祖霊社本殿の前に居ます
台座には 平成元年(1989)五月吉日
と刻まれていました

霊峰石鎚山総本宮石鎚神社ご案内
石鎚神社は、関西第一の高峰石鎚山(1982m)を
神体山として仰ぐ、奥宮頂上社・中宮成就社と
土小屋遙拝殿・そしてこちらの口之宮本社の総称です
御祭神は、石鎚毘古命・石鎚大神とも
申上げ、伊邪那岐命・伊邪那美命の第二番目の
御子にあたり、諸願成就の神様として
知られていますが、殊に家内安全・厄除開運・
病気平癒の神として篤い信仰を受けています。
石鎚山は、日本七霊山・日本百名山の
一つに数えられ、今から約1300年の昔
役小角によって開山され、弘法大師も
修業したと伝えられる修験道の霊山です。山頂よりは
天候が良ければ土佐湾・太平洋また、瀬戸内海を
越えて中国・九州の山々まで遠望でき、
変化に富んだ風景が四季を通じて楽しめます。
時には、雲海が眼下に広がり、依るには満天の星空、
そして朝には素晴らしいご来光と野鳥の囀り、
正に「神」鎮まる御山です。
本日ご参拝頂きました本社本殿前の階段には、
石鎚山に安永8年に掛けられた鉄の鎖を
手摺りとして取り付け、皆様に御山の霊気に
触れて戴いて居ります。
石鎚信仰1300有余年、悠久の時を想いつつ
どうぞごゆっくりご参拝下さい。
貴布称神社
主祭神 大山祇神 別雷神 高龗神 罔象神
境内社 塞之神社 八衢天神
惠美須神社 大国主神
和霊神社 和霊大神(山家清兵衛公頼霊)
真名井神社 多紀理毘売命 他七座
一ノ宮神社 上筒男之神 他二座
金刀比羅神社 大物主神 他一座
当社は、第三二代崇竣天皇の元年(五八七)
八月二三日、伊予国司散位小千(越智)宿祢益躬が
勅を奉じ、越智の三島浦戸宮より
大山積神をこの地方の一の宮として
勧請したといわれ、また、和銅五年(七一二)
八月二三日越智玉純が、浦戸宮より
諸山積大明神(大山積神の別称)を
勧請、創立したともいわれている。
神亀五年(七二八)九月二三日には、
雷神、高龗神を合祀。更に山城国愛宕より
貴船神社、罔象女神を勧請
ついで宝亀一八年(延暦六年)(七八七)八月二三日には
三島宮より十六皇子神を勧請。
弘仁九年(八一八)には国司小千(越智)真勝が
水田を寄進し、社殿の結構を整え、別当寺を置き
郡司大領に命じて国司に代り奉幣させ
社運は隆盛を極めた。
承平、天慶の乱(九三五~九四一)により
荒廃したが、元暦元年(一一八四)
神官高市武者所清儀、本殿を修復。
文治三年(一一八七)高市太郎光儀、社領を確定し
社殿を荘厳して社運を回復。元弘元年(一三三一)
颶風出火、社殿悉く焼失したが、
貞和五年(一三四九)河野対馬守通治、社領百石寄進
更に河野通尭、社領百貫を加え、
神馬飼育料、大豆五〇貫、白銀二千疋を
毎年奉納。社運再び大いに開いた。
天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の
四国平定の戦禍により社殿焼失。
慶長五年(一六〇〇)正木城主加藤嘉明
社殿を造営 社領百石寄進。以来領主の崇敬と
神官の誠意奉仕、住民の尊崇により
地域の文教、徳育の中心となって
現代にいたる

本殿の前に 相棒を失くした狛犬さんがいました
お祭り風景です
菊万庄鎮守社 寛治四年(1090)
加茂別雷社 貴布禰社 神山(高山)鎮座
高山(神山)初篭峰 古戦場跡
