御祭神は 事代主神
御由緒
御祭神事代主命は往昔より垣見地区の
産土神天神社に祀られていたが
明治初年能登川駅開設に伴い
駅前町を形成するに及び駅前一帯(現在の本町区)の
氏神として勧請したものである
境内に 恵比須様の石像がありました
しかし 「産土神天神社」と言う一文から行くと
御祭神は 菅原道真公も祀られているのではないかと
思いますが 調べた限りでは 事代主命だけでした
狛犬さんの詳細は不明です
近江七福神霊場
市神神社
主祭神 事代主命
配祀神 大国主命・猿田彦大神・額田王
境内社 金刀比羅神社・鎮宅神社
由緒
「市神ノ本紀」によれば、
推古天皇元年、聖徳太子四天王寺を
造営し給ふ時、同郡白鹿山の東の麓に
おいて幾千万の瓦を造らせ難波津に
運ばせはまふ。然るに太子かの山に
渡らせられ新に瓦屋寺を営し、且つ
捊川の北に民家数百個を置き、
事代主命の神像を刻し一祀壇に納め、
同九年始めて市店を開き、士農工商の
別なく交易する事を教へ給ふ「其の後
正暦の頃、阿倍清明白鹿山に詣で
この神像を拝し、太子の遺志を継ぎ
市店鎮護の祈りを奉り」云々とあり
境内にりっぱな聖徳太子像がある。
また万葉集最高の女流歌人、額田王
立像を、おまつりするのでその
銘碑がある。
さらに、昭和六十年四月二十九日には、
万葉と風土の研究の第一人者、
大阪大学名誉教授、犬養孝博士の
筆になる額田王の歌碑が建った。
君待つと わが恋ひをれば わが屋外(やど)の
すだれ動かし 秋の風吹く
(巻四-四八八)
皇美麻神社そうです
主祭神 瓊々杵尊
境内社 善女龍王神社 津島神社
由緒
聖徳太子がこの地に市場を開かれた
ときに既に鎮座されていたといわれる。
古来北野々宮と称し、この地方の大社
であった。江戸時代には十八大明神と
称したようで、宝暦の堂社帳の八日市
村の条に「御代領入組地の内、氏神十
八大明神、社一軒、拝殿一軒」とあり。
神埼郡神名帳にも「十八大明神、祭一
皇孫命二」とある。皇孫命とは天彦瓊々
杵尊を申したので、創祠以来千余年の
歳月と幾多の兵乱を経て古文書、宝物
等を焼失し或は紛失している。
堂社帳にあるようにこの地は彦根領と
旗本三渕氏、奥山氏の所領と三分され
ていたが、同二氏より例祭に米一斗ず
つ奉納があり、明治維新まで続けられ
た。
松尾神社庭園そうです
桃山時代初期の作庭で寺院又は武家屋敷の
書院に面した庭園遺構である。
山際に多数の石組を建てた豪放なものは
蓬莱石組、中央部一群の石組は須弥山や
鶴亀島の形態を整え、武家好みの力強さが
感じられる。
松尾神社蔵の嘉吉四(一四四四)年の
古文書によると、この地に瓦屋寺別院
延命山尊勝寺という東大寺所属の寺があり、
松尾神社はその鎮守であったと考えられる。
永禄九(一五六六)年奈良興福寺一剰院に
隠れていた足利義昭が近江の佐々木義賢を
頼ったことがあり、将軍を迎えるために
この庭を造ったのではないかとも言われている。
これは越前の朝倉義景が自分の居城である
一乗谷に足利義昭を迎えた際に造った庭園と
時期、様式的に似ていることからの類推と
思われる。
昭和四六年五月二〇日に八日市市の
文化財に指定された。
松尾神社由緒そうです
主祭神は大山咋神で他に市杵嶋姫命と
猿田彦命を併祠している。
松尾大明神由緒記によると、
仁寿二年(八五二年)建御雷神一柱を
祀るとあるが、宝暦五年(一七七五年)
山城の国・松尾大社より大山咋神の
御分霊を奉迎して、現在の松尾神社が
出来上がったと伝えられている。その昔は
延命山にあった尊勝寺守護の社として
日吉神社に属していたといわれる。
本殿は二,五間の流れ造りで
文政八年(一八二五年)再建、また
拝殿は文政十三年(一八三〇年)に
上棟されたものである。摂社として金刀比羅宮、
併祠社として玉水稲荷神社・末永稲荷神社・
豊永稲荷(小稲荷)を祀っている。
古くから松尾さんと呼ばれ、浜野の氏神さま
として親しまれている。特に春の例大祭での
大神輿・小神輿・子供神輿を伴った渡御は
他町に類をみない立派なもので、毎年四月
第二日曜日に奉斎されている。
八日市市指定文化財 木造狛犬だそうですが 木造狛犬さんの製作年代が書かれていません
平成四年二月二十六日指定
野々宮神社所有
阿形の狛犬は、鬣を体部に沿って垂らし、
耳を立てます。瞋目(目をいからせ)、
