高等学校の傍を通り抜けたところに お宮さんが有りました
狛犬さんは 参道の途中にいました
どうも平成生まれのようです
本殿の横に こんな鳥居が立っています
鳥居の奥には 小さな祠があるだけ
祠の横の石碑には 小社 と刻まれていました
この鳥居は 笠木の下に台輪のある 台輪鳥居です
鳥居の柱には 享保九(1724)?三月と刻まれていました
大山積神社史
主祭神 大山積神・高龗神・雷神
配神 熊野皇大神・熊野三社神・加具土神
伊弉冊神・菊理姫神・事解男神
御由緒
一二七四年(文永十一年)九十代亀山天皇は
皇位を後宇多天皇に譲位し亀山上皇となりました
同年十月第一次蒙古軍の来襲があり 亀山上皇は
伊勢神宮に 勅使を送り 敵国降伏を祈願し
上皇も筑前 博多の筥崎宮に 祈られました
伊代の武将 河野通有は 弘安年間 敵国降伏のため
大三島の大山祇神社に祈願し 大山積神を別ち
一二七九年(弘安二年) 石手村に大山積神社を建立した
と伝えられております
一二八一年(弘安四年六月)再び蒙古が来襲し
河野通有の奮戦は 史上有名であります
(熊野皇大神は 八九二年(寛平四年)伊与息方の勧請によります)
大三嶋神社の由緒
祭神 大山積神
当神社の御祭神は古くからの
山の神 海の神(渡航海)として 信仰されており
この祭神を祀る三島神社は もと柴山(聖陵高校南の山)に
鎮座されていたが 約二〇〇年前の文化元年(一八〇四)に
久万ノ台の北方面を鎮護する神社のお旅所であった現在地に
大三嶋神社として遷座され 爾来保免地区住民の崇敬のもとに
三島神社の末社として毎年十月七日の秋の大祭には
三島神社の神輿の重要なお旅所ともなっている
さきの大東亜戦争末期には この神社境内に掘られた二カ所の
防空壕によって 米軍の空襲から 多数の氏子を
守護されたと語り継がれている
平成十七年六月吉日
社殿御修造由来
三島大明神社は 余戸(ようご)の里の北隅に
神亀五年(七二八年) 大三島の大山祇神社から
大山積神を勧請して 創建され
配神として 雷神 高良神 猿田彦神を祭祀する 旧村社である
中殿 拝殿は 明治六年(一八七二年)の 建造物であったが
?き 雨漏り等が 著しくなり 神殿尊厳の維持が困難となり
平成三年三月御修造奉賛会を結成
御大典記念事業として 新築することとし
平成三年七月から 募金活動を行った結果
氏子の方々の浄財が寄せられ 平成四年二月
社殿一棟 倉庫一棟の新築工事に着工し
同年八月完成したものである
手引の松
手引の松は 目通2,5mほどの松が 地上6mのところで
H形につながり 手を引き合った姿にみえるところから
いつとはなく手引の松と呼ばれるようになったもので
余戸の象徴として 広く人々に親しまれてきた
樹齢は推定200年位 学術的にも貴重なものとされ
昭和三十七年には 松山市の天然記念物の指定を受けた
松の保護には意が尽くされたが 昭和五十四年秋
松くい虫の被害で枯死した
正岡子規は『散策集』明治二十八年十月七日の項に
「をさなき時の戯れも思ひ出されたり 竹の宮の手引松は
今猶残りて二十年の昔にくらべて太りたる体も見えず」と記し
「行く秋や 手を引きあひし 松二本」と詠んでいる
かって人々が敬愛し 子規が幼時に戯れた手引の松の枯死を悲しみ
ここにそのこんせきを保存して 記録をとどめる
山内神社 縁起
当社は 旧松山藩士山内興右衛門久元君の
御霊をお祀りしてあります 君は土佐の国主山内公の支族です
稟性は謹厳実直で 特に藩政に心を注ぎ昇進し
卅二才にて 目付役を仰せ付けられるほどの英才でした
特に享保の大飢饉あり 餓死者三千数百名を数う惨状となり
主命で江戸より差し遣わされた君は 領内隈なく踏査し
その対象と窮民救済を上申いたしました
その頃 悪家老達は 城主江戸詰を好機と
悪臣供を集い 主家を顚覆し 自己の権威を恣にせんと妄動
藩主定英公は 心労重なって急逝しました 純忠至誠の君は
