2012.01.17 高知県高知市山ノ端 若一王子宮
参道を進むと 大きな灯篭があります
その灯篭の上に乗っていた狛犬さん達です
阿形の台座に 昭和七年(1932)六月吉日
吽形の台座には 平成十一年(1999)十二月吉日
と刻まれていました
かなり大きな灯篭です
日曜日, 3月 11, 2012
金曜日, 3月 09, 2012
水曜日, 3月 07, 2012
日曜日, 3月 04, 2012
火曜日, 2月 21, 2012
月曜日, 2月 20, 2012
狛犬さん 1148
2012.01.16 高知市東久万 松熊神社
境内の説明版に
狛犬さんの台座には 昭和亦年
十二月吉日と刻まれていました
「亦年」がわかりませんが 読み間違いでしょうか
境内の説明版に
日本一社 松熊神社略記だそうです
松熊神社は大高坂松熊大神を鎮祭する
日本唯一の神社で御祭神は鎌倉時代から
土佐中部に割拠し代々大高坂城主であった
大高坂氏累代の最後の城主であり
戦国末期苦難の御生涯に庶民の安堵を念じつつ
神界に昇られたご神霊であります
御鎮座地は御祭神の御墓所で西久万鐘突堂と
称せられております。
御祭神御昇神の後此の地に鎮めました処
霊威忽ち現れ普く諸人の病災苦難癇気を
除かむとの神慮を畏み松熊大明神と尊崇し
社殿を造営して祭祀を営み御城奥より
毎度祈願の事有と明細帳にも記されております
昭和二十一年には高知市役所構内に鎮座の
大高坂神社(御祭神の祖)を合祭致しました
古来小児のかんき夜泣を伏せ息災生育の守護神として
又諸病諸災除の神徳著しい神社であります
狛犬さんの台座には 昭和亦年
十二月吉日と刻まれていました
「亦年」がわかりませんが 読み間違いでしょうか
月曜日, 1月 30, 2012
土曜日, 1月 28, 2012
木曜日, 1月 26, 2012
狛犬さん 1145
2012.01.16 高知県高知市愛宕山 愛宕神社
入り口にある説明版に依りますと
狛犬さんの台座には 大正七年(1918)
八月吉日
と刻まれていました
足元に子犬がいるのを見逃すところでした
入り口にある説明版に依りますと
愛宕神社御祭神の由緒と御神徳だそうです
御本社に伊邪那美大神と火産霊神を御祭りし
境内に杉尾神社天熊社の二社奉斎して有ります
沿革史に依ると寛永六年(1629)山城国より
勧請し承応二年(1653)土佐国守
山内忠義尊崇厚く藩内の防火鎮護と諸災防除
祈願の為藩祭を行い毎年米二十九石八斗九升余を
献納し祭典料としていたが明治三年(1870)
之を改正し金二十貫を献じたそれ以後山内家は
神社と旧別當吉田家に対し米二十余石を下給し
神社の経営発展に盡力されたが明治6年(1873)
之を廃すとあり斯様に藩政時代に於ては山内家の
援助と藩祭と齋行された為参詣者数千名に及び
神社が隆々として栄えた事が想起されます
今尚城下街高知市は勿論安芸郡や土阿県境に
接する豊永又本山方面に多数の崇敬者があり
毎年御神札を拝受し洪大無辺の御神徳を拝戴して
います伊邪那美大神は伊邪那岐大神との神婚により
神生み国生みの大神業を遂げられた神様です
故に結婚安産子育の守護神で火産霊神は
伊邪那美大神の御子に當り日常生活に欠く事の
出来ない火の守護神で火災を防護し悪霊悪病を
除き家運隆昌家内安全子供の健全な成長をお守り
します境内社杉尾神社に大物主神(別名大国主神)を
御祀し参拝者に寿福を授け商業を初め家業の興隆
子孫繁栄の守護神で天熊社(天熊命)は諸病治癒し
健康を守り無病延命の守り神様です皆様この由緒あり
御神徳殊に灼な當神社に参詣し有難い御利益を
戴き諸々の災難から遁れ一家円満に健康に恵れ
明く希望に満ちた人生を築きましょう
狛犬さんの台座には 大正七年(1918)
八月吉日
と刻まれていました
足元に子犬がいるのを見逃すところでした
水曜日, 1月 18, 2012
月曜日, 1月 16, 2012
狛犬さん 1143
2011.10.04 広島県福山市木之庄町 八幡神社
境内の入り口にある説明版に依りますと
台座には 昭和九年(1934)
三月十五日
と刻まれていました
チンチンしている狛ちゃんと逆立ち狛ちゃん
可愛いですね
境内の入り口にある説明版に依りますと
八幡神社 御由緒本殿に上って行く階段の下にいた狛犬さん達です
御祭神 応神天皇 神功皇后
市杵嶋姫命 湍津姫命 田心姫命
沿革 当神社は、建長年間(西暦一二〇九-一二五六)
越中守武政(一説に越後守ともある)が
木之庄の海岸を干拓し、新?を造成したとき
その守護神として西村武政山に建立、
下之庄西村八幡宮と称されました。
その後毛利氏時代西村能宮に遷座、
ついで永禄年間(西暦一三五八-一五六九年)
東村荒神社を合祀の上今の地に所原肥後?が
木之庄八幡宮を造営、東西??の住民による
宮?が構成され村の鎮守として江戸時代村民の
信仰を集め明治以後は「八幡神社」となり
木之庄町の氏神として崇敬され
現在にいたってます
台座には 昭和九年(1934)