開口して上下の歯牙及び舌をあらわし、
顎下に丸い鈴状のものをつけます。正面を向き、
両前足をそろえて洲浜座上に蹲踞します。
像高は四四、九センチメートルです。
吽形の狛犬は、口を閉じて上歯牙のみを
あらわすほかは阿形と同じです。
像高四三,九センチメートルです。なお、
頭上に角はありません。
阿・吽両像各々檜材で、寄木作、玉眼(欠失)、
彩色像です。ともに頭・胸部から前足・腹部を含めた
前面材に、後頭部から胴以下の背面板を
竪に矧いだ前後二材とし、内刳りをします。
面部は、阿形は上顎まで、吽形は下顎まで含めて
割り放ち、内刳りにして玉眼を嵌入します。
後ろ足の先と尾は各々別矧ぎです。彩色は、当初のものは
剥落し、わずかに阿形腹部に白土下地を残します。
後補の彩色は胡粉下地に彩色を施しますが、
これもほとんど剥落しています。台座は洲浜座で檜製です。
八日市市教育委員会
野々宮神社由緒書だそうです
野々宮神社が創建されたのは
延暦二年(西暦七八三年)で今年は
千二百年にあたります。御祭神は
天津彦瓊々杵大神。大國主大神。
少彦名大神で。そのほか十一柱の神々を
お祀りしています。往時この地方は
野々子荘と呼ばれ當野々宮神社は
金屋村、中野村、蛇溝村、古保志村(市辺)、
今堀村、今在家村(今崎)、上大森村、
下大森村、二俣村、尻無村、芝原村、
瓜生津村、土器村の十三カ所の惣社として
この地方の信仰の中心でありました。
私達の祖先が敬神崇祖を旨として神社にご奉仕し
御神徳を戴いてこられた事を偲び、
更に、御神恩を子々孫々に至るまで
垂れ賜わらん事を祈願し、本日厳かに
記念祭典を斎行仕りました。仍ってここに
神社のご隆昌と氏子の弥栄を祈念して
本碑を建立いたします。
昭和五十八年(1983)十一月三日
御由緒だそうです
延暦二年(783)、野野子庄十三か村の惣社として、
坂本日吉神社第六殿所祭の祭神三柱
及び聖徳太子御自彫の子安延命地蔵尊を併祠した。
当時蓮花寺、光林坊、正覚坊、団子坊、淨荘庵の
五別当があったが、弘化元年(1844)の兵火によって
焼失した。明治までは十禅寺大権現とも称した。
天明四年(1784)の文書には本社十禅師とあり、
末社として現在の境内社が記され九尺四方の
釣鐘堂、地蔵(蓮花庵)があったとある。
明治元年(1868)野々宮神社と改称した。
明治九年村社に列し、明治四十二年(1909)
神饌幣帛料供進指定となる。
中野神社 由緒略掲だそうです
祭神 大山咋命 事代主命 白山比賣命
當社は延暦十八年(七九九年)己卯年
志賀郡坂木村大比叡神社より奉遷し
山王十禅師と稱へ村民の崇敬極めて厚く
中野村地主神として尊信す
徳川時代領主松平陸奥守崇敬ことに
厚く金穀を奉献して祭祀の意を
よせられたることは社傳の記す所なり
永禄十一年(一五六八)織田信長
佐々木氏に代りて近江に政令を布くや
保内郷は其の臣柴田勝家に與へ
領せしむ勝家亦當社を崇敬して
社領を寄進せらるる等武門武将の尊敬
極めて厚く萬治三年(一六六〇)社寺
再建成りさらに天明八年(一七八八年)
建立せらる之現在の社殿なり
明治四十二年(1909)十月十三日
神饌幣帛供進神社に指定せらる(
御由緒は社伝によると、桓武天皇のだそうです
延暦十八年に僧最澄が、赤神山成願寺五十余坊を
創立する。寺坊の一つに十輪山南福寺を創立する。
守護神として大比叡神社を祀った。
明和年間(1764~1771)は、
二宮十禅師と称し、天明年間(1781~
1788)には、十禅師大権現と称し、
山王十禅師として、尊崇されていた。
永禄十一年(1568)織田信長が、
佐々木に代り政令を布き、柴田勝家の
領地となったが、社領として免租にした。
徳川時代領主松平陸奥守の崇敬厚く、
毎年玄米二斗四升を献じた。
明治初年(1868)中野神社に改称した。
明治九年(1876)村社に列し、
同四十二年(1909)神饌幣帛料
供進指定となる。
竹田神社由緒略記だそうです
御祭神
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
天照大神の御子にあらせられ、
国土を開拓し、農具を造り、農業を教え給ひし
神にましまして、蒲生稲置の祖神と崇め奉る。
天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