力を尽くして 主家並に領民の安泰を図りましたが
奸臣達は 君を不実不忠と讒言し 藩主が幕命で蟄居謹慎後
急逝の因は君にありと冤罪を被せ 主命なりと強て割腹させました
然し乍ら 君主家を懐う深き忠魂は 魂魄となり
屡々奇瑞を顕し 主君の危難を救いました
後文化十一年時の藩主定通公 その忠義を誉め
当社を建立神霊を厳敏鎌輪瑗(?)命として お祀りしました
爾来毎年四月廿三日除難の神として大祭があります
平成二年十二月戦災焼失後再建時建立
当社の沿革
天武天皇の御宇(六九七年頃)役の小角 来国の砌
当地岡の上に登りて 四方を眺望し その景色の宜しきを
称賛し「この地自然飯粒の形をなせり
是 五穀神を奉斎すべき地なり」とて 海辺に潔斎沐浴し
五穀神を鎮奉す 依りて郷人等社殿を建て
飯岡大明神と稱し奉る 後に飯岡神社と改む
是より五穀祭を行い来りしが 或る夜 宇賀之御魂神 老人に
稲穂を授け「此の地海辺続きなれども 吾前を治むる事
毎年欠くこと無くば 五穀を豊かならしめん」と
此に於て国司奉幣を奉り 例幣の例に加えて祈誓ありければ
潮目自ら退き 難なく潮止を築き陸田と成すを得なり
爾来河野家より五穀料拾石毎年寄進せし由 由記に見えたり
河野氏府を別し処を茶臼山と呼び 西北の海上を
一目に見渡す所にて 西の麓に突出の峯を「来津輪山」と呼び
この東に船舶風待ちの港有り 入口に「佐島」と云う小島有り
右岸に三女神を鎮座する「佐島弁天宮」あり 大旱に雨乞を祈り霊験多し
左岸に夷子神社あり 伊予十一夷子の内と云ふ
弘安四年 蒙古来襲の砌 国司河野六郎通有以下"来津輪港"より出陣し
激戦偉功を顕し この濱に帰り 四郎通時の死骸飯岡に埋む
湊三嶋大明神由緒沿革
御祭神は 大山積命 大綿津見大神 雷神 高竈神 饒速日命 武雷神
経津主神 上筒男神 中筒男神 底筒男神 瀬織津比賣神
速秋津比賣神 伊吹戸主神 伊豫皇子命 越智宿禰通春公霊
往古湊山に鎮座し 御津大明神とも称した
聖武天皇・神亀五年(728)八月 勅詔によって国司小千宿弥玉興
玉純父子が伊豫九四郷に一社宛大三島明神を勧請のとき
この湊山に勧請し本郷一宮と称えた
文治二年 河野四郎通信が湊山に築城のとき
当社は山の南麓に奉遷した
文永・弘安年中 蒙古襲来のとき 河野通有 同通純は
水田三反を献じて武運長久を祈り 元弘三年九月
河野伊豫守通村 同備後守通綱は 神領を寄進し武運を祈った
明徳三年 河野伊豫守通能は神殿を修理し
北條太夫越智親孝 同新太夫越智親経は この地に別亭を構え
その祖饒速日神 伊豫皇子等の神霊を祭祀した
河野通春 同通篤は湊山に居城して尊崇厚く
文明年中 足利勢と合戦没後の霊を祀った
慶長年間加藤左馬守嘉明は社殿を修理し 松平隠岐守が
藩主となって 御用船出入安全 海路守護神として尊崇し
毎例祭には代参があった
又 往古より住民並びに航海を業とする者等
大綿津見命 速秋津神を奉斎し 伊豫の熱田津(今の道後石湯の辺)
成田津(今の徳威 野田井)秋田津(今の長戸 安城田)の総守護神
三津大明神と称し 湊大明神とも称え 後に湊三嶋大明神社と称した
然る所 明治十七年の大暴風雨の際 高潮大時化の夜
社殿 社記 宝物等悉く流失せしが
御神体は 対岸三津の洲先(現在の須先町)北端に流れ着きしを
翌朝 町の人々寄り集まり この地に奉祀せんは洲鼻のこととて
何時流れんことを畏れ 御神慮を慰め御神楽を奉して
再び港山中腹(現在地)に安置し奉り 永くこの郷及び三津町守護を
御祈願申し上げし処 御霊験あらたに商売繁盛 五穀豊穣 大漁続き
水難は元より幼き児等の勧学をお護り下さった尊い御神霊に感謝し
町民は申すに及ばず 隣町 近村の崇敬殊に厚く
元治元年 須先町の仲津屋和十郎の妻が倅の航海無事を御祈願せしに
危難救護のお告げあり 日を経て倅宇和島より帰国の途中難船し
既に一命危うき時 湊三嶋大明神社を一心にお祈り申し上げしに