三月十五日
と刻まれていました
チンチンしている狛ちゃんと逆立ち狛ちゃん
可愛いですね
土曜日, 1月 14, 2012
木曜日, 1月 12, 2012
土曜日, 1月 07, 2012
狛犬さん 1140
2011.10.04 広島県福山市北吉津町 福山八幡宮内總敏神社
境内の石板によりますと
台座に 嘉永二年(1849)
己酉二月吉日
と刻まれていました
吽形の頭には 小さなふくらみがありました
境内の石板によりますと
總敏神社だそうです
御祭神 水野勝成
例祭日 四月二十五日
備後国初代領主、水野勝成公を
祀る神社である。
勝成公は、徳川家康の従兄弟で、
大坂夏の陣に初戦を飾り、その功
により三河国刈谷より大和郡山を
経て、西国鎮衛として元和六年(1620)
この福山十万石の領主として赴任し
た。城下町造成のため困難を克服
して、南に東に干拓造成し、芦田
川の水を城下町に飲料水として導
入した。又領国経済の流通拠点と
すべく、商人群を城の大手前に移
転せしめ、特産物の藺草、畳表の
商いを奨励する等、数多くの善政
を引く。慶安四年(1651)死去。
霊社は城内に祀られていたが、
享保五年(1720)この地に
移される。勝成公は總明、俊敏と
称えられ、当社が總敏神社と
呼ばれる所以である。(
台座に 嘉永二年(1849)
己酉二月吉日
と刻まれていました
吽形の頭には 小さなふくらみがありました
金曜日, 1月 06, 2012
木曜日, 1月 05, 2012
水曜日, 1月 04, 2012
火曜日, 1月 03, 2012
狛犬さん 1136
2011.10.04 広島県福山市北吉津町 福山八幡宮
鳥居をくぐった先の階段を上がると
随身門があります
随身門には お雛様の左右大臣のような
像がよく置かれています
この像は門を守る神様として
櫛石窓神(クシイワマド)豊石窓神(トヨイワマド)
と云う神様がいまが この神様なのでしょうか
随身門の正面(本殿に向いている方)に
狛犬さんがいました
木製だと思います
詳細は不明です
吽形の頭には 角と云うより
髪の毛の房が 一束角のように立ち上がっています
阿吽共に 目にはガラスのような素材が嵌められ
キラキラと光っています
鳥居をくぐった先の階段を上がると
随身門があります
随身門には お雛様の左右大臣のような
像がよく置かれています
この像は門を守る神様として
櫛石窓神(クシイワマド)豊石窓神(トヨイワマド)
と云う神様がいまが この神様なのでしょうか
随身門の正面(本殿に向いている方)に
狛犬さんがいました
木製だと思います
詳細は不明です
吽形の頭には 角と云うより
髪の毛の房が 一束角のように立ち上がっています
阿吽共に 目にはガラスのような素材が嵌められ
キラキラと光っています
月曜日, 1月 02, 2012
狛犬さん 1135
2011.10.04 広島県福山市北吉津町 福山八幡宮
御祭神は 応神天皇(誉田別尊)
神功皇后(息長帯比賣命)
比賣大神(宗像三女神 多紀理毘賣命 多岐都比賣命
市寸嶋比賣命)
御由緒は
私が入ったのは 西の入り口
入って左側には大きな駐車場があります
正面には 大きな赤い鳥居が見え
駐車場の向うに 東の鳥居が見えます
鳥居をくぐるとすぐに居た狛犬さんたちです
台座に 天保七年(1836)丙申
と刻まれていました
御祭神は 応神天皇(誉田別尊)
神功皇后(息長帯比賣命)
比賣大神(宗像三女神 多紀理毘賣命 多岐都比賣命
市寸嶋比賣命)
御由緒は
当地方を「穴の海」と呼ばれていた頃だそうです
後に福山城地となった深津島山に2つの八幡宮が奉祀されていました
その後天文年中(1532-55)に 杉原播磨守が新に社殿を造営
毛利輝元、福島正則等の為政者も尊崇の念厚く報賽されたと伝えられます
元和5年(1619)水野勝成公が備後国主として赴任されるや
新しい居城として福山城を築くこととなり 鎮座されていた
二つのお宮はそれぞれ野上口 延広小路へと遷されました
天和3年(1683)第4代城主水野勝慶公の時 今の松廼尾山に
2社を備後福山八幡宮とし本殿 拝殿 随身門 総門等
それぞれ東西に同一規模 同一形式にて並べ建てられ
殊に東御宮を延広(のぶひろ)八幡神社
西御宮を野上(のがみ)八幡神社と
奉称し祀られました。
昭和44年(1969)に至り両者の法人格を合併
社名も以前の福山八幡宮にもどし 神社本庁所属の別表神社として
新たに発足 以後広く備後福山の守護神として崇敬されおります
私が入ったのは 西の入り口
入って左側には大きな駐車場があります
正面には 大きな赤い鳥居が見え
駐車場の向うに 東の鳥居が見えます
鳥居をくぐるとすぐに居た狛犬さんたちです
台座に 天保七年(1836)丙申
と刻まれていました
木曜日, 11月 17, 2011
水曜日, 11月 16, 2011
火曜日, 11月 15, 2011
狛犬さん 1132
2011.10.04 広島県福山市北吉津町 艮神社
