確かお稲荷さんだったと思います
しかし 前にいるのは 唐獅子さん
春日神社の唐獅子より 一回り小さな唐獅子さんです
小さくても ちゃんとお社を守っています
革嶋春日神社由緒
住吉より 山城国葛野郡川嶋荘に祭られて来た神社で
春日大神(建御賀豆智命・伊波比主命・天児屋根命・比売神)を
祭神とする
この社を守り伝えてきた革嶋家は 清和源氏の流れの佐竹氏であるが
鎌倉時代 近衛基通の縁故によって 川嶋荘の荘官となり
革嶋姓を名乗り のち地頭として この地を領有するところとなった
その故に 藤原氏の氏神としての 春日神社を荘園の
守護神としたのであろう
革嶋家に伝わった古文書一六三〇点は 鎌倉時代から明治に至る
川嶋荘の歴史を物語る貴重な資料で 現在は革嶋家より
京都府立総合資料館へ寄贈され 平成十五年重要文化財に指定されています

創建
貞観十八年(876)四月十八日下桂御霊神社の祭神として
勧請する(1117年前)
桂光院智仁親王(桂宮)より 御水尾天皇ご使用の鳳連輦うぃ神輿として
下賜 また御水尾天皇御宸翰「御霊宮」の勅額を下賜される
祭神 橘逸勢公
逸勢公は 平安朝の元勲であり また すぐれた能書家で
嵯峨天皇、僧空海とともに三筆と称せられた
伊都内親王願文 興福寺銅燈台扉銘は 何れも公の手になる
代表の書として有名である
本邦 御霊八社の一つである
下桂御霊神社
祭神 橘逸勢公
逸勢公は平安初期の能書家で 嵯峨天皇、僧空海とともに
三筆と称せられる
当社は書聖を神として祀る 全国でも珍しい神社である
貞観十八年 下桂御霊神社祭神として勧請した(1106年前)
当社は皇室の尊崇あつく 桂宮代々の親王より
神輿 「御霊宮」の勅額(何れも現存)社領水垣などを寄進された
沿革
日出神社は但馬神話で 出石を中心とする但馬地方を治めた
天日槍(あめのひほこ)の四世「多遅摩比多詞(たじまひたか)」を祭神とする
神社の創立は明らかでないが
延喜式に但馬国出石郡の小社と記された式内社である
現本殿の建立は 建築様式技法から考察して
室町時代末期の16世紀初頭と考えられ
その後 宝永元年(1704)享保11年(1726)
明治21年(1888)に 修理したことが 棟札によって知られる
解体修理は 昭和48年に着手し 翌昭和49年11月に工事を完了している
構造形式は旧規を踏襲し 後世改変された箇所は資料にもとづいて復旧し
覆屋も撤去して 当初の姿に修復された

なんじゃもんじゃの木
(俗名 縁結びの木)
植物名 カゴノキ(クスノキ科)
奇妙な木じゃのう、これはいったい「何ちゅう物じゃ」
名前のわからない珍しい木のことをなんじゃもんじゃの木といいます
「何というものか」という意味です
カゴノキの特徴は、木の皮がまるくはげ落ちて
ちょうど鹿の子まだらのようになることです
鹿の子の木というところから この名前がついたのでしょう
カゴノキは雌雄異株で この木は雄の木です
このように大きなカゴノキは大変珍しいものですが
その上ツバキの大木をふところにしっかりと抱きかかえているのは
他で見ることができません
昔から 縁結びの木としてしたわれ 徳神社の神木として
また出石町の名木として 末永く大切に保存していきましょう
出石町観光協会・奥山観光組合



福知山市指定文化財
この石造鳥居には 明神鳥居と呼ばれる標準的な形式が用いられています
柱間は 二九〇センチ 石柱の直径は三四センチあり
二本の石柱は若干内ころび(八の字形)に建てられ 高さ二〇〇センチのところで
貫(ぬき)と呼ばれる石柱により繋がれています
石柱の頭頂部には 反りをもった島木と笠木が 重ねて渡されており
笠木と貫の間には 篇額をかける為の束が つけられていますが
篇額はかけられておりません
通常 石柱の根本には 亀腹と呼ばれる饅頭状の石が使用されますが
この鳥居には使用されていません
右柱には 元禄一〇年(一六九七)に建立された旨と
「願主当村高山喜右衛」の銘があり
左柱には 建立に関わった氏子の名が記してあります
福知山市教育委員会
公庄熊野神社の狛犬
銘文は普通 基壇に書くことが多いのですが
この狛犬は胸や腹などの身体部分に彫られています
石は笏谷(しゃくだに)石で 別名 越前石といわれます
現在の福井市足羽山で産出した
軟質で 加工が容易にできる凝灰岩です
福井から海岸の三国湊まで船で素材の石を運び
三国の石工が狛犬に仕立て上げ
由良川を上がってきたと考えられます
宝暦九年(1759)の作品で 像高は53センチの小像ですが
少しの痛みもなく保存されています
古い作品なので 見た目には簡素に見えますが
魔除けや守護獣としての役割を 存分に果たしていたと思われます
両足を斜め前に出し 向って右側の阿形(獅子)は上向き加減に頭を上げ
大きな口を開いています
左側の吽形(狛犬)は口を閉じているのですが 2本の牙と歯を見せています
文 福知山史談会会長 塩見昭吾氏


四十七義士を祀る
大願成就の神 赤穂大石神社
御祭神
義士の頭領大石内蔵助良雄命を始め四十七義士命、中折の烈士萱野三平命、
播州赤穂城主浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の三候
浅野家断絶後の藩主森家の可成・長可・忠政・可隆・蘭丸・坊丸・力丸の七武将
由緒
大石神社は明治元年 明治天皇の東京行幸に際し 泉岳寺の義士墓前に
宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に 神社奉斎の議が起こり
明治三十三年神社創立が公許され 大正元年十一月三日義士を崇敬追慕する
方々の奉賛により御鎮座となった
御祭神四十七義士が一年十ヶ月の永い間艱難辛苦の末 見事主君の仇を討った
事により大願成就、願望成就の神として 全国よりお参りいただいている
境内地は大石内蔵助 同じく家老の藤井又左衛門そして義士片岡源五右衛門
大石瀬左衛門の邸跡一帯である
尚 ご社殿を始めとする境内各施設は平成十四年の義士討ち入り満三百年を
記念した境内整備事業により一新された
日吉神社由緒
正保二年(一六四五)浅野長直公が常陸国笠間より赤穂藩主として入封された
当時 この地域は海辺の広大な沼地であったので
翌年より 鳥撫村戸嶋の土を運び干拓に着手し
五年の歳月をかけて九十五町歩余の水田を造成された
田地の造成によって 当地域を戸嶋新田村(後に新田村)と名付け
近隣の村から人々が入植して住民が定着してきたので
浅野長直公は承応元年(一六五二)五穀豊穣 村内安全を祈願して
山王権現(現滋賀県大津市の日吉神社)を勧請して当社を創建し
田三反寄進された
祭神は大山咋神・香山戸神・羽山戸神の三兄弟神である
延宝六年(一六七八)には浅野長直公・長友公・長矩公が御願人となり
社頭を建立された
浅野家廃絶後 永井家に次いで森長直公が赤穂藩主として入封され
宝永七年(一七一〇)御願人として本殿・拝殿・鳥居等を建立された
以後代々の藩主は当社の護持に意を注いだ
特に忠哲公(八代藩主)は崇敬の念篤く 文化三年(一八〇六)御願人となり
幣殿・拝殿を改修された また 度々参詣のため社前に馬繋場を造られた
以下略