正平二十三年(1368) 九月六日十日十九日
応安元年(1368) 木梨入道軍布陣
加茂別雷社 貴布禰社 古社之跡
応安元年九月六日十日十九日合戦ノ時
木梨入道軍兵士神山ヨリ移ス
古社ヨリ天授六年(康暦二年)庚申四月留山ニ移ス
三永九郎通能
元中四年(1387) 嘉慶元丁卯年 當所ニ移ス三永九郎通能
加茂別雷社応永六巳卯年四月菊万庄
遍照院境内ニ宮造鎮坐
遷宮眞恵上人宮僧一之坊
神主三永十郎左衛門
社人仲原図書城之上刑部
宇賀神社の御由緒と御神徳だそうです
御祭神 天照皇大御神 天之親神
宇賀之魂之大神 衣食住と大祖万民豊楽之神霊
建速素幸霊大神(タケハヤスサノオノオオカミ)
大地之親神
宇賀之魂乃大神亦の御名を豊受霊芽神
(トヨウケヒメノカミ=伊勢神宮外宮の神)
亦の御名を保食の神(ウケモチノカミ
=伏見稲荷大神と同神)
亦大食津霊芽神(オオゲツヒメノカミ)
亦大年之大神等何れも異名同神です
天下万民と生栄富栄之に栄え坐す衣食住の
大祖これを万民豊楽と御霊という。
伊勢外宮五部書に曰く「夫れ宇賀の魂之神霊は
衣食住の大祖にして万民豊楽の神霊也、往昔、
宇賀之魂乃神蚕と百穀(ももたなつもの)を
生し時に天照皇大大御神、之を喜びて曰く
蒼生(あおひとぐさ=万民)食して活きる者也
蚕を以て糸を抽り給う百穀を以て
陸田水田の種子と為し給う自比(これより)
始めて農業及び蚕事の道有り、因て上古今に
至る迄天下の蒼生寒凍の苦しみに堪之飢餓の患い
を凌ぐは皆宇賀之魂乃神の神恩也衣服を
まとい飽食する誰か宇賀之魂乃神を崇敬
為さざらむ乎(か)故に食する毎に
美悪を言はず珍奇を論ぜず箸を採る前
食神(みつけかみ)に奉饗(たてまつる)者は
古今通義也」云に畏くも明治天皇の詔勅に
「神祇を崇め祭祀を重んずるは皇国の大典にして
政教の基本なり」と仰せられ神祇の崇敬祭の尊重は
我国開闢以来一貫する根本精神であり、
日本民族の伝統的信念であります。
ことに我が民族の本宋である伊勢の大神宮尊崇は
鎌倉時代以後特別に盛んになり
伊勢参宮の風習は著しく普及すると同時に
各家々に伊勢大神宮の大麻(神札)を奉斎する
祖習も益々全国に行き渡って来た。
神宮大麻は即ち大神の御神徳を仰ぐ
御璽(みしるし)であって大神宮より
頒布授与せられる尊い神札である国民の
大神宮尊信念が盛んになるに及び
神宮の詞宮や御師(神主)が全国津々浦々に
出向いて神札を頒布するようになり、
地方に出向いても長期滞在するため
駐在所を設けるようになった。
我が壬生川町でも(現公民館の屋敷)駐在所を
設け社殿を造営して天照皇大大御神を奉斎し
伊勢本宮に習い、少し離れた蛭子町に小社を
建立して伊勢外宮神を奉斎し周桑郡越智郡の
一部を範囲として神宮大麻を頒布すると共に
尊信者の要望に応えて祈願祈祷祭典を行い
御神徳の取次を行っていた。
明治初年に至り全国の神社に奉仕する神職会が
組織拡充せられ神宮大麻は神職会を通じて
氏子に頒布せられる事になり神宮の御師は
引き上げてしまった。けれども大神宮の
御神徳を偲び御恵(みめぐみ)を慕い
参詣者は絶える事なく、ことに蛭子町に
外宮として宇賀之魂之大神を奉斎したお社に
特信者として御奉仕する人があり
御霊験著しく顕れ、参詣者が増加するに従い
お社も手狭になり町内有志相議り
大正十一年網敷天満宮境内へ社殿を新築して
