2013.09.15 愛媛県松山市桜谷町 伊佐爾波神社
このお宮さんには何度も行ったのですが
今回初めて気づきました
ご本殿の前に居ました
詳細は不明です
火曜日, 7月 17, 2012
日曜日, 7月 15, 2012
狛犬さん 1200
2012.06.01 愛媛県松山市北条 金毘羅大権現
このお宮さんは 十輪寺と云うお寺の境内と一緒になっています
神仏混合時代の 名残でしょうね
お寺の本堂の右手には春日神社
本堂と春日神社の間に鳥居と階段があり
それを上ると 金毘羅大権現のお社にたどり着きます
お宮さんには 沢山素敵な彫刻がされていました
その写真だけでも 20~30枚位撮りましたが
まだまだ撮っていない部分が沢山あります
境内の説明版に依りますと
だそうです
鳥居をくぐった所にいた狛犬さん達です
台座に 千(?)時(?)天保十(1839)巳亥
十月吉辰
今治城下
石工
中谷元右ヱ門
今治の石工 中谷 元右ヱ門 の作品は
あちらこちらで 見かけています
かなり大きな(有名な?)石工さんだったのでしょうか
説明板に在った 好道作の十二支の彫刻がこれです
このお宮さんは 十輪寺と云うお寺の境内と一緒になっています
神仏混合時代の 名残でしょうね
お寺の本堂の右手には春日神社
本堂と春日神社の間に鳥居と階段があり
それを上ると 金毘羅大権現のお社にたどり着きます
お宮さんには 沢山素敵な彫刻がされていました
その写真だけでも 20~30枚位撮りましたが
まだまだ撮っていない部分が沢山あります
境内の説明版に依りますと
金毘羅宮本殿・拝殿 二棟
金毘羅宮御神像 一躯
松山市指定有形文化財(建造物)
昭和五〇年十二月十一日指定
文治三(一一八七)年十月、讃岐
金光院(現讃岐金刀比羅宮)から仏法
護持神として金毘羅大権現を勧請し、
河野通信、通俊父子によって創建され
たと伝えられている。
本殿は扇垂木を用い、彫刻は竹田番
道、飛田円道の作品で、拝殿の蟇股に
は十二支の彫刻があり、好道の刻名が
ある。
御神像は、三宝剣を佩した修験者の
相をしており、両部神道を色濃く示し
ている。本地仏は不動明王で、秘仏と
されている。
だそうです
鳥居をくぐった所にいた狛犬さん達です
台座に 千(?)時(?)天保十(1839)巳亥
十月吉辰
今治城下
石工
中谷元右ヱ門
今治の石工 中谷 元右ヱ門 の作品は
あちらこちらで 見かけています
かなり大きな(有名な?)石工さんだったのでしょうか
説明板に在った 好道作の十二支の彫刻がこれです
水曜日, 7月 11, 2012
狛犬さん 1199
2012.06.01 愛媛県松山市北条 国津比古命神社
前回の櫛玉比賣命神社の階段を降りる時
正面に立派な楼門が見えてきます
国津比古命神社の楼門です
境内の説明板によりますと
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)
相殿 宇麻志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊(応神天皇)
国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。
昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。
その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。
大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、
この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、
なおかつ、自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、
櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。
後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、
国津比古命神社と元の社名になりました。
頭日(カグヒ)八幡宮と呼ばれた時期もありましたが、
享保年間(一七一六~一七三六)に、元の社名にもどりました。
物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇敬厚く、
戦火により焼失した社殿が再建されました。
享保元年(一七四一)松山藩主の松平定喬は毎年代官を
参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、
その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年( 1909)、
社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和六年( 1931)に
境内拡張・斎館の整備などが行われました。
そうです
狛犬さんの台座には
天保九戌年(1838)
八月吉日
年号は 戌は読み取れたのですが
後は読めなかったのです
しかし 天保年間で戌年は 九年だけのようなので
天保九年としました
今治石工 中谷元右ヱ門
楼門はお宮さんでは隋神門と言い
門を守る神様がいらっしゃいます
