
天智天皇(西暦六六九年)五月五日、
天皇が宇治山科から帰途のおり
当神社へ弓矢を奉納され、
これにより大友與多王(天智天皇の孫)が
その日を祭日と定められて以来、
今も五月五日を例祭としている。
貞観二年(西暦八六〇年)二月、
三井寺一山を開祖された智証大師(円珍)が
日吉山王神を勧請し、一山の守護神として
祀られ、新日吉社又は新宮社と
称するようになった。
天喜二年(西暦一〇五四年)四月、
現在の地に遷宮され、その地を神出と
称することとなった。
永保元年(西暦一〇八一年)四月、
白河天皇は勅使を参向せられ、平安を祈願された。
延元元年(西暦一三三六年)正月、
南北朝の戦乱によって社殿や楼門
その他の建物を消失した。
興国元年(西暦一三四〇年)足利尊氏によって
再建され、社殿壮麗にして十二の回廊や
楼門その他おおくの建造物があり、
湖南の大社といわれ、皇室を始め
武将や多くの民衆から深く崇敬され
隆盛をきわめた
明治十六年(西暦一八八三年)現在の社号
(長等神社)となった。
明治三十七年(西暦一九〇四年)
鎌倉様式を基本として、平安、室町時代の
和様建築の粋を取り入れて現在の
楼門を復興した。
明治四十三年(西暦一九一〇年)一月、
県社に列せられる。
昭和四十七年(西暦一九七二年)七月一日、
楼門が中世の優れた社寺建築様式の再現を
評価され、大津市指定文化財の指定を受けた。
この様に当社の歴史は古く、
千三百五十有余年の幾多の変遷を経て
今日に至っている。
平成十七年五月
若宮八幡神社記
祭神 応神天皇
(誉田別命)
当社は村上天皇の天徳三年(九五七)
豊前國宇佐八幡宮より勧請、
古は若宮八幡神宮と称しました。
応永十三年(一四〇六)九月
大暴風雨洪水があり
後小松天皇は当社に御祈願なされました所、
風水害もおさまりましたので、
天皇は奉賛のためしん筆の勅額を
下賜されました。勅額は社宝として
現存しています。
貞享三年(一六八六)社殿炎上し
元禄年間に再建しました。
今までに数回の修理を経ていますが、
原形をとどめています。
平成元年三月
謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社
幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を
帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山に
お捨てになった。この世で前世の罪業の
償いをする事が未来への扶けになると
あきらめた宮も、孤独の身の上を
琵琶で慰めていた。
一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、
前世の業因強く、遠くの果まで歩きまわる
狂人となって逢坂山まで来てしまった。
美しい琵琶の音に引かれて偶然にも
弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき
運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は
心を残しながら別れて行く。という
今昔物語を出典とした名曲が
謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは
定かではないが、冷泉天皇の頃、
日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、
当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。
謡曲史跡保存会
関蝉丸神社
琵琶の名手蝉丸をまつる神社は、
旧東海道沿いに三社があり、
当社は下社にあたる。
平家物語、謡曲「蝉丸」などにも、
その名が見え古くから
歌舞音曲の神として知られる
また、境内には紀貫之の歌で有名な
「関の清水」や「小町塚」、
重要文化財の「石灯籠」がある。
大津市
青麻三光神社略縁起
祭神 天御中主大神 天照皇大神 月夜見大神
当社は右三柱の大神の御神徳を日月星の
三光になぞらえて御社号を青麻三光神社と
申し上げます。
当社は昔から脳の守護神として一般の信仰が厚く
殊に中風除の神として遠近に多数の崇敬者を
持っております。
当社は古くは此処から南約一キロの
船ヶ谷茶臼山の麓に鎮座されておりましたが
安政の頃此社地へお遷し申し上げ明治の中頃に
なりまして今の社殿を新築して今日に
及んでおります。
諸山積神社略縁起
祭神 大山積神 外二神
昔伊予皇子勅命により西南の兇徒を退治の為
当国へ下降浦戸の丘に神籬を建て国家鎮護のため
大山積神を始め諸神を斎き祀り
諸山積宮一名浦戸明神と号し奉りしが当社の
創祀と伝えられる。
後和銅五年(712)大三島より高龗神、雷神を勧請して
諸山積神社へ合わせ祀りて浦戸新宮と号し