移転御遷宮申上げ今日に至るも霊験いちじるしく
崇敬者は近郷近在は勿論ひろく東京・名古屋・
中国・九州にも及び御神徳弥々益々
盛之満ち輝いて居ります。
つかのまも などか忘れん 実(げ)にふかき
宇賀の み神の 高き恵みを
ー境内の歌碑に依るー
宇賀神社の玉垣からしかし その女性たちの名前を書いた玉垣は
大正十一年蛭子町から、この地へ
神社を移転した時に作られた玉垣の中に
地主や商人にまぢって、「西条芸妓中」の
名前が見られる。親に売られ、
貧しい水商売の女達がお金を出し合って
寄進したものと思われる。
このことは、この神社が職業・身分に
こだわらず、いかに多くの人達に
崇敬されたかを物語るものであり多くの
参拝者のなかに幸せを願い、朝に夕に
柏手をうつ女達の姿が見られたという
當門脇神社には
越智郡玉川町鈍川木地鎮座細野神社の神霊と
奈良原神社の分霊が合祠せらている
往古鈍川木地は戸数百余戸が
次第に出村して<今治地方に移住するもの 続出し昭和四十年六月現在僅かに二戸となりぬ 是を以て祖先代々祀り来し三柱の大神を 残置するに偲びず當社の境内に移築遷宮した
日本總鎮守 三島地御前「ゐ」と云う文字には「い」と振り仮名が打ってあります
別宮大山祇神社由緒
御祭神 大山積大神
御祭神大山積大神は 天照大神の兄神で
山の神々の親神にあたられて(古事記
日本書紀) 和多志大神とも云はれ(伊予国
風土記) 日本民族の祖神として また 地神
海神 兼備の大霊神として 海上の安全
交通 産業の守護をはじめ日本の
国土全体を守護し給ふ神であるところから
古代より日本総鎮守と尊称される
当神社は 和銅五年(皇紀一三七一年
西暦七一二年)越智玉澄公により
日本総鎮守 大山祇神社(大三島町 元国幣大社)
の地御前(ぢごぜん)として
勧請創建せられ(豫陽盛衰記)
伊予国一の宮の別宮として 創建以来
代々の領主 藩主等は勿論 人々に
広く篤く崇敬されてゐる
祭神 磐長姫大神だそうですが「?」の文字は
このお宮は 昔から「阿奈婆さん」といって
親しまれているお宮で 大三島の
阿奈婆神社から勧請申し上げたお社です
御祭神 磐長姫大神は 本社の御祭神
大山積大神のご長女にあたられ
大変ご長命にあらせられた上
福徳円満の神様で「長生の神様」「福徳円満の
神様」として ご神徳の高い神様であります
また 特に「下の病」の治癒にすぐれた
力をお持ちの神さまとして 崇敬者の
祈願奉?のため 遠近より参拝するものが
四時絶えません
吹揚神社いくつものお宮さんを合祀した結果
御祭神 天照大神 八幡大神 事代主神
厳島大神 藤堂高虎 久松定房
往古より 今治市内に鎮座していた
神明宮、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮の
四社を廃藩の際 旧社地の故を以て
城内に合祀 社殿を造営し
明治五年十一月十九日遷座
旧城名をとり吹揚神社と称す
即日郷社に列し明治十五年に
県社に昇格す
後に藤堂高虎及び久松家祖神をも奉遷す
昭和三十三年戦災の復興をなしたるも
昭和五十五年放火により焼失
昭和五十八年現社殿を再建す
姫坂神社由緒 旧社格 式内社 県社狛犬さんの台座には
一、祭神 市杵嶋姫神(天照大神の御子神)
「姫の宮」と称えて往古より
日吉の里姫の宮の地(現在の南日吉町)に