矢大臣・左大臣とも呼ばれる事があるようですが
片方の神様は弓を持ち腰に刀を佩いた姿を
よく見かけますが このお宮さんでは
どちらも笏を持っております
正面からでは分かりませんが
横から見ると 厚みが無くペタンコなのです
前回の櫛玉比賣命神社の階段を降りる時
正面に立派な楼門が見えてきます
国津比古命神社の楼門です
境内の説明板によりますと
国津比古命神社楼門 一棟だそうです
愛媛県指定有形文化財(建造物)
昭和二六年(1951)十一月二十七日史跡指定
昭和三二年(1957)十二月十四日史跡替
この八脚門は、慶安二(1649)年に市内
阿沼美神社に建立されたものを元禄年間
(一六八八~一七〇三)に、この地に移した
と伝えられるが、建立年については、慶長一〇
(一六〇五)年に初代松山城主加藤嘉明が
建立したものという説もある。
建築様式は、 単層、入母屋造、本瓦葺、柱は
円柱で、一部唐様をを取り入れた和様建築である。
入口の虹梁やその他の部分に後代の補修や
改築の跡があるが、虹梁の構造や蟇股などの
彫刻に創建当初の技法を残し、全体に雄大
で豪華な桃山建築の面影を伝えている。
松 山 市
松山教育委員会
国津比古命神社主神 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)
相殿 宇麻志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊(応神天皇)
国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。
昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。
その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。
大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、
この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、
なおかつ、自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、
櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。
後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、
国津比古命神社と元の社名になりました。
頭日(カグヒ)八幡宮と呼ばれた時期もありましたが、
享保年間(一七一六~一七三六)に、元の社名にもどりました。
物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇敬厚く、
戦火により焼失した社殿が再建されました。
享保元年(一七四一)松山藩主の松平定喬は毎年代官を
参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、
その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年( 1909)、
社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和六年( 1931)に
境内拡張・斎館の整備などが行われました。
そうです
狛犬さんの台座には
天保九戌年(1838)
八月吉日
年号は 戌は読み取れたのですが
後は読めなかったのです
しかし 天保年間で戌年は 九年だけのようなので
天保九年としました
今治石工 中谷元右ヱ門
楼門はお宮さんでは隋神門と言い
門を守る神様がいらっしゃいます
矢大臣・左大臣とも呼ばれる事があるようですが
片方の神様は弓を持ち腰に刀を佩いた姿を
よく見かけますが このお宮さんでは
どちらも笏を持っております
正面からでは分かりませんが
横から見ると 厚みが無くペタンコなのです
月曜日, 7月 09, 2012
狛犬さん 1198
2012.06.01 愛媛県松山市北条 櫛玉比賣命神社
境内の説明板に依りますと
相殿 御炊屋姫命
国津比古命神社の主神である
クシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)を
おまつりしているのが櫛玉比賣命神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容する言葉です。
その方の比売神ですから、「櫛玉の比売の命の神社」です。
風早の先人が国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、
のちに、物部阿佐利命がこの国魂も敬い、
合わせて祖神であるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、
現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社伝によると、寛永年間(一六一一~一六二九)に
前方後円墳のそばに遷されました。このことから考えると、
動座祭からの一連の神事は最大限ここまでさかのぼることが