神霊のご加護により命助かり 無事帰をことを得たる旨
一家親族感涙 その御礼に当時使用の大錨を奉納下記録が現存している
須崎町では霊験あらたなこの御神体が洲先に流れ止ったのを
有難く勿体ない御縁とし 毎年七月二日を例祭日と定め
須先町舟場近くに仮殿社を設け奉斎の儀を厳修しているが
隣町は言うまでもなく 遠近からの参拝者相次ぎ
御神徳を集計昂揚し 報恩報謝の誠を捧げている
右 古文書並びに旧昔よりの伝承に基ずき
御由緒を録し御神徳を顕彰し奉る
湊三嶋大明神社
松山神社
祭神は 菅原道真公 徳川家康公である
元和四(一六一八)年 松山城主加藤嘉明が
湯月八幡宮の境内に小祠を建て 家康公の神霊を祭祀したが
明和八(一七六五)年に松山藩主松平定静が
祝谷の田高の丘(現社地)に社殿を造営し 東照宮と称え
城下の鬼門鎮護の神として崇敬した
また 延喜元(九〇一)年 菅原道真が筑紫に
左遷されていく途中 祝谷山崎の丘に立ち寄りて
温泉に浴した故事により 里人が大宰府天満宮より
旧跡の山崎の丘に神霊を勧請し 天満神社として尊崇していた
その後 明治四三(一九一〇)年 東照宮に天満神社に
天満神社を合祀し 松山神社と改称した
現在の社殿は 元治二(一八六五)年に造営されたものであり
典型的な権現造りの面影を 今もそのまま伝えている
松 山 市
松山市教育委員会
当社は昭和五年一月県下各市町村並に
一般有志の浄財により堀之内兵舎内 衛兵所西側に聯隊忠魂社として
建設 同年五月三十日鎮座祭が執行せられた 尓来毎年軍旗祭当日
戦没者の慰霊祭が盛大且厳粛に執行せられていたが
昭和二十年の終戦により翌二十一年一月現在地に奉遷された
その後護国神社の例大祭に併せて英霊鎮魂の祭典が
執り行われている
愛媛縣護國神社御由緒(略)
御由緒
当神社は 明治三十二年(一八九九)
県内一八八名の有志により 私祭招魂社として
当時官有地(温泉郡持田町現東警察署地)に建立
仝年三月戊辰の役 西南の役 竹橋事件 台湾守備
日清戦争等における郷土出身戦没者四八四柱の御英霊を
御奉斎申し上げたに始まる
その後大正二年(一九一三)同地に愛媛県立農業学校を
建設することとなり多賀神社(松山市新立町)に
お遷し 昭和十四年(一九三九)現在地に御遷座
愛媛縣護國神社として御奉斎された
御祭神は右記の外 日露戦争を圣て 大東亜戦争に
至るまでの事変 戦争において護國の重任に当り
遂にその尊い生命を捧げられた愛媛県出身の戦没者の
御英霊を奉斎し その後社会公共のために尽くして
県民に恩恵をもたらされた先賢諸士 即ち松山城を
築城された加藤嘉明命 宇和島今治城主藤堂高虎命
松山初代藩主久松定行命 宇和島初代藩主伊達秀宗命
その他藩主及び公共事業に功労のあった足立重信命
又建武中興(一三三四)より明治維新(一八六八)に
至るまでの国事に殉じて御贈位になった方々
産業功労者としては 義農作兵衛命 下見吉十郎命
鍵谷カナ女命 文化人として尾藤二洲命 近藤篤山命
矢野玄道命 正岡子規命等を合祀 さらに軍属
女子学徒 看護婦 電話交換手 報国隊 義勇隊
富山丸 東予丸犠牲者 警察官 消防団 自衛隊等の
公務殉職者を併せて御祭神数は四九七二一柱を
御奉斎申してあります
金刀比羅神社御由緒略
御祭神 大物主大神(大国主神の和魂)
第七十五代崇徳天皇
大物主大神は天照皇大神の御弟建速盞鳴神の
御子に?して 国津神の大崇にして 日本國を造り開き
農業殖産漁業航海医薬 福徳に御力を注がれ
国民の豊で平和な生活の向上に御心を傾けさせ給ひ
今に至るまで我が大神の御余徳に預からぬものは
一物もないといわれております
御相殿には 第七十五代崇徳天皇を合祀されております
御由緒
このご祭神の偉大で高大な御神徳を戴き奉らんと
徳川時代には全国津々浦々に全金刀比羅信仰が広まり
御分霊が勧請されました 当社もその一社で
最初松山城下の讃岐街道の出入口のこの地に本宮