天津彦根命の御子にあらせられ、
草薙の御剣を鍛造し給ひし神にましまして、
日本鍛冶の祖神と崇め奉る。
石凝姥命(いしこりどめのみこと)
神鏡、八咫鏡を鋳造し給ひし神にましまして、
鋳物師の祖神と崇め奉る。
大己貴命(おおなむちのみこと)
(御子、事代主命)
世に大黒、恵毘須と並び称えて、
福の神と仰ぐ神にましまして、
国土開発、産業振興、諸病を治め給ひ、
又縁結びの神として崇めまつる。
大屋彦命(おおやひこのみこと)
樹種を分播し、植樹し給ひし神にましまして、
木材を扱ひ、家宅を建つる工匠等の
崇め奉る神にまします。
由緒
当社は、人皇第十代崇神天皇の七年(皇、五七〇
西前、九一)水穂真若王が勅を奉じて
御創建遊ばされた二千年の古社にして、
延喜式内の菅田神社は当社である。
成務天皇五年十月(皇、七九五 西、一三五)
蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及
伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、
南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三麿は
蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、その徳
近江に洽く、欽明天皇六年(皇、一二〇五
西、五四五)綿向神社の祠宇を造営し、
推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。生前の
徳を仰ぎて祖神の座に配祠す。
天智天皇七年五月(皇、一三二六 西、
六六六)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、
幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし
剣一口、並に伝来の鉾一本を献上せり。又
藤原鎌足公の命により朝日山より日蔭蔓を採り
朝廷に献ず。これより御即位の大甞会ある毎に
献納するを例となす。
桓武天皇の延暦十六年(皇、一四五七 西、
七九七)坂上田村麿、当社に武運長久を祈り
本殿を再建す。
寛仁二年三月(皇、一六七七 西、一〇一七)
後一条天皇、当社社殿を今の地に造営し、御遷宮の
典を挙げさせられ、勅使藤原季忠を遣はし幣帛を
奉り給ふ。
後冷泉天皇の天喜四年(皇、一七一六 西、
一〇五六)大神主頼俊、野部勘六に鋳物師統領職の
綸旨を給ひ、大日本鍛冶鋳物師の統領となる。
元歴元年(皇、一八四四 西、一一八四)
源頼朝当社に使者を遣はし武運を祈る。
後鳥羽上皇、当社に御参籠遊ばされ、野部、増倉と
共に刀を打たせ給ひ、
今もなほわざならひて剣太刀
打つべき人の祈る神垣
と御製を献じ給ふ。
康永三甲申(皇、二〇〇四 西、一三四四)
足利尊氏石灯籠を寄進す。
文亀三年(皇、二一六三 西、一五〇三)兵燹に罹り、
拝殿、回廊、宝庫炎上したるにより、蒲生貞秀(智閑)
再建す。又不思議の神助ありとて神田を寄進す。爾来
蒲生家代々の崇敬厚く、天文十年(皇、二二〇二
西、一五四二)蒲生下野守賢秀本殿を再建し、天正二年
(皇、二二三四 西、一五七四)蒲生氏郷、神領
百五十石並、狛犬一対を寄進す。
天正年間、豊臣秀吉当社に参拝し、神能を奉献す。
現在当社に伝ふる「菅田」の能これなり。
慶長六年二月(皇、二二六一 西、一六〇一)
豊前小倉の藩士伴治左衛門当社に参拝し祭資料を
寄進し古式の祭事を復興す。
後水尾天皇宝永二年(皇、二二八五 西、一六二五)
二月二十八日正一位の宣旨あり。
領主市橋家より氏神として崇敬殊の外厚く、毎年一月、
四月に領主の参拝あり、月々には家臣をして代参せしめ
祭資料を奉れり。
当社の古文書の多くは文亀三年の兵燹により
湮滅したるも、古来皇室、並武将の信仰厚きのみならず、
広く世人の信仰をあつめ、鍛冶、鋳物師等金属製品を
扱ふ人達の祖神として、又農耕をなす者の祖神として
崇敬するの外、古くより開運繁栄、諸災難除け、方除け、
火防、縁結び安産の守護神として信仰する者多く、
御神徳いやちこにして、霊験を顕はし給ふこと、あたかも
響の音に応ふるが如く、いとも尊き神にてましますなり。