できます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神」ともいわれました。
これは当社が国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと
考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのも
このためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと
「宵の明星」があります。
明治四二年、社格が郷社になり、現在の社殿は
昭和六二年(1987)に新築されました。
両社とも風早の大氏神として多くの老若男女に
厚く崇敬されています。特に、秋祭りに行われる「風早の火事祭」での
動座祭から神輿落としにいたる一連の神事・行事には
両社の特性がよくあらわれています。
だそうです
境内の石碑には 延喜式内社と書かれています
狛犬さんは新しいもので 台座には
一九九〇年
平成二年十月建立
と刻まれていました
境内の説明板に依りますと
櫛玉比賣命神社のいわれ主神 天道日御名命
相殿 御炊屋姫命
国津比古命神社の主神である
クシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)を
おまつりしているのが櫛玉比賣命神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容する言葉です。
その方の比売神ですから、「櫛玉の比売の命の神社」です。
風早の先人が国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、
のちに、物部阿佐利命がこの国魂も敬い、
合わせて祖神であるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、
現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社伝によると、寛永年間(一六一一~一六二九)に
前方後円墳のそばに遷されました。このことから考えると、
動座祭からの一連の神事は最大限ここまでさかのぼることが
できます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神」ともいわれました。
これは当社が国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと
考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのも
このためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと
「宵の明星」があります。
明治四二年、社格が郷社になり、現在の社殿は
昭和六二年(1987)に新築されました。
両社とも風早の大氏神として多くの老若男女に
厚く崇敬されています。特に、秋祭りに行われる「風早の火事祭」での
動座祭から神輿落としにいたる一連の神事・行事には
両社の特性がよくあらわれています。
だそうです
境内の石碑には 延喜式内社と書かれています
狛犬さんは新しいもので 台座には
一九九〇年
平成二年十月建立
と刻まれていました
月曜日, 4月 16, 2012
狛犬さん 1169
2012.03.14 愛媛県松山市饒(にょう) 天満神社
御祭神は 菅原道真公
由緒
旧村社 饒字本郷鎮座
菅原道真 伊弉諾尊 伊弉冉尊
須佐之男命 応神天皇 市杵島姫命を祭る
創建は不詳であるが 平安末期の勧請と
伝えられる
天正13(1585)歳7月小早川氏の侵入にあい
荒廃していたのを同年の末に
柳原左馬之丞が 饒村を預かった際
再興したと伝えられる
江戸時代喜田・豊田ら有志によって
社殿の改築を行った
昭和18年(1943)1月火災の為全焼した
翌19年戦時中の物資不足にもかかわらず
喜田治、得能嘉一郎、中富重昌らをはじめ
氏子一同の協力によって 再建されたのが
現在の社殿である
そうです
狛犬さんの台座には
明治丗五年(1902)
九月吉日
と刻まれていました
御祭神は 菅原道真公
由緒
旧村社 饒字本郷鎮座
菅原道真 伊弉諾尊 伊弉冉尊
須佐之男命 応神天皇 市杵島姫命を祭る
創建は不詳であるが 平安末期の勧請と
伝えられる
天正13(1585)歳7月小早川氏の侵入にあい
荒廃していたのを同年の末に
柳原左馬之丞が 饒村を預かった際
再興したと伝えられる
江戸時代喜田・豊田ら有志によって
社殿の改築を行った
昭和18年(1943)1月火災の為全焼した
翌19年戦時中の物資不足にもかかわらず
喜田治、得能嘉一郎、中富重昌らをはじめ
氏子一同の協力によって 再建されたのが
現在の社殿である
そうです
狛犬さんの台座には
明治丗五年(1902)
九月吉日
と刻まれていました
土曜日, 4月 14, 2012
木曜日, 4月 12, 2012
狛犬さん 1167
2012.03.14 愛媛県松山市中島大浦 忽那八幡宮
主祭神 稲田姫命 他四神
稲田姫命は奇稲田姫命とか櫛稲田姫命と
書かれることのある素盞鳴命の妻で
稲田の神様だそうです
八幡宮の名前からすると
応神天皇(誉田別命)も 祭祀されているのでしょうか
鳥居をくぐった所にいた狛犬さんたちです