鎮座と伝えられ今から一〇八〇年前
醍醐天皇の延喜の制に式内大社
(全国で三五一社)に列格の栄光に浴し
皇室より久しく特別の待遇に預り
国司、守護職、領主をはじめ
庶民の信仰を集めた
江戸時代今治藩の祈願所として雨乞祈願の
たびごとに藩主の参拝あり
毎年ご蔵米の献納に預った程であったが
故あって六二〇〇坪に余る広大にして
尊厳な千幾百年の歴史を残す
姫の宮の社地から現在の淨地に移転されたのは
今から二百数十年前のことである
続伊豫温故録より
姫坂神社 日吉村にあり古歌
ひめ坂に立る梢のいろいろに
神のみそぎの錦なるらん
享保八年九月九日 当国松山之在
仙波半幽斉盛全敬白
当神社は古来式内大社として
また日吉郷(旧今治市の全域)の
一の宮として斎かれ交通守護の神
開運の神 安産の神として広く信仰されている
昭和五十八年式年祭に際して建立
若一王子神社 由緒
祭神 莵道雅郎子命(ウヂノワキイラツコノミコト)
当社の創祀は紀元一九三五年(西一二七五年)
建治元年第九一代後宇多天皇様の御宇にして
讃岐は東西に豪族名家が割據していた時に
香川郡の主護耺初代香西資村氏が香西の
勝賀城を築造して威を振い第三代香西資茂氏の時代に
して瀬戸内海の制海権を掌握し陸海軍の武威盛んであった。
紀州の住人にして新羅三郎義光の十一代の
岡田丹後守重宗氏ありて香西家の旗下の将として
招かれ箆原郷を治めし人である重宗氏は
箆原郷西浜城主にして城は何処に在りしか
詳でないが西方寺辺とも伝えられ陣屋の守護神として
紀州の熊野の王子小社より分霊を勧請奉齋せし所と
伝えられている。社地は城の巽の隅とも云ひ
然し本城は坂田にあったのであろうと伝えられる。
紀元二一〇五年(西一四四五年)文安二年
第一〇二代後花園天皇様の御宇岡田丹後守清家社殿を
再興される創紀より約一七〇年後である。
此の時浜の町蓮華寺も創建せられ社僧となる。
次いで紀元二一九二年(西一五九五年)天文元年
第一〇五代後奈良天皇様の御宇岡田丹後守守清再興、
紀元二二三〇年(西一五七〇年)第一〇六代
正親町天皇様の御宇元亀元年岡田丹後守宗輪氏再興
次いで岡田宗忠を経て紀元二三一二年(西一六五二年)
承広三年第一一〇代後光明天皇様の御宇
岡田治長再興、其後岡田家は二十代に至って姓を高島と
改め、初代高島甚左衛門より、治政、治賢、治吉、
教武、教親、清、清也、清衡、功、定吉
十一代高島衡介氏あり子孫は生存する。高島家は
松平家に仕へ西通町の鐡鉋町に住んでいた。
壬子神社の祭禮には明治になっても戸主が
馬上で槍を立てて渡御に供養していた西通町は
昔は高島町とも言伝へられていた。伝説によると
老人夢見らく神黒馬に召され往行すと御轡の音のみは
正しく現はに聞し人数人ありと云う馬はこれ神馬なり
此の神馬も四足に泥土に躅し踏あり。その踏も
時を経て損せり。又昔当神社の広場に男女の童子
集りて遊ぶ祭神は其の中に交りて遊ぶ童子互に
顔を見合せると必らず見知らぬ一人の童子が交りて
居た。然しその容貌を記憶して者はないと云う。
祭神が幼児に交りて それとなく擁護し給うたのである
以上の伝説は当社に残された古文書より記す
古記に曰く祭神は應神天皇様の皇子様で
幼児のころより非常に頭脳明敏で父君の
寵愛厚く皇位継承の話題になられた皇子様
あらせられますので、学業は勿論幼児の病気等に
奇特な霊験あり崇拝されている