遥拝所處として建立され 以後藩主を始め庶民
に至る厚い崇敬を集めて発展を重ね現代全国に
千余社県下にも一五〇社に及ぶ全金刀比羅神社が有る
中 全国唯六社の内に数えられる本宮直轄分社として
格式高く人々に明るい希望と幸福の道を開いている
天山神社略縁起
祭神 天照皇太神
天櫛眞知命
社伝に云う天山神社は 人皇十代崇神天皇五年(紀元前九十一年)
天下餓疫す 天皇大いに懼れ群神を祀り給う時
久米麿「三輪田の祖」に勅して 天櫛眞知命を
久米吉井郷天山に祀らしめ 神地神戸を給うとあり
続日本紀に称徳天皇天平神護元年(七六五年)十一月
使を天下諸国の神社に遣わすと在り続いて
神護景雲元年(七六七年)二月天下諸社に
神服を奉ると在り 此の時の例に與り給う
徳川氏大政を奉還し王政復古 明治五年(一、八七一年)五月
神社沿革の際に当り村社に列せられる
平成四年五月吉日
天山(あまやま)
八世紀前半に編集されたと言う地誌『伊予国風土記』逸文に
「伊予の郡郡家より東北のかたに天山あり
天山と名づくる由は 倭に天の香久山(あめのかぐやま)あり
天より天降りし時に 二つに分かれて 片端は倭の国に天降り
片端はこの土(くに)に天降りき よりて天山といふ
本(ことのもと)なり その御影を敬礼(みやま)ひて
久米寺に奉れり」と書かれている
この記述によると まず 「天山」は伊予郡にあり
郡役所の東北にある また 名前の由来は もと天上にあった山が
地上へ落ちてきたところ 途中で二つに分割されて
他の一つが天山になったという その時の天山の絵図を
久米寺に奉納したというのである
この久米寺の位置については 中ノ子廃寺跡
或いは国指定史跡来住廃寺跡の二説がある
この天山の周辺には小丘陵が点在していて
皿ヶ嶺を背景にして眺める風景は 奈良県の
大和三山に似ているともいわれている
松 山 市
松山市教育委員会
伊佐爾波神社
延喜式内社で 祭神は 仲哀天皇 神功皇后
応神天皇 三柱姫大神である 社伝によると仲哀天皇 神功皇后が
道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で
湯月八幡とも呼ばれたというて 神の命を請ひまつりき
是に大后(おほきさき) 歸神(かむがかり)して・・・」
『日本書紀』に建内宿禰に命せて琴撫(みことひ)かしめ
中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して
審神者(さには)と為す」とあり
これに神聖 清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので
神功皇后に関わる名称ともされる
当神社は 河野氏が湯築城の鎮守として 今の地に移したといわれ
その後 加藤嘉明が 松山城の固めとして八社八幡を定めたとき
一番社として武運長久の祈願所となったという
現在の社殿は 松山藩松平第三代藩主定長が
将軍から命じられた流鏑馬を成功させたお礼として建立したもので
その様式は 大分県の宇佐神宮 京都の岩清水八幡と並んで
日本を代表する八幡造といわれる
松 山 市
松山市教育委員会
桑原八幡神社
松山の八社八幡の二番社
祭神は 誉田別尊(応神天皇)足仲彦尊(仲哀天皇)
息長足姫尊(神功皇后)姫大神である
源頼義が伊予の国の鎮護として八社八幡を定めたとき
第二番社としたと伝えられている
平安から鎌倉時代にかけて 源頼義が下向して
八幡宮を勧請・造営したという伝承の陰には
地方武士の協力があったといわれる
『豫章記』に「伊予入頼義 当国の国司として在国あり
親経と同志にて 国中に四十九ヶ処之薬師堂
八ヶ所八幡宮建立せらる」とあり 河野家代々の
崇敬を受けていたとみられる
万治二(一六五九)年 松山藩主松平定行」が
東野へ隠居所を建設したとき 当社を祈願所に定めたとある
なお 当社は はじめ桑原町古宮にあったが