台座には 明治丗九年
八月中旬
石工 当村
高??吉 と刻まれていました
このお宮さんの社叢は 暖地植物と山地植物が
約300種繁茂し 原始の林相を示しているそうです
この樟の前に
「楠の木千年
1087(慶徳四年丁卯の春)
鎮守の守り」
と書かれた説明板がありました
樟のサイズがわかるかと思い 自転車を前に置いてみたのですが
少しは大きさがわかりますでしょうか
主祭神 稲田姫命 他四神
稲田姫命は奇稲田姫命とか櫛稲田姫命と
書かれることのある素盞鳴命の妻で
稲田の神様だそうです
八幡宮の名前からすると
応神天皇(誉田別命)も 祭祀されているのでしょうか
遠く上代の昔 吾が祖族 万里浪を踏みて海を渡り この忽那の島に至り住みて 相慕ひ その妣の神 稲田姫命を祀り 常世の郷と定め給ひき 茲に藤原の長者 奈良平安の御代に及び 八幡大神の神託を畏み この島を開拓き 氏神と斎き祀りて 明光霊徳七島に亘り 祖孫相励みて 至誠南朝に薫り 色変えぬ巨松 連なりて栄光を語る 夫れ 天に神あり 地に霊あり 神霊鎮まりて 祖霊相寄るの聖地 千古斧入らしめぬ杜茂り 子孫永く相享けて 願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき美し島と栄えて 恩頼ここに神にと共にありぬだそうですが 結局由緒はよくわかりません
鳥居をくぐった所にいた狛犬さんたちです
台座には 明治丗九年
八月中旬
石工 当村
高??吉 と刻まれていました
このお宮さんの社叢は 暖地植物と山地植物が
約300種繁茂し 原始の林相を示しているそうです
この樟の前に
「楠の木千年
1087(慶徳四年丁卯の春)
鎮守の守り」
と書かれた説明板がありました
樟のサイズがわかるかと思い 自転車を前に置いてみたのですが
少しは大きさがわかりますでしょうか
火曜日, 4月 10, 2012
日曜日, 4月 08, 2012
狛犬さん 1165
2012.03.14 愛媛県松山市中島粟井 桑名神社
由緒を調べて見ますと
鳥居の前にいた狛犬さん達です
狛犬さんの台座には 嘉永三年(1850)庚戌
八月 吉日建之
と刻まれていました
由緒を調べて見ますと
桑名神社は旧村社で 粟井馬頭山鎮座 市杵島姫命 保食神を祀り 大祭は10月17日である 境内に末社鷺の社がある 社伝によると 歌崎の網浦 古くから祀られていた来名戸神(交通神)のところへ 延暦23年(804年)厳島宮から市杵島姫命を 勧請したのが始まりとされている 社殿は 南北朝時代や天正13年(1585年)の兵乱など 幾度も焼失したとみえ 寿永2年(1183年)元禄12年 (1699年)文政4年(1821年)などの再建・改築時の 棟札が残されている 本殿は 慶応元年(1865年)8月 庄屋・粟原幸右衛門が 大願主となり 氏子全員が協力して再建したものである 総ケヤキ造りの彫刻は 喜多郡新谷(現大洲市)の亀太郎という 彫刻師と 大浦村大工の長七の合作であるが 彫刻師亀太郎とは 武智亀太郎 南梅本町にある松山市指定「日吉神社本殿」の 建築にも携わっている その総籠彫りは神社彫刻としては 愛媛県下随一のものといわれているだそうです
鳥居の前にいた狛犬さん達です
狛犬さんの台座には 嘉永三年(1850)庚戌
八月 吉日建之
と刻まれていました
土曜日, 3月 31, 2012
木曜日, 3月 29, 2012
狛犬さん 1163
2012.03.14 愛媛県松山市神浦 瀧神社
御祭神は 表筒男命 中筒男命 底筒男命
だそうです
玉垣の前にいた狛犬さん達です
詳細については不明です
御祭神は 表筒男命 中筒男命 底筒男命
旧村社 神浦字コオノハラ鎮座
素盞鳴尊・和多津見神・大山津見神
表筒男命・中筒男命・底筒男命を祀る
平安初期 忽那島が牛馬放牧地となった時
牛頭天王を守護神としたのが創始と伝えられている
忽那島開発記によると 寿永2(1183)年
藤原兼平が虎が滝に社殿を造営して
牛頭大明神宮と称したとある。
海上交通の要路にあたり 昔は潮流待ちででは停泊の船が多く
瀬戸内海に雄飛した忽那義範も
この地を本拠地としていたと伝えられる
海路を守る神としての筒男命三神住吉神として
古くから合祀されていた。
元禄12(1699)年9月杉田外有志によって再建され
瀧神宮と改称した
その後 文政6(1823)と天保13(1842)年に社殿を改築
明治4年瀧神社と改号した
だそうです
玉垣の前にいた狛犬さん達です
詳細については不明です
火曜日, 3月 27, 2012
狛犬さん 1162
2012.03.14 愛媛県松山市宮野 天満神社
狛犬さんの台座には
慶応元年(1865)
九月吉日
石工
藝?
廣邑
庄左エ門
と刻まれていました
旧村社、宮野ヨシヒロタ鎮座 菅原道真・須佐之男尊を祀る 創建は不詳であるが 元は須佐之男尊を祀っていたところへ 菅原道真公が築紫へ左遷される際 途中風浪のため 宮野に停船し 西山の丘で休憩されたことなどから 太宰府から分霊 合祀して天満宮と称した 建久3(1192)年9月社殿を造営し その後数度の改築もあったが 一時荒廃した 長師村より分離独立の後 杉野外有志の手によって再興された 明治4年天満神社と改称 昭和38年幣殿の再建と神殿修築をし 同年10月盛大な落成報告祭を行ったそうです
狛犬さんの台座には
慶応元年(1865)
九月吉日
石工
藝?