境内の説明板によりますと
鳥居(正徳六年製)のすぐ後ろに居ました
阿吽共に頭に小さな角様のものが付いていました
台座には 嘉永己酉 黄鐘上旬 片山義恭
最後の「片山義恭」は奉納者のお名前でしょうね
「嘉永己酉」は嘉永二年(1849)です
「黄鐘上旬」黄鐘は11月の異称だそうです
即ち 11月上旬の事ですね
しかし「黄鐘」は雅楽に使われる楽器の事で
「こうしょう」とか「おうしき」とか呼び方が
あるようです
境内の説明板によりますと
艮神社御由緒だそうです
御祭神 須佐之男命 伊邪那岐命
沿革 当神社は平安時代、福山が藤原家の
荘園として栄えていた当時(天永年間
西暦一一〇〇年頃)須佐之男命を祀る
「牛頭天王社」として今の木之庄に
建立されており、(牛頭とは須佐之男命の呼称)
建武元年(西暦一三三四年)今の地に
伊邪那岐命を併祠の上、遷座し当時の集落の
中心地吉津、木之庄、本庄、奈良津、千田
各郷一帯の産土神(秋津洲神社)と改称された
旧福山最古の神社であります。
降って、水野勝成公福山築城(元和五年
西暦一六一九年)に際しては城郭の鬼門・
艮の方位(東と北の間)を鎮める守護神
「秋津艮大明神」と称えられ天和三年
(西暦一六八三年)水野勝種公の諸社殿の
寄進を始め、度々造営修復がなされ、
御社頭益々殷盛を極め、明治以後は
現在の御社芽衣「艮神社」となり、北吉津
町を始め三十八カ町約五〇〇〇戸の氏神、
又広く福山地方一円の鬼門守護神、
厄除神として崇敬されております。
鳥居(正徳六年製)のすぐ後ろに居ました
阿吽共に頭に小さな角様のものが付いていました
台座には 嘉永己酉 黄鐘上旬 片山義恭
最後の「片山義恭」は奉納者のお名前でしょうね
「嘉永己酉」は嘉永二年(1849)です
「黄鐘上旬」黄鐘は11月の異称だそうです
即ち 11月上旬の事ですね
しかし「黄鐘」は雅楽に使われる楽器の事で
「こうしょう」とか「おうしき」とか呼び方が
あるようです
月曜日, 11月 14, 2011
狛犬さん 1131
2011.10.04 広島県福山市北北津町 渡邉神社
神社の前に 「御番所跡」の石碑があります
境内の説明板によりますと
隋神門の格子の中にいた狛犬さんたちです
陶器ですが 窯元は何処なのでしょう
詳細については不明です
神社の前に 「御番所跡」の石碑があります
境内の説明板によりますと
吉津御番所由来記だそうです
吉津御番所は、旧山陽道より横尾を経て
福山城下に入る重要な拠点であった。
福山城主阿部備中守正邦公、宝永七年(一七一〇)
役人を配して御番所を設置し、通行人の
監視体制を敷いた。
其の御番所役人を明治四年(1871)
廃藩置県発令迄勤めたのが渡邉家である。
其の渡邉家は、往古千百年前、嵯峨天皇の
皇子左大臣源融より五代目渡邉綱が
摂津の渡邉荘に居を構へたるに依り、
姓を渡邉と称し、これ即ち渡邉の祖なり。
渡邉綱は源頼光の四天王の一人で羅生門の
鬼退治に勇名を馳せ、歴史上に名を
残した人物である。
渡邉綱より十数代を経て、渡邉四郎兵衛持の
代に足利尊氏に従ひ九州の菊池家との戦に
大いに戦功あり、其の賞として備後国山田荘
(今の福山市熊野町)を賜り地頭職を授かり、
以後実に貳百七十年間に亘り、此の地に
居住した渡邉四郎兵衛持より六代目
渡邉越中守兼は、山田荘の黒木山上に
城を築き一乗山城と称し城主と成り、
近隣に威を揮い次第に勢力を強め
備後国に於ける屈指の豪族となった。
更に三代目渡邉民部少輔景の時に、関ヶ原の
合戦に石田三成の軍に赴き戦破れて一乗山城を
徳川方に明渡し、浪々の身となった處が、
元和五年(1619)に水野勝成公
福山城主と成り赴任さるるに及び、渡邉家の
没落を伝え聞き渡邉家はその昔より備後国の
名門の家なれば一族を召しだし、各々に
扶持を与へ水野家の家臣とした處が、
水野家は五代にして世継なく御家改易と
成りしが、宝永七年(1710)
阿部備中守正邦公福山城主に封ぜられ、
渡邉一族は阿部家に仕へる事と成り、
一族の内渡邉利八は道三町に屋敷を賜り、
阿部家の家臣と成り後、吉津町御番所の
役人を命ぜられ、以後代々の同役人を
明治四年廃藩置県迄勤めた時当主渡邉吉三郎は
御番所役職を返上し、一町民となり
製綿業を営み生活する事と成り、同長男傳七は
父の業を継ぎしが、明治四十二年(1909)
製綿業を廃し鉄鋼原料問屋に転業し、其の
長男渡邉泰輔は父の業を継ぎ、次第に
業績を高め、昭和三十三年(1958)に
本店を大阪に移し支店を東京・名古屋・姫路・
岡山・九州八幡に設置し、全国的に業容を
拡大し今日に及ぶ。
平成二年八月吉日
隋神門の格子の中にいた狛犬さんたちです
陶器ですが 窯元は何処なのでしょう
詳細については不明です
月曜日, 10月 17, 2011
日曜日, 10月 16, 2011
狛犬さん 1129
2011.10.04 広島県福山市丸の内 備後護国神社
境内の説明板によりますと
武道館のある南側からお宮さんに入って行きましたが