寛治二(一〇八八)年に 今の地に移したという
移動の理由などは つまびらかでない
松 山 市
松山市教育委員会
東道後神社略縁起
祭神
天御中主大神
天照皇大神
月夜見大神
右祭神三柱の大神の御神徳を日・月・星の三光になぞらえ
御社号を三光神社と申し上げ 古きより脳の守護神とし
殊に神経痛や中風除の神として崇敬されております
このたび 神社の改築を期に
併せて日尾神社氏子内の温泉守護神としてお祭りし
社号を東道後神社と御改稱申し上げ
氏子一同並びに広くご信仰者の一層の御崇敬を深め
永く三柱の崇高なる御神徳をお稱するものです
昭和四十九年三月吉日
日尾八幡神社
本殿は西・中・東の三玉殿に分かれ
主な祭神は品陀和気命・帯仲日子命・大帯姫命・宗像三毘売命である
天平勝宝四(七五二)年 宇佐八幡から勧請して
孝謙天皇の勅願所となり 久米八幡と称し
朝臣久米麻呂と高市古麻呂が斎主になったという
その後 文治年間(一一八五~一一八九)に
源頼朝によって再興され 承久年間(一二一九~一二二一)
河野通信が社殿の改修をした
以降河野氏歴代の庇護を受けた
慶長八(一六〇三)年 加藤嘉明が近郷の八社八幡を
松山城の固めとし 当社もその一つとして武運長久の祈願所となった
松平(久松)氏も松山城鎮護として崇敬した
中殿に奉斎する伊予比売命は 伊予豆比古神社にまつられる
伊予比古命とともに 元は夫婦神として
久米郡古矢野神山にまつられていたが 洪水で流され
今では分かれてまつられていることで 有名である
社名は久米八幡宮から 中古には山の名前をとって
日王八幡宮と呼ばれ 後日王を日尾に改称したといわれる
松 山 市
松山市教育委員会
雄郡神社 由緒
当國史見在社(旧縣社)は 天宇受売命(あめのうずめのみこと)を
主神と仰ぎ 松山市の三分の一の氏神として
その宮居を小栗町に占め 神徳古来遠近に遍き古社であります
当社は一般に八幡様として知られていますが
これは用命天皇の御代に 筑紫の宇佐から八幡三神を勧請したのに
因むのであります
主神天宇受売命(福運の神)奉斎の年代は
慶長年間 関ヶ原役の地方戦において 当社がその兵火に遭い
難を蒙ったため 史実に徴すべきものがありませんが
八幡神合祀のことから推しても 極めて遼遠悠久なことが 判るのであります
もと当社四方八方に余る神域を有し 今の社地より遥か西方に大鳥居があり
神苑の古樹鬱蒼として茂り 宏荘なる社殿 その間に聳えていたのでありますが
前記関ヶ原役に 社殿宝蔵悉く灰燼に帰したのであります
今往時を偲ぶものとして 加藤嘉明手植の松(左馬殿の松)
薦田・宮窪・金砂田・古屋敷等の遺跡があります
各謂れのある神社でありますから 神威古より弥高く
陽成天皇の朝に御贈位があり 御三條の御代には
伊豫守頼義(八幡太郎義家の父)が領内八ヶ所の八幡宮を定め
その一社として崇敬の誠を捧げ 加藤嘉明松山に築城後は
彼も亦深く当社を尊崇 旧藩主久松家に至っては
道後の伊佐爾波・味酒の阿沼美両社と共に藩の三社と崇め
社殿を寄進し家紋を献じて奉斎の誠を尽くされたのであります
日招八幡大神社(ひまねきはちまんだいじんじゃ)
松山の八社八幡の五番社
祭神は 品陀和気命 息長帯姫命 宗像三女神 である
社伝によれば 越智益躬(おちますみ)が筑紫国から勧請したが
大同年間(八百六~八一〇)大納言雄友卿が痘瘡を患って
この社に祈り平癒したので 伊予痘瘡宮として民間の信仰を集めた
元慶年間(八七七~八八五)に 八幡神を合祀し
岩清水八幡宮と号したという
元暦元(一一八四)年 佐々木四郎高綱が入国し
砥部荏原の城主森山・大野の一族と戦った時 勝利目前に日が傾くのを嘆き
八幡神に祈願をして 太陽を呼び返し 大勝した
高綱は 日招八幡宮と改称し 社殿の改築 神領の寄進をしたと伝えられる
『伊予古蹟志』では 高綱ではなく 佐々木三郎盛綱のこととしている