廣邑
庄左エ門
と刻まれていました
土曜日, 10月 15, 2011
狛犬さん 1128
2011.09.22 愛媛県松山市北斉院町 福水神社
境内の説明板によりますと
見つかりませんでした
狛犬さんの台座に 平成三年(1991)十一月吉日
と刻んでありました
境内の説明板によりますと
福水神社の由緒だそうですが 境内を探しましたが奥の院への道は
御祭神 高皇産靈神(タカミムスビノカミ)神皇産靈神(カムミムスビノカミ)
生皇産靈神(イクミムスビノカミ)
魂?(凶の下に田)皇産靈神(タマミムスビノカミ)
足皇産靈神(タルミムスビノカミ)
このお社は、昔神功皇后さまも三韓(今の朝鮮半島の
中にあった三っの国)を征し給ひてお引上げの後
應神天皇さまをお産みあそばされて御東上のせつ
此の地に船を寄せられまして湯水を奉る。
里人福水神社と申し上げる様になりました。
その後越前守為時郷の女一子なきを心配なさり
神様にお祈りして一子を得んと立願しましたら
伊予の福水の神に祈るべしと夢をみられて
そのことの如くにしましたら則(タチマチ)に懐妊ありまして
立産の森(今の奥の院)の土をとりて産屋にしき給ふれば
月満ちてより安く女子を出産されました。
成長するに従ひ知識萬人に超え東門院の女房紫式部
その人であった。以来安産守護の神として崇敬厚く
これによって御産所の地名がうまれたのです。
立産の森の旧跡に五柱の神の鎮座地というところに
五つの大石がのります。河野家代々懐妊あれば
必ず奉幣あったということです。
立産森の旧跡(奥の院)は当社の東え五〇〇米坂を上って
小高いところにあり眺めのよいところです。
見つかりませんでした
狛犬さんの台座に 平成三年(1991)十一月吉日
と刻んでありました
金曜日, 5月 06, 2011
木曜日, 5月 05, 2011
水曜日, 5月 04, 2011
狛犬さん 1067
2011.03.04 愛媛県松山市善応寺 荒魂神社
主祭神は 天照大神
この狛犬さんたちは 鳥居をくぐった所にいました
狛犬さんの台座には
天保九戊戌(1838)
八月吉祥日
今治
石工
大村忠右ヱ門
と刻まれていました
このお宮さんには 愛媛県では珍しい
地神塔がありました
主祭神は 天照大神
由緒 創立年代は未詳そうです
往古より鎮座し 部落の産土神として崇敬が篤い
明治9年3月村社に列格した
明治43年5月4日県社高縄神社に合祀
その後 氏子の熱望により昭和21年9月29日
高縄神社より分祀創立
昭和24年本殿・拝殿を改築された。
この狛犬さんたちは 鳥居をくぐった所にいました
狛犬さんの台座には
天保九戊戌(1838)
八月吉祥日
今治
石工
大村忠右ヱ門
と刻まれていました
このお宮さんには 愛媛県では珍しい
地神塔がありました
日曜日, 5月 01, 2011
狛犬さん 1066
2011.03.04 愛媛県松山市宮内 高縄神社
境内の説明板によりますと
又別の説明板によりますと
参道に居た狛犬さんです
狛犬さんの台座には
天保九(1838)戊戌
八月吉祥日
今治 石工
大村忠右ヱ門
と刻まれていました
境内の稲荷社に居た狐さんたちです
台座に 弘化三午年(1846)
十二月吉日
と刻まれていました
境内の説明板によりますと
高縄神社だそうです
昔、越智高縄が高縄山の頂上に城をつくり
大山積神をとても大切にしていました
越智益躬が高縄天神森に 神仏の分霊を
移して祭り、社殿造営しました
1136年(保延二年)河野親清が現在地に移して
高縄三島神社と名前を付けました
1870年(明治三年)に高縄神社としました
神は、大山積神と高龗神と鳴雷神がいます
平成18年3月
河野小学校卒業生有志一同建之
又別の説明板によりますと
国史現在社 高縄神社 御由緒だそうです
ご祭神
大山積神 大山積神を三島大明神と申し上げ、
社伝に太古天地開闢の時に成りませる
天神国之常立命、神徳二義に化して
面足神惶根神と生じ給ひ、高縄山に天降り
大三島に垂跡して三島大明神と現じ給へりと
あります。神代史によれば、天孫爾爾藝命
(皇室の祖)の外戚の父神とあり又、