夕方だったので 柔剣道の稽古の小学生たちが
沢山集まってきていました
南側の門の手前に居ました
境内の説明板によりますと
備後護国神社 御由緒 御神徳だそうです
当神社は、昭和三十二年まで阿部神社と
称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を
合祀した備後護国神社と合併して、社名を
備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。
阿部神社の建立は、文化十年(西暦一八一三年)に
時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を
始め歴代藩主をお祀りしてあります。
御神徳は、御祭神のご功績によるもので、大彦命の開拓・
平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。
歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として
国旗(日の丸)を制定され、嘉永六年(西暦一八五三年)
ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、
福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた
教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の
神として信仰されています。
武道館のある南側からお宮さんに入って行きましたが
夕方だったので 柔剣道の稽古の小学生たちが
沢山集まってきていました
南側の門の手前に居ました
土曜日, 10月 15, 2011
狛犬さん 1128
2011.09.22 愛媛県松山市北斉院町 福水神社
境内の説明板によりますと
見つかりませんでした
狛犬さんの台座に 平成三年(1991)十一月吉日
と刻んでありました
境内の説明板によりますと
福水神社の由緒だそうですが 境内を探しましたが奥の院への道は
御祭神 高皇産靈神(タカミムスビノカミ)神皇産靈神(カムミムスビノカミ)
生皇産靈神(イクミムスビノカミ)
魂?(凶の下に田)皇産靈神(タマミムスビノカミ)
足皇産靈神(タルミムスビノカミ)
このお社は、昔神功皇后さまも三韓(今の朝鮮半島の
中にあった三っの国)を征し給ひてお引上げの後
應神天皇さまをお産みあそばされて御東上のせつ
此の地に船を寄せられまして湯水を奉る。
里人福水神社と申し上げる様になりました。
その後越前守為時郷の女一子なきを心配なさり
神様にお祈りして一子を得んと立願しましたら
伊予の福水の神に祈るべしと夢をみられて
そのことの如くにしましたら則(タチマチ)に懐妊ありまして
立産の森(今の奥の院)の土をとりて産屋にしき給ふれば
月満ちてより安く女子を出産されました。
成長するに従ひ知識萬人に超え東門院の女房紫式部
その人であった。以来安産守護の神として崇敬厚く
これによって御産所の地名がうまれたのです。
立産の森の旧跡に五柱の神の鎮座地というところに
五つの大石がのります。河野家代々懐妊あれば
必ず奉幣あったということです。
立産森の旧跡(奥の院)は当社の東え五〇〇米坂を上って
小高いところにあり眺めのよいところです。
見つかりませんでした
狛犬さんの台座に 平成三年(1991)十一月吉日
と刻んでありました
金曜日, 10月 14, 2011
木曜日, 10月 13, 2011
狛犬さん 1126
2011.06.17 神戸市北区有馬町 有馬天神社
御祭神は菅原道真公
狛犬さんの詳細は不明です
小振りですが 良い表情の狛犬さんたちです
天神泉源の泉質は金泉(含鉄・ナトリウムー塩化物強塩高温泉)
温度は98度
深さは206m
だそうです
お宮さんの階段まで 赤錆びた色に染まってしまっています
御祭神は菅原道真公
由緒だそうです
当社の創建は「神社明細書」に
「有馬温泉の艮の方位にありて
菅原道真公を祀る」円融天皇天元2年(979)4月
京都北野天満宮より勧請す
温泉鬼門除け守護神として奉祭せり
建久3年(1192)9月再建
傍に蘭若院阿弥陀坊を建立し住僧代々奉祀せり
寛正4年(1463)4月13日火災の為焼失す
同年6年(1465)仮殿建設
明治5年無住となり寺院廃止…(略)…
昭和23年(1948)秋 温泉の湧出量減少に依り
境内地に源泉を掘り 以来80余度の温泉の湧出を得て…」
と記されている
当有馬温泉地区は 過去に 水害や落雷による火災により
大きな被害を蒙ってきたので 災除け・鬼門祓いの神として
建立され、温泉街の厄除け神社として厚い信仰を受けてきた
本殿は流れ造りで、各3坪の幣殿・拝殿と5坪の社務所があり
境内には倉稲魂命・素盞嗚命を祀る稲荷神社がある
また 天神泉源と呼ばれる有馬温泉の泉源があり
98度の熱湯が吹き出し湯煙を上げており