松山城築城のとき 石を頭に載せて 松前から運んだ
「おたたさん」のひとりであるお豊さんが この地まで来て倒れた
そのとき運んでいたという 丸に二の字の印を刻んだ大きな石が境内にある
松 山 市
松山市教育委員会
山内神社 縁起
当社は旧松山藩士 山内興右衛門久元君の 御霊をお祀りしてあります
君は土佐の国主山内公の支族です
禀性は謹厳実直で 特に藩政に心を注ぎ?進し卅二才にて
目付役を仰せ付けられる程の英才でした
時に享保の大飢饉あり 餓死者三千数百名を数う惨状となり
主命で 江戸より差遣わされた君は
領内隈なく踏査し その対策と窮民救済を上申いたしました
その頃悪家老達は 城主江戸詰を好機と悪臣供を集い
主家を顛覆し自己の権威を恣にせんと盲動
藩主定英公は 心労重なって急逝しました
純忠至誠の君は 力を尽くして主家並に領民の安泰を図りましたが
奸臣達は 君を不実不忠と讒言し 藩主が幕命で蟄居謹慎後
急逝の因は君にありと 冤罪を被せ 主命なりと強いて割腹させました
然し乍ら君主家を懐う深き忠魂は魂魄となり ?々奇瑞を顕し
主君の危難を救いました
後文化十一年時の藩主定通公その忠義を誉め 当社を建立
神霊を厳敏鎌輪瓊命として お祀りしました
爾来毎年四月廿三日除難の神として大祭があります
平成二年十二月戦災焼失後再建時建立
還熊八幡神社
松山の八社八幡の七番社
祭神は 品田和気命・帯中彦命・息長帯姫命・迦具都知命である
貞観年間(八五九~八七七)越智(後の河野)氏によって
岩清水八幡を勧請して創建された
延久五(一〇七三)年 国司の源頼義により
八社八幡の一つに加えられたという
八幡神は神功皇后の伝説から 弓矢の神となり 源氏の氏神といわれた
河野氏も源氏と深い関係を持っていたので
当社への尊心は厚かった
延元年間(一三三六~一三三九)には
後醍醐天皇の皇子懐良親王が 武運長久を祈願したと伝えられている
慶長五(1600)年 関が原に出陣した加藤嘉明の
留守をねらって 河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し
佃十成と戦ったとき 当神社に立てこもった河野一族は敗北し
社殿 宝物等すべてが焼失した
のちに 松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し
八社八幡の一社として崇敬した
『愛媛面影』に「旅行する人此社詣(づ)れば
必(づ)恙無くかへり来とて信ずる人多し
還熊と云(ふ)名によるなるべし」とある
松 山 市
松山市教育委員会
矢取宮 由緒 沿革 再建
矢取宮は「遠く長寛年間 鎮西八郎源為朝公が 伊予に下り
河野親清公に拠り 常に弓術を練磨し 五十猛神を尊信した
弓術の奥儀を悟るに際し 神祠を建て 五十猛神を祭り
矢取宮と称したという」に 起源いたすのであります
爾来ここに八百余年 北山越 北組の守護神として
五穀豊穣 家内安全等に 霊験あらたかでありまして
組内の尊崇するところでありました
更に 五十猛神の御神徳にちなみ 青少年鍛錬の勇武の神として
代々松山藩主並びに住民の崇敬するところであったと
伝えられております
その後 近代に至りましても 組内に「講」を編成いたしまして
輪番制で祭事を執り行ってきたのであります
また少年達は四季ごとに集団参拝を実施して心身の鍛錬の一助になす
というような行事が連綿として続けられてきたのでありました
ところが 戦後数回に亘る台風のために
社殿が大破損いたしましたので これに伴い
信迎的諸行事も一時中断のやむなき状態に立ち至っておりましたが
このたび地区内崇敬者の方々のご熱意によりまして
社殿再建ここに竣工の日を迎えました
私達の祖先が数百年の永い間守り続けてきた
信仰の灯を 皆様方とともに復活し 後世に遺し得ますことは
崇敬者一同無上の光栄と存ずる次第であります
昭和五十七年四月吉日
矢取宮社史調査担当