須佐能男命(出雲の神々の祖)にとっても
外戚の祖父神であるとされ最も古い系譜に
属する高貴の神様です。
高龗神
鳴雷神
高縄山は古来神霊天降る峯として山麓はもと
より広く齋灘一帯の海上から仰がれた神山であ
り、かって三島大明神を奉じ瀬戸内水軍を率ゐ
て天下に雄飛した小千(越智)河野一族は、当
地風早郡河野郷に発祥しました。
社伝によれば、河野氏の遠祖小千命九世の孫
小千躬尺は別名を小千高縄とも称し三島大明神
の神託により高縄山に居城したといはれ、後六
世を経て第十五代小千益躬は推古天皇七年(西
紀五九九年)山頂天神ヶ森に祭壇を新設、三島
大明神を主座に天神地祇を奉斎して高縄の神と
尊称しました。すなわち当神社の創建であり
ます。
「類聚国史」には当神社を推古天皇勅願社の一に
数えており「三代実録貞観五年の項には神階授
与のことが見え、当時より御神威赫然たりしこ
とが偲ばれます。
越智氏第二十七代の家督を継いで高縄城主とな
った河野親清は天神ヶ森の高縄神を奉遷すべく
御神意を伺ひ、当地を卜定して
保延二年(西紀一一三六年)三月二十三日鎮祀。
河野新宮とも河野三島宮とも尊称し、
社殿に大三島の大山祇神社に擬して壮大な
結構を営み、祭務を北条小太夫正岡経孝に
命じ、神官祝部社僧衛待等数十人を擁した
といわれます。
爾来、当神社は河野氏の産土神として格別に
崇敬され親清の子通清から末孫通直まで神
領安堵神田寄進累代に亘り御社領は荘厳を
きはめたものであります。
戦国時代河野氏は滅亡して当神社の神領
神田ことごとく没収され、さらに慶長五年
(西紀一六〇〇年)九月二十日夜兵火に罹っ
て社殿神宝古文書等すべて焼失しました。
徳川時代半ばになって当神社はようやく
復興の緒につき文化三年御社号を復古して高縄
神社と改め、同四年河野一郷の鎮守として
郷社に列格同二十八年には県社に昇格しま
した。現在は神社本庁傘下の宗教法人と
して深縁深き河野地区の氏子によって護持
されています。
平成十七年十一月吉日
参道に居た狛犬さんです
狛犬さんの台座には
天保九(1838)戊戌
八月吉祥日
今治 石工
大村忠右ヱ門
と刻まれていました
境内の稲荷社に居た狐さんたちです
台座に 弘化三午年(1846)
十二月吉日
と刻まれていました
土曜日, 4月 30, 2011
土曜日, 2月 05, 2011
狛犬さん 1029
2011.01.21 愛媛県松山市北条辻 鹿島神社
神功皇后が三韓征伐の時 この鹿島に立ち寄り
武甕槌神・経津主神を祀り 戦勝祈願・航海安全を
祈願したとの伝承があるそうです
又 京都の祇園祭の船鉾に 鹿島大明神を祀るのは
この伝説によるものだそうです
他にも「要石」の伝説があります
狛犬さんの台座には
文政八年(1825)乙酉九月吉日
海辺に在る狛犬さんですが
余り磨滅していず 二百年近くたっているとは
思えないほど 奇麗な狛犬さんです
石工さんの名前も刻まれていましたが
読み取れませんでした
神功皇后が三韓征伐の時 この鹿島に立ち寄り
武甕槌神・経津主神を祀り 戦勝祈願・航海安全を
祈願したとの伝承があるそうです
又 京都の祇園祭の船鉾に 鹿島大明神を祀るのは
この伝説によるものだそうです
他にも「要石」の伝説があります
この地方では、昔から地底に大鯰がいて、
常には静まっているが 目覚めてあばれだすと
地震になって大地が振動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が
「要石」で押さえているので、この風早地方には
地震が少ないと言い伝えられてきた。
かたわらの石に次の歌が刻まれている。
ゆるぐとも
よもやぬけじな要石
鹿島の神のおわすかぎりは
狛犬さんの台座には
文政八年(1825)乙酉九月吉日
海辺に在る狛犬さんですが
余り磨滅していず 二百年近くたっているとは
思えないほど 奇麗な狛犬さんです
石工さんの名前も刻まれていましたが
読み取れませんでした
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