観光客にも親しまれている。
狛犬さんの詳細は不明です
小振りですが 良い表情の狛犬さんたちです
天神泉源の泉質は金泉(含鉄・ナトリウムー塩化物強塩高温泉)
温度は98度
深さは206m
だそうです
お宮さんの階段まで 赤錆びた色に染まってしまっています
金曜日, 10月 07, 2011
狛犬さん 1125
2011.06.17 神戸市北区有馬町 有馬湯泉神社
境内の説明板によりますと
又由緒書によりますと
湯泉神社 御祭神
式内社 湯泉神社
少彦名命 大己貴命 熊野久須美命
摂社 天津神社(南ノ小宮)
春日大神 天照大神 八幡大神
摂社 國津神社(北ノ小宮)
安徳天皇 豊受大神 熊野十二神
摂社 金刀比羅神社
稲倉魂命(稲荷神) 大物主命
阿遇突知命(愛宕神)
摂社 胸形神社(弁天社とも云)
多岐都姫命 市杵島姫命 多紀理比賣命
摂社 水天神社 神地・御旅所
安徳天皇 大己貴命 熊野十二神
狛犬さんの台座には
文政元寅年(1818)
八月吉日
と刻まれていました
吽形の頭には 角を想わせる小さな突起がありました
境内の説明板によりますと
湯泉神社そうです
有馬温泉を発見したといわれている
大己貴命と少彦名命などの神々がまつられています。
子宝が授かる神様として知られています。
有馬温泉の守護神として親しまれており、
温泉神社とも呼ばれている。
又由緒書によりますと
湯泉神社御由緒略記だそうです
当社が日本で最も古い社の一つであるという事と
有馬が日本最古の温泉場である事とは
起原を一にしているといってよい。
六甲の山懐に有馬温泉が発見され
そして人々の営みが始まった。と同時に
当社が奉祀される事になったという推測は
容易に成り立つがそれは一体いつの頃だったのだろうか。
神代の昔、大己貴・少彦名の二神が
当温泉を発見されたと伝えこの両命を
温泉守護の神として祭ったのが当社の創始である。
崇神天皇の七年(西紀前九〇年)には既に当地に、
「定置 神戸」とあって当社の存在が確認されている。
舒明・孝徳の両帝は有馬に入湯あって日々当社に
参拝をなされ平癒の早からん事を祈られた。
延喜式神名帳には「温泉神社・大・日次・新嘗」と
最高格式の式内大社として登載されている。
安元二年(1176)後白河法皇は建春門院と共に
来山され当社に奉拝祈願されたが供奉の按察使
源資賢は次の詠歌を広前に奉納した
めづらしきみゆきを三輪の神ならば
しるし有馬のいでゆなるべし
建久二年(1191)、仁西上人有馬中興の由伝ありて
以後熊野三山の影響を強く受くる事となり、新たに
熊野久須美命を勧請併祠するに及び「温泉鎮護三神」と
称されるようになった。
藤原定家の明月記に「建仁三年七月権現社に詣ず」
とあるがその長子為家も当社に詣で次の歌を詠した
有馬山君の御幸もとしふりぬ
たのむしるしを神もあらはせ
江戸の初期からは明確に神仏習合の存在となり
真言の当社々僧が温泉寺別当を兼ねる事となったが、
この両社寺の不即不離の関係も明治維新の廃仏毀釈により
終止符を打つこととなった。
現在の本殿・拝殿は寛政十年(1798)の
再建になるものだが狭隘な旧社地(石段下)から
愛宕山々腹を開拓整地した現社地に
明治十七年(1884)遷座され現在に至っている
跡たれていつとしここに有馬山
杉のしるしの三輪の神垣 頓阿法師
跡たるる有馬の山も三輪の神
しるしの杉のたちと尋て 烏丸光廣
めつらしき御幸を三輪の神ならん
すくな彦なの恵をそしる 徳川義直(尾張)
湯泉神社 御祭神
式内社 湯泉神社
少彦名命 大己貴命 熊野久須美命
摂社 天津神社(南ノ小宮)
春日大神 天照大神 八幡大神
摂社 國津神社(北ノ小宮)
安徳天皇 豊受大神 熊野十二神
摂社 金刀比羅神社
稲倉魂命(稲荷神) 大物主命
阿遇突知命(愛宕神)
摂社 胸形神社(弁天社とも云)
多岐都姫命 市杵島姫命 多紀理比賣命
摂社 水天神社 神地・御旅所
安徳天皇 大己貴命 熊野十二神
狛犬さんの台座には
文政元寅年(1818)
八月吉日
と刻まれていました
吽形の頭には 角を想わせる小さな突起がありました
金曜日, 9月 23, 2011
狛犬さん 1124
2011.05.15 高知県高知市薊野中町 掛川神社
境内の説明板によりますと
由緒あるお宮さんですが 境内に新聞の切り抜きが
貼ってありました
「山内家ゆかり寛永18年建立
掛川神社(高知市)老朽化でピンチ」
改修へ浄財集めの記事でしたが
発行月日は 2009年11月18日
改修には約4000万円ほど掛るそうです
台座に 昭和三年(1928)三月吉日
比島
竹内茂喜
彫刻
と刻まれていました
境内の説明板によりますと
掛川神社
江戸時代の寛永十八年(一六四一)、
第二代藩主山内忠義が、その産土神であった
牛頭天王を遠州掛川(静岡県)から
勧請して、高知城東北の鬼門守護として
建立したのがはじめである。以来、
代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治