越智玉澄神殿を造営し郷内一宮と崇められる。
光孝天皇仁和三年(887)神供料を奉納あり。
文治年中(1185~1190)河野通信社殿を修治して以来
或は水田を献じ或は神領を奉り 社殿を修築せし等
河野氏厚く崇敬せり
惠美須神社の由来(仮説)
その昔、この辺りには天満神社や蓮華寺、
そして蓮長寺(架空の寺)などがあって、
当時は信仰心の厚い世相の時代でもあり、
里人はもとより、地方からの崇敬者のお参りも、
さぞや多かったであろうと思われます。
そうしたお参りの日には、門前で
それぞれが持ち寄ってきた米、麦、栗、
大豆などの穀類や、野菜、果物、
或は織物や工芸品などの生活必需品の交換が
行われていたようで、そのような交換の
取り??のこと?市といって里人は
市神をお祀りするようになったものと
考えられます。
市神には、ところによって、市杵嶋姫命、
大国主命、恵比須、大黒、事代主命などが
祀られていて、毎月の一日(おついたち)か
十五日(おじゅうごにち)とかが
市日に当てられていたようです。
市神は「土地を管理する」?の
性格を持っていたとも言われています。


霊峰石鎚山総本宮石鎚神社ご案内
石鎚神社は、関西第一の高峰石鎚山(1982m)を
神体山として仰ぐ、奥宮頂上社・中宮成就社と
土小屋遙拝殿・そしてこちらの口之宮本社の総称です
御祭神は、石鎚毘古命・石鎚大神とも
申上げ、伊邪那岐命・伊邪那美命の第二番目の
御子にあたり、諸願成就の神様として
知られていますが、殊に家内安全・厄除開運・
病気平癒の神として篤い信仰を受けています。
石鎚山は、日本七霊山・日本百名山の
一つに数えられ、今から約1300年の昔
役小角によって開山され、弘法大師も
修業したと伝えられる修験道の霊山です。山頂よりは
天候が良ければ土佐湾・太平洋また、瀬戸内海を
越えて中国・九州の山々まで遠望でき、
変化に富んだ風景が四季を通じて楽しめます。
時には、雲海が眼下に広がり、依るには満天の星空、
そして朝には素晴らしいご来光と野鳥の囀り、
正に「神」鎮まる御山です。
本日ご参拝頂きました本社本殿前の階段には、
石鎚山に安永8年に掛けられた鉄の鎖を
手摺りとして取り付け、皆様に御山の霊気に
触れて戴いて居ります。
石鎚信仰1300有余年、悠久の時を想いつつ
どうぞごゆっくりご参拝下さい。
貴布称神社
主祭神 大山祇神 別雷神 高龗神 罔象神
境内社 塞之神社 八衢天神
惠美須神社 大国主神
和霊神社 和霊大神(山家清兵衛公頼霊)
真名井神社 多紀理毘売命 他七座
一ノ宮神社 上筒男之神 他二座
金刀比羅神社 大物主神 他一座
当社は、第三二代崇竣天皇の元年(五八七)
八月二三日、伊予国司散位小千(越智)宿祢益躬が
勅を奉じ、越智の三島浦戸宮より
大山積神をこの地方の一の宮として
勧請したといわれ、また、和銅五年(七一二)
八月二三日越智玉純が、浦戸宮より
諸山積大明神(大山積神の別称)を
勧請、創立したともいわれている。
神亀五年(七二八)九月二三日には、
雷神、高龗神を合祀。更に山城国愛宕より
貴船神社、罔象女神を勧請
ついで宝亀一八年(延暦六年)(七八七)八月二三日には
三島宮より十六皇子神を勧請。
弘仁九年(八一八)には国司小千(越智)真勝が
水田を寄進し、社殿の結構を整え、別当寺を置き
郡司大領に命じて国司に代り奉幣させ
社運は隆盛を極めた。
承平、天慶の乱(九三五~九四一)により
荒廃したが、元暦元年(一一八四)
神官高市武者所清儀、本殿を修復。
文治三年(一一八七)高市太郎光儀、社領を確定し
社殿を荘厳して社運を回復。元弘元年(一三三一)
颶風出火、社殿悉く焼失したが、
貞和五年(一三四九)河野対馬守通治、社領百石寄進
更に河野通尭、社領百貫を加え、
神馬飼育料、大豆五〇貫、白銀二千疋を
毎年奉納。社運再び大いに開いた。
天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の
四国平定の戦禍により社殿焼失。
慶長五年(一六〇〇)正木城主加藤嘉明
社殿を造営 社領百石寄進。以来領主の崇敬と
神官の誠意奉仕、住民の尊崇により
地域の文教、徳育の中心となって
現代にいたる

本殿の前に 相棒を失くした狛犬さんがいました
お祭り風景です
菊万庄鎮守社 寛治四年(1090)
加茂別雷社 貴布禰社 神山(高山)鎮座
高山(神山)初篭峰 古戦場跡
正平二十三年(1368) 九月六日十日十九日
応安元年(1368) 木梨入道軍布陣
加茂別雷社 貴布禰社 古社之跡
応安元年九月六日十日十九日合戦ノ時
木梨入道軍兵士神山ヨリ移ス
古社ヨリ天授六年(康暦二年)庚申四月留山ニ移ス
三永九郎通能
元中四年(1387) 嘉慶元丁卯年 當所ニ移ス三永九郎通能
加茂別雷社応永六巳卯年四月菊万庄
遍照院境内ニ宮造鎮坐
遷宮眞恵上人宮僧一之坊
神主三永十郎左衛門
社人仲原図書城之上刑部