元年(一八六八)元社名に改称した。
合祭神社中瀧宮神社、海津見神社は、
現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも
明治三十二年(一八九九)合祭した。
東照神社は延宝八年(1680)、
四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが
始まりで、文化十一年(一八一四)には、
十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し
東照大権現と称していたが、明治元年
東照神社と改称、明治十三年(一八八〇)
合祭した。祭神が徳川家康であることから、
県下の神社では唯一、社殿の軒下や
手水鉢に徳川家の家紋”三つ葉葵”が
つけられている。
社宝として、国の重要文化財に指定されている
「糸巻太刀 銘 国時」(山内忠義奉納)、
「錦包太刀 銘 康光」(山内豊策奉納)がある。
いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。
薊野コミュニティ計画推進市民会議
高 知 市 教 育 委 員 会
由緒あるお宮さんですが 境内に新聞の切り抜きが
貼ってありました
「山内家ゆかり寛永18年建立
掛川神社(高知市)老朽化でピンチ」
改修へ浄財集めの記事でしたが
発行月日は 2009年11月18日
改修には約4000万円ほど掛るそうです
台座に 昭和三年(1928)三月吉日
比島
竹内茂喜
彫刻
と刻まれていました
木曜日, 9月 22, 2011
水曜日, 9月 21, 2011
狛犬さん 1122
2011.05.15 高知県高知市比島町 清川神社
御祭神は 長曽我部元親 野中兼山 薫的和尚
だそうです
薫的和尚に関しては 二年ほど前に薫的神社で
ご紹介しています
長曽我部元親は 戦国時代に四国で活躍し
一時期は 四国全土を平定したとも言われる
しかし 秀吉に敗れ 土佐一国のみ安堵される
関ヶ原の戦いで西軍に味方し 長曽我部家は
改易となってしまい 歴史の表舞台からは
姿を消してしまいます
野中兼山ですが 江戸時代初期に藩政改革を
行った人物です 藩財政は好転しますが
過酷な年貢の取り立てや 華美贅沢の禁止
身分を越えた取立て等に不満が集まり
晩年は失脚してしまいます
兼山の死後 残された子供たちは 過酷と言うか
残忍と言うか 男系が絶えるまで 幽閉され続けます
娘たちのみになり 解き放たれたのは
兼山の死後 40年経ってからだそうです
この話 どこかで読んだような気がして
本棚を探しましたが 行方不明になっています
「婉という女」 大原富枝 です
創建はわかりませんが 御祭神から推測すると
江戸時代初期から中期以降でしょうね
阿形は 小さな珠を口にくわえています
製作年代等の詳細は不明です
御祭神は 長曽我部元親 野中兼山 薫的和尚
だそうです
薫的和尚に関しては 二年ほど前に薫的神社で
ご紹介しています
長曽我部元親は 戦国時代に四国で活躍し
一時期は 四国全土を平定したとも言われる
しかし 秀吉に敗れ 土佐一国のみ安堵される
関ヶ原の戦いで西軍に味方し 長曽我部家は
改易となってしまい 歴史の表舞台からは
姿を消してしまいます
野中兼山ですが 江戸時代初期に藩政改革を
行った人物です 藩財政は好転しますが
過酷な年貢の取り立てや 華美贅沢の禁止
身分を越えた取立て等に不満が集まり
晩年は失脚してしまいます
兼山の死後 残された子供たちは 過酷と言うか
残忍と言うか 男系が絶えるまで 幽閉され続けます
娘たちのみになり 解き放たれたのは
兼山の死後 40年経ってからだそうです
この話 どこかで読んだような気がして
本棚を探しましたが 行方不明になっています
「婉という女」 大原富枝 です
創建はわかりませんが 御祭神から推測すると
江戸時代初期から中期以降でしょうね
阿形は 小さな珠を口にくわえています
製作年代等の詳細は不明です
水曜日, 9月 07, 2011
狛犬さん 1121
2011.05.15 高知県高知市比島町 田内神社
お社は 四社熊野神社のすぐ横に
鎮座しています
このお宮さんは 土佐 阿波 讃岐 伊予
の名族 田内家に連なる人々が合同で
お祀りしてあるそうです
どこの御家でもでしょうが
この田内家も面白い歴史があるようです
徳島県東祖谷の大剱神社の縁起書に
「平家の家臣である田内左衛門丞教能が
安徳天皇と平家の残党を先導し
この地に至り云々」と言う記述があるそうです
四国全体に 田内とか田野内等の地名も
残っているそうです
田内氏は たうち たのうち でんない(傳内)
と呼ばれ 第八代孝元天皇より出て 武内宿祢の子
蘇我石川宿祢の子孫にあたるとか
御社の前にいた狛犬さんたちです
阿形の台座に 大正十四年(1925)十一月吉日
と刻まれていました
この狛犬さんたち 阿形と吽形でデザインが違います
作者が違うのでしょうか それとも年代が違うのでしょうか
お社は 四社熊野神社のすぐ横に
鎮座しています
このお宮さんは 土佐 阿波 讃岐 伊予
の名族 田内家に連なる人々が合同で
お祀りしてあるそうです
どこの御家でもでしょうが
この田内家も面白い歴史があるようです
徳島県東祖谷の大剱神社の縁起書に
「平家の家臣である田内左衛門丞教能が
安徳天皇と平家の残党を先導し
この地に至り云々」と言う記述があるそうです
四国全体に 田内とか田野内等の地名も
残っているそうです
田内氏は たうち たのうち でんない(傳内)
と呼ばれ 第八代孝元天皇より出て 武内宿祢の子
蘇我石川宿祢の子孫にあたるとか
御社の前にいた狛犬さんたちです
阿形の台座に 大正十四年(1925)十一月吉日
と刻まれていました
この狛犬さんたち 阿形と吽形でデザインが違います
作者が違うのでしょうか それとも年代が違うのでしょうか
火曜日, 9月 06, 2011
月曜日, 9月 05, 2011
日曜日, 9月 04, 2011
水曜日, 8月 31, 2011
狛犬さん 1117
2011.05.15 高知県高知市一宮 東天神社
境内の説明板によりますと
狛犬さんの台座には
昭和十一年(1936)一月吉日
と刻まれていました
境内の説明板によりますと
東天神社だそうです
鎮座地は、『土佐郡一宮村合社帳』
(明治三(一八七〇)年四月)によれば、
土佐神社艮寅(北東)方東ノ元の山
上としていますが、近年まで現在よ
り約百メートル東方の山腹に祀られ
ていました。平成十(一九九八)年
九月の大雨により、境内が緩み、崩
壊の恐れがあるため、新たに宮地を
造成。すべての建造物を移動の上、
御神体をお遷ししました。
かっては土佐神社の末社でしたが、
現在でも東一宮の氏神様として親し
まれています。春口は、境内が桜の
花につつまれます。古い歴史のある
社です。
祭日は、六月二十六日と十一月二
十六日です。
一宮コミュニティ計画推進市民会議
高 知 市 教 育 委 員 会
狛犬さんの台座には
昭和十一年(1936)一月吉日
と刻まれていました
木曜日, 8月 25, 2011
狛犬さん 1116
2001.05.15 高知県高知市一宮西町 西天神社
境内の説明板によりますと
さらに別の石碑に
境内社としては
移転したというお宮さんと境内社は
関係ないのでしょうか
入口にいた狛犬さんたちです
台座に 大正十三年(1924)
四月吉日
と刻まれていました
境内の説明板によりますと
西天神社だそうです
御鎮座については不明ですが、
土佐神社年表によれば、寛文十
(一六七〇)年末社西天神社建立
と記されていますので、古い歴
史のある社です。社殿に天満宮
の御紋の彫刻や、天満宮の表額
が掲げられており、さらに祭日
が二十五日の天神の日であるこ
とから、菅原道真公をお祀りし
た神社と考えられています。
現在では、西一宮の氏神と
して親しまれています。
祭日は、六月二十五日と十月
二十五日です。
一宮コミュニティ計画推進市民会議
高知市教育委員会
さらに別の石碑に
移転記念碑とあります
前岡 久安川の
堤防敷に 鎮座せられし
伊気神社様 五社神社様を
河川工事の為にし天神社地に
移転し永遠に安泰を祈念する
境内社としては
乙女神社 子宝に恵まれ安産
皮膚病・発疹平癒
解願の時舞や絵馬が奉納された
春野宮神社 家内安全・商売繁盛
古くは前岡地区に鎮座
両社ともに御祭神については未詳
祭日は、六月二十一日と十月二十二日
平成二十年九月吉日建造
氏子一同
移転したというお宮さんと境内社は
関係ないのでしょうか
入口にいた狛犬さんたちです
台座に 大正十三年(1924)
四月吉日
と刻まれていました
木曜日, 8月 11, 2011
水曜日, 8月 10, 2011
火曜日, 8月 09, 2011
狛犬さん 1113
2011.05.15 高知県高知市一宮西町 白山神社
境内の説明板によりますと
お宮さんに上がる階段の下にいましたが
狛犬さんでなくて 唐獅子ですね
境内の説明板によりますと
白山神社だそうです
昔から北野地区の産土神で、
明治元(一八六八)年三月改称の
達しにより清野神社と称し、明
治五(一八七二)年村社となりま
した。その後、昭和五(一九三〇)
年十月に白山神社にあらためら
れました。
現在は富士山、立山と共に日
本三名山といわれている白山の
白山比咩を主神に、大物主神
大山祇神、伊氣の神、天の神を
合祀しているとされ、地域の信
仰をあつめています。
一宮コミュニティ計画推進市民会議
高 知 市 教 育 委 員 会
お宮さんに上がる階段の下にいましたが
狛犬さんでなくて 唐獅子ですね
日曜日, 8月 07, 2011
狛犬さん 1112
2011.05.15 高知県高知市一宮しなね 土佐神社
神社の前にある説明板によりますと
土佐神社は土佐の国の一の宮
地名も「一宮」と書きますが 読み方は「いっく」
「しなね様」の語源に関しては 土佐神社のHPに
拝殿にいた狛犬さんたちです
備前焼の狛犬さんたちですね
吽形の狛犬さんには 播磨姫路住
安川清泉造
阿形の狛犬さんには
備前伊部住
木村新七良
貞清造
と刻まれていました
製作年代は 新しいもののように見えました
土佐神社のHPの御由緒には
石の前にあった説明板によりますと
神社の前にある説明板によりますと
土佐神社だそうです
御祭神 味鋤高彦根神(一言主神)
雄略天皇(五世紀後半)時代の創建で
土佐の総鎮守である。
現在の社殿は元亀元年(一五七〇)に
長宗我部元親が再建したものであり、
鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)が
建立、再建したものである。
本殿・幣殿・拝殿は明治三十七年
(一九〇四)に、鼓楼は昭和九年(一九三四)
に、楼門は昭和五十七年(一九八二)に
国の重要文化財に指定されている。
大祭である「しなね祭」は、毎年八月
二十四・二十五日に行なわれ、多くの
参詣人で賑わっている。
土佐神社は土佐の国の一の宮
地名も「一宮」と書きますが 読み方は「いっく」
「しなね様」の語源に関しては 土佐神社のHPに
旧暦七月三日の祭ですだそうです
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから
風の神志那都比古から発したという説、
新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する
鍛冶と風の関連からとする説等があります。
拝殿にいた狛犬さんたちです
備前焼の狛犬さんたちですね
吽形の狛犬さんには 播磨姫路住
安川清泉造
阿形の狛犬さんには
備前伊部住
木村新七良
貞清造
と刻まれていました
製作年代は 新しいもののように見えました
土佐神社のHPの御由緒には
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、文中にある磐座(礫石)は これです
境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、
古代に遡ると言われています。延喜の制が布告された平安時代、
醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、
特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、
朱雀天皇の御代天慶三(940)年には、神階を正一位に進ませられています。
鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。
当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。
室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元(1570)年には、
長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代
後陽成天皇の御代慶長六(1601)年には、山内一豊封をこの地に享けると共に
以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を
増築して、土佐の国最上の祈願所としました。明治元年、神仏分離令により、
永年続いた神仏習合時代が終わり、明治四年には土佐神社と改称、
社格を国弊中社に列しました。戦後、昭和二十一(1946)年官国幣社の制度が
廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。
石の前にあった説明板によりますと
礫石の謂れだそうです
古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、
御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ
宮を建て加茂の大神として崇拝る。
或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて
石を取りて投げさせ給ひ此の石のと
落止る所に宮を建てよと有りしが
十四里を距てたる此の地に落止れり
と是即ちその石で所謂この社地を
決定せしめた大切な石で古来之を
つぶて石と称す。浦の内と当神社
との関係斯の如くで往時御神幸の
行はれた所以である。この地は
蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は
珪石で全然その性質を異にしており
学界では此の石を転石と称し学問上
特殊の資料とされている
昭和四十九年八月
宮司
火曜日, 8月 02